妖精の姉妹
夜明け前の、まだ冷たい空気が部屋を包んでいた。
カーテンの隙間から射し込む、淡い光の筋。
その中で、スミレは静かに座り込んでいた。
顔を伏せ、肩を震わせながら──彼女は、自分の記憶と向き合っている。
蓮が隣にいる。そのことが、彼女には救いでもあり、痛みでもあった。
何も言わず、ただそばにいてくれる。
その優しさが、胸を締めつける。
優しくされるたび、自分の罪が、よりはっきりと突きつけられる気がして。
けれど、もう──言わなければならない。
自分がしてしまったことを、すべて。
「……私は──」
かすれた声。喉が詰まり、涙がにじむ。
それでも、スミレは絞り出した。
「私は……あの日……確かに、この手で……イシュタルを……焼いたの……」
その言葉は、彼女にとって、最も重く、最も苦しい告白だった。
蓮は息を呑み、真剣なまなざしで彼女の声に耳を傾ける。
「……あの頃、私はまだ子どもで……母や父、イリアに構ってほしくて……寂しかったの。どうしようもないほど……ただ、少し驚かせたかっただけなの。覚えたての火魔法で、ほんの……小さな火遊びのつもりで……」
幼かった彼女には、それがただのイタズラに思えた。
けれど、小さな火種は瞬く間に広がり──すべてを飲み込んでいった。
家も、友達も、家族も。
大切なものを、炎は何もかも奪っていった。
「……私……」
スミレは、拳をぎゅっと握りしめた。
誰にも気づかれないまま、孤独と怒りを心の底にため込んでいた。
そして無意識のうちに、その感情は暴走し……炎となって溢れ出た。
続きを口にしようとしたときーー蓮の手が、そっと彼女の肩に触れた。
「……スミレ」
優しいけれど、確かに届く声だった。
「もう、十分だよ。……スミレのこと、ちゃんとわかってる。だから──俺は、お前を離さない」
言葉だけじゃない。
そっと重ねられたその手が、蓮の存在そのものが、スミレにとっての救いだった。
スミレは、涙でぐしゃぐしゃになりながらも、ほんのわずかに、微笑んだ。その目に、かすかな光が宿る。
──その静寂を破るように、扉が軋む音が響いた。
現れたのは、イリアだった。
涙の痕を残した顔に、それでも確かな意志が宿っている。
スミレは震える手で自分を抱きしめながら、イリアから目を逸らさなかった。
イリアは、静かに歩み寄り、スミレの前に立つ。
その瞳には、冷静さと、姉としての深い愛情が混ざっていた。
「……マリア。あなたのしたことは、きっと誰にも……簡単には、許されない」
その言葉は、鋭くも、ただ責めるだけのものではなかった。
「でも……だからこそ、逃げることだけは、絶対に許さない」
イリアの声には、揺るぎない強さがあった。
「生きて。生きて、償い続けなさい。──あなたは、私の妹なんだから」
その言葉が、スミレの胸に深く、強く響いた。
「……生きて……」
その響きが、かすかな希望となって、彼女の中に芽吹いていく。
スミレは嗚咽をこらえきれず、涙を流しながら声をしぼり出した。
「ごめんなさい……イリア……ごめんなさい……っ」
イリアは、スミレの小さな肩をぎゅっと抱きしめ、震える彼女の髪を優しく撫でた。
「マリア。あなたがどんな地獄を歩こうと……私は、あなたのお姉ちゃんよ」
その声は、温かくて、どこまでも強かった。
「あなたを、最後まで愛してる」
スミレはイリアの胸に顔を埋め、涙をこぼしながら呟いた。
「……イリア……あなたが生きていて、よかった……」
その想いは、まだ形にならない。
けれど、イリアの言葉は確かに、スミレを前に進ませる力になっていた。
部屋の中に、静寂が訪れる。
しばしの間、二人は何も言わず、ただ寄り添っていた。
蓮もまた、言葉を飲み込み、その時間を壊さぬように目を伏せる。
カーテンの隙間から射す朝の光が、床に淡い輪を描いていた。
その中で、三人は、過去の痛みと、これから背負うものの重さを噛みしめていた。
