懺悔
──これは、夢の中だった。
焼け落ちる街。
鼻をつく焦げ臭と、遠く響く悲鳴。
空は黒煙に覆われ、赤い光が、瓦礫の隙間からじわじわと滲んでいた。
その中で、誰かの声がした。
かすかに、震える、細い声。
「……だれか……」
振り返った先に、少女がいた。
しゃがみ込み、顔を両手で覆い、声を殺して泣いている。
──スミレだった。
蓮の胸が、締めつけられる。
「スミレ……!」
叫んで駆け出そうとした——その瞬間、視界が、ゆがんだ。
黒い影が、にじむように立ちふさがる。
その輪郭は女の形をしていた。青白い顔、底知れぬ瞳、薄く笑う口元。
──ラミア。
だが、それは現実の彼女ではない。
蓮の中に巣食う“恐怖”そのものだった。
「お主には、彼女を守れぬ」
その声はやわらかく、だが凍えるように冷たい。
「お主の中には、まだ眠るものがある……ふふ……もうすぐ、目覚めようぞ」
耳の奥で、心臓が狂ったように打ち鳴る。
頭が割れそうだった。足がすくむ。叫びたいのに、声が出ない。
——誰か……誰か、止めてくれ……。
蛇の這うような音が、地面を這う。
足元に伸びた影が、蓮の足を絡め取る。動けない。逃げられない。
「さあ、おいで。我と共に、真実の世界へ」
ラミアの冷たい指が、蓮の頬に触れようとした——そのときだった。
背後から、声が響いた。
低く、確かで、あたたかい。
風が吹き抜けた。
剣を構えた男が、闇の中に立っていた。
赤い髪。隻眼。
まっすぐに伸びた背中。迷いなく、蓮の前に立ちはだかるその姿に、胸がざわめいた。
「離れろ」
静かだが、鋼のような威圧を帯びたその声。
ラミアの笑みが、ぴくりと歪む。
「ほう……お主が、ここまで入り込んでくるとはのう」
「……蓮は、渡さない」
男の声が、蓮の意識を強く引き戻す。
一歩、近づく背。
振り返ることなく、ただその背中で蓮を守る。
その姿に、蓮はどこか──懐かしさを覚えていた。
──誰なんだ。
──なぜ……こんなにも、安心するんだ……?
ラミアの姿が、ふっと霧のように崩れていく。
闇が渦巻く中、男が蓮に手を伸ばし——
「もういい。目を覚ませ、蓮」
耳元に、その声がはっきりと響いた。
──そして、意識が浮上した。
背中を貫いていた激しい痛みは、嘘のように消えている。だが、どこか、重たく痺れるような違和感が残っていた。
ぼやけた視界の先に、誰かの姿が見える。ピントが合うにつれ、その輪郭がはっきりしていく。
「……ホクト、さん?」
掠れた声が漏れた。
混乱する意識の中で、蓮の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
その瞬間だった。
背中が、ぞわりとざわついた。
あの冷たい感覚。
皮膚の内側から、異物がうねるように膨れ上がっていく。
──竜化が、始まっていた。
「っ、あ……!」
蓮の身体が震える。
理性とは裏腹に、熱を帯びた血が暴れ、形を変えようとする。
抑えられない。
「蓮、落ち着け。呼吸を整えろ」
ホクトが一歩近づく。
その瞳はまっすぐに、迷いなく蓮を見据えていた。
「いいか。最初から翼が生えていたと思え。イメージしろ。それは《《自由自在》》に出し入れできる、と」
落ち着いた声が、蓮の動揺する心をつなぎとめる。
「ゆっくり息を吸え。深く吐け……その翼を、自分の意志で仕舞うんだ」
蓮は必死に呼吸を整える。
震える指先を握りしめ、頭の中で何度も何度も繰り返す。
──これは、自分の一部なんだ。
背中で暴れようとしていた熱が、徐々に引いていく。
皮膚の奥に、力が戻っていく感覚。
──翼が、収まった。
蓮が安堵したのも、束の間だった。
「……ッ、うっ……!」
胃の底から突き上げるような吐き気。
堪えきれず、膝をつき、その場で嘔吐した。
汗が滲み、視界が再びにじむ。
それでも、しばらくして、蓮はなんとか顔を上げた。
目の前に、ホクトがいた。
何も言わず、ただそこに──静かに、立っていた。
耐えられなかった。
もう、誤魔化すことも、目を逸らすこともできなかった。
「──父さん、なの?」
震える声だった。
確信と、恐れと、願いが滲んでいた。
ホクトはわずかに眉をひそめ、静かに答えた。
「未彩は……元気か?」
そのひと言で、すべてが、確定した。
堰を切ったように、蓮の目から涙がこぼれた。
止まらなかった。
声にならない嗚咽が、ただただ、こぼれていく。
ホクトは、何も言わずにそこにいた。
どんな言葉よりも、「そばにいる」という選択で。
だがそのとき、蓮の脳裏に──もう一人の大切な存在がよぎる。
蓮は、はっと顔を上げた。
「……スミレは……!?」
掠れた声で、必死に問う。
「今すぐスミレに、会わなきゃならないんだ!」
蓮はふらつきながら立ち上がる。
ホクトが静かに答えた。
「──別室にいる。だが今はイリアが──」
その言葉を最後まで聞くより早く、
蓮は駆け出していた。
涙を拭う暇もない。
頭の中には、スミレのことしかなかった。
──今すぐ、スミレの元へ。
***
木のきしむ音と、誰かのすすり泣く声が、静かな家の中に微かに響いていた。
蓮は荒い息を整えながら、重い扉を押し開けた。
──そこに、いた。
「……スミレ」
思わず、声が漏れた。
部屋の片隅で、スミレが膝を抱えて座り込んでいた。
肩を震わせ、顔を伏せ、痛ましいほどに小さくなって。
そして──その前に立っているのは、イリアだった。
スミレの名前を呼んだ蓮を一瞥もせず、イリアはただ、スミレを見つめていた。
その表情は、哀しみと、怒りと、愛情と、絶望がないまぜになっていた。
スミレが、嗚咽混じりにかすれた声を漏らす。
「……ごめんなさい……っ、私……わたし、思い出したの……」
震える声に、蓮は胸を締めつけられる。
スミレの細い背中が、泣きながら必死に言葉を搾り出していた。
「私が……イシュタルを……
……全部、焼いたのは……私だった……
……父さんも……母さんも……全部……私が……っ……!」
イリアの顔が、引きつった。
スミレの告白に、イリアは一歩、後ずさった。
「やめて……!」
震えた声が、部屋を裂くように響く。
「やめてよ……!!」
イリアの頬を、大粒の涙がつたった。
「私……ずっと……奇跡だと思ったの……!
あなたが、生きていたって、知ったとき……夢みたいだって……!」
こぼれる声は、もはや叫びだった。
「でも……! 私が、ずっと探していたその相手が……父さんと、母さんを殺した……妖精国を焼き尽くした……全部──あなた……だったなんて……!!」
イリアは、目を見開き、スミレを見下ろした。
そして、震える唇で、か細く言った。
「……なんで……生きてたの……?」
その言葉に、スミレの顔がくしゃりと歪んだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
嗚咽とともに、スミレが地に額をつく。
その手は、爪が食い込むほどに床を掴んでいた。
蓮は、思わず駆け寄りそうになった。
けれど、ぎりぎりで足を止めた。
──今、これは、俺が入るべきじゃない。
歯を食いしばり、拳を握り締める。
イリアもまた、必死で何かを押し殺すように、肩を震わせた。
小さな声で、震えるように呟く。
「……私は……あなたを憎みたくない……
でも……っ、今は……っ……!」
絞り出すような声だった。
イリアの瞳が震える。
口元を手で押さえ、堪えきれず一歩、後ずさった。
「私……どうしたらいいかわからないの……マリア……」
震えた声と共に、イリアは踵を返した。
泣きそうな背中を、無理やり遠ざけるように、部屋を飛び出していった。
扉が激しく閉まる音が、部屋の空気を震わせた。
──静寂。
残されたのは、ただ泣きじゃくるスミレと、立ち尽くす蓮だけだった。
スミレは、音もなく崩れ落ちた。
指先を床に押し付け、肩を震わせ、嗚咽を必死に飲み込んでいた。
「わたし……わたし……どうして、生きてるの……」
絞り出すような声。
すべてを責める声じゃない。ただ、自分を責める声だった。
「もう、許されない……あの国も、家族も、みんな……わたしが……」
呼吸が浅くなる。
視界がにじみ、世界がぐにゃりと歪む。
「死んだ方が、よかったのに──」
その瞬間。
すっと、蓮の手がスミレの体を包んだ。
「スミレ──」
名前を呼んだ声には、震えがあった。
スミレはびくりと体を震わせたが、抵抗することなく、蓮に身を預けた。
「ごめん……ごめんなさい……蓮……私……っ……」
スミレは蓮の胸に顔を押しつけながら、必死に謝り続けた。
「私……死んだほうがよかったのに……っ
こんな……私……」
「違う」
蓮は、強く言った。
「スミレが生きててくれて……本当に良かった。
何があったって、それだけは絶対に変わらない」
腕に、ぎゅっと力がこもる。
スミレの体は、壊れそうなほど細く、
泣き声は、途切れ途切れだった。
それでも、蓮は離さなかった。
「一緒に背負おう。
一人で苦しまないで……スミレ」
胸の奥から溢れ出すような声だった。
「これからは、俺がいる」
自分の心臓の鼓動が、スミレに伝わるくらい近い。
蓮は、スミレの涙も、震えも、すべて受け止めるように、そっと背中を撫でた。
どれだけ泣いてもいい。
どれだけ苦しんでも、もう、ここにいる。
──二人で。
スミレは、ぐしゃぐしゃに泣きながら、
ただ、かすかに、蓮のシャツを握り返した。
言葉はなかった。
けれどその温もりだけが、痛いくらいに、確かだった。
静かに、静かに、夜が更けていった。