しんとした空気のなか、誰もが胸の奥で、何かを受け止めようとしていた。
──そのとき、再び扉が軋んだ。
入ってきたのは、ホクトだった。
その瞳には、厳しさと、そして確かな温かさが宿っていた。
ホクトは三人を見つめ、静かに口を開いた。
「……お前たちに、伝えなければならないことがある」
その一言に、スミレも、イリアも、蓮も、息を呑む。
少しの沈黙のあと、ホクトは重く言った。
「──お前たちの母親……アンネは、五大悪魔の一人だった」
空気が凍りついた。
「……お母様が……?」
イリアが、震える声で問い返す。
ホクトは、静かに頷いた。
「そうだ。アンネは、サタンの血を宿していた。そして──その血は、お前たちにも流れている」
重く、逃れようのない真実だった。
三人とも、言葉を失って立ち尽くす。
ホクトはスミレを見つめたまま、言葉を続ける。
「……シェリー。炎の中で泣いていたお前の姿を、今でも覚えている」
その声は穏やかで、どこか切なさを孕んでいた。
「俺は……その姿を見て、お前を匿うと決めた」
ただ事実を語る声だった。
「……お前の内に眠るサタンの力が、無意識の怒りと悲しみによって目覚めた──そのことを、知っておいてほしかった」
スミレの瞳が揺れる。
イリアもまた、苦しげに顔をしかめた。
「……どうして……?」
スミレが問いかける。
ホクトは少しだけ目を伏せ、それからまっすぐに彼女を見つめて言った。
「お前は生きている。その命で、何をするか──それを選べ」
その言葉は、静かに、確かに響いた。
誰もが息を潜めていた──そのときだった。
空気が一瞬、揺らいだ。
「ようやく……ここまで辿り着いたかい」
どこか柔らかく、それでいて底知れぬ声。
振り返ると、そこに──白銀の髪を揺らす女が立っていた。
その瞳に宿るのは、深い深い闇。
ラミアだった。
蓮が息を呑み、立ち上がる。
「……お前……あの時のっ……!」
ホクトも険しい顔で睨みつける。
「やはりここは……お前の住処だったか、ラミア」
ラミアは微笑みを崩さず、ゆっくりと視線をめぐらせる。
「久しいな、ホクト。我に会えて、嬉しかろう?」
ホクトは何も言わず、意味ありげに目を細める。
蓮は、彼らが以前から面識があったことに気づく。
そして、ラミアの視線は、スミレとイリアへと向かう。
「……アンネのことが、知りたいかい?」
その声に、スミレの肩がぴくりと震えた。
イリアも、一歩前に出る。
「お母様は……生きているの?」
問いに、ラミアは首を横に振る。だが、笑みは消えなかった。
「……死骸は、見つかっていない。誰も見ていないのさ──彼女の“最期”を」
「それって、どういう意味……!」
蓮が詰め寄るが、ラミアは楽しげに目を細める。
「“まだ”終わっていないのさ。彼女の物語も……お前たちの物語も」
意味深な言葉。けれど、ラミアはそれ以上を語らない。
ホクトが低く問う。
「アンネは、どこだ」
ラミアは、ふと目を伏せる。
「……我も、今探しておる。まあ、そう慌てるでない」
空気が、さらに重く沈んだ。
ラミアは小さく息をつき、蓮に視線を戻す。
「すぐにわかることじゃ。──また、すぐに会おう」
その体が、うっすらと霞んでいく。
「──それまで、生き抜いておくれ」
その声を最後に、ラミアの姿は風に溶けるように消えていった。
ただ、そこにいたという余韻だけが、冷たい空気のように残されていた。
「……消えた……?」
イリアがつぶやく。
蓮もまた、喉の奥に何かを詰まらせながら、ただその場に立ち尽くしていた。
【お知らせ/2025.6.29】
本編に登場するキャラクター《美穂》のスピンオフを連載することになりました!
タイトル:「ハーフエルフは、一人で歩く。」
本日より連載スタートです!
全6話の短編連載を予定しております。
美穂の過去に少しでも興味がある方、ぜひ覗いていただけたら嬉しいです。
(読後に本編がより深く読めるようになっていたら……作者冥利に尽きます)




