蛇の巣穴
蓮の目の前に立つその存在は、異様だった。
銀の長い髪は、月光に溶けるように光を帯び、背中に流れている。
瞳は、深い深い紅。まるで地の底から湧き上がったかのような、底知れぬ輝き。
そして──その足元から、無数の蛇が這い出していた。
黒く、艶めいた鱗が蠢き、地面を這うたびに、ぞっとするような音を立てる。
蓮は一歩、後ずさった。
体の奥が本能的に、警鐘を鳴らしていた。
「怖れることはない」
彼女──ラミアは、静かに微笑んだ。
その微笑みは甘く、肌を撫でるどころか、じわりと蓮の心に絡みつく。
「我は、お主を傷つけには来ぬ。……お主を、迎えに来たのじゃ」
その声は、蜜のように甘やかだった。
だがその甘さの奥底には、抗いがたい毒が潜んでいる。
まるで、今すぐこの声に身を委ねれば、二度と戻れない場所へ引きずり込まれてしまうかのように──。
「……どういう、意味だ。お前は……誰なんだ?」
問いかける声が震えたのは、冷たく湿った空気のせいだけではなかった。
ラミアは微笑みを深める。
その美しくも禍々しい存在感は、まるで、肉体を持たぬ幻想のように異質だった。
「我が名はラミア──この世界の神に匹敵しよう存在。いずれ、そのすべてが明かされよう。そのためにも、まずは……」
彼女は、蓮へと一歩、近づく。
蛇たちも彼女の足元にまとわりつき、ひとつの波のように動いた。
「お主自身を、知るがよい」
ラミアは妖しく微笑み、蓮の頬に指を這わせた。
その指先はひどく冷たく、それでいてどこか甘やかな熱を孕んでいた。
蓮の心臓が、不意に跳ねた。
指先が触れた一瞬、彼女が何かを見透かしたような感覚が走る。
目を逸らしたくても逸らせない。何か、もっと根源的なところを見られている──そんな錯覚。
そして、静かに紡がれる声が、脳に直接響いた。
「……本来、人間から翼が生えるなどあってはならぬことじゃ」
動けない。逃げることも、抵抗することも、全てが無駄に思えた。
ただ、ラミアの冷徹で美しい微笑みに視線を奪われ、心の奥で恐怖が蠢いていた。
「ーーそれでも、お主の背からは確かに翼が生えておる。それも、竜族の、立派な翼がのう」
それはただの言葉ではなかった。
ラミアの言葉は、蓮の体の奥深くまで届き、揺さぶりをかけてきた。
蓮はふと、自分の背中に手を当てた。その感触──骨のように硬く、鱗のようにざらざらしたものが広がっている。
「つまり、今のお主は限界を超えている状況なんじゃ。本来起きることがない、異常な状態が身体で起きていることになる───」
背筋を貫くような違和感が次第に大きくなっていく。
蓮は目を見開いた。
「……まさか」
その瞬間、背中に激しい痛みが襲った。
体内の臓器が乱れるような、想像を絶する激痛が背中から内臓へと伝わっていく。
雷に打たれたような衝撃が、全身を駆け抜け、蓮はその場に倒れこみそうになった。
「うぐっ……! 痛いっ!」
目の前がぼやけ、意識が途切れそうになる。
蓮はその場にひざまずきながら、必死に意識を保とうとした。
「背中がっ……! 痛い……! 痛い痛い!」
声にならない叫びが漏れる。
背中の奥から湧き上がる激痛は、体を支配するすべての力を奪い取ろうとしていた。
その苦しみの中で、蓮はようやく悟った。
──自分の中に、眠っていた力があったのだ。
だが、それはただの力ではない。
「竜族の血」と呼ばれる、古き存在が目覚める瞬間だった。
ラミアの笑みが、今まで以上に深く、冷徹に広がった。
その笑顔は、今や恐ろしいものに感じられた。
まるで蓮がどんなに苦しんでも、彼女の計画の一部でしかないかのように。
「その痛みが、覚醒の証。お主は、もう元の姿には戻れぬ」
その言葉が、蓮を震え上がらせる。
彼の体は、自分の意思ではどうしようもないくらいに変わろうとしていた。
意識が遠くなりそうになる中で、蓮はただ一つ確かなことを思った。
──自分は、この世界において、ただの人間ではない。
その瞬間、背中から広がる翼が強く震えた。
鱗がひとつひとつ、音を立てて膨らみ、翼の形を成していく。
激しい痛みに耐えながらも、蓮はその変化を見守ることしかできなかった。
ラミアの目が、その変化をじっと見守っている。その目は、冷徹でありながら、どこか満足そうに見えた。
「目覚めよーー」
その声は、蓮の耳に届くことなく、夜空に溶け込んだ。
そして、目の前に立つラミアの姿が、いっそう曖昧に、そして恐ろしいものに感じられた。
その不可解さに、蓮の中で沸き上がった不安と恐怖が膨れ上がった。
それでも、あまりの痛さに意識が遠のく。
脳裏にスミレが浮かぶ。
──スミレ、!
蓮はそのまま意識をなくした。
***
空は混沌に包まれていた。
完全変異を遂げたザイラスが、猛る獣のように咆哮しながら暴れ回る。
その周囲には、彼に呼応するかのように無数のサタンたちが蠢いていた。
その中央に立つのは、ホクトとイリア。
二人は背中合わせに立ち、迫りくる敵を睨み据えた。
黒き翼を広げたザイラスの姿が、空の向こうに揺らめく。
──かつて誰より信じた男の、変わり果てた姿。
イリアの目がわずかに揺れた。
けれど、その震えを押し込めるように息を整えると、唇を引き結んだ。
「ホクトさま……」
彼女は静かに、だが強く言葉を紡いだ。
「さっそく、中立宣言のもと、共に戦わなければならないようですわね」
わずかに唇を吊り上げ、イリアは笑う。
その顔には、覚悟と、かすかな憂いが滲んでいた。
ホクトは短く頷いた。
「……無論だ」
剣を肩に担ぎ直し、視線をザイラスへと向ける。
イリアもまた、魔力を練り上げながら、ふとホクトを見た。
その瞳は、戦いの熱に煌めきながらも、どこか切実だった。
「この戦いが終わりましたらーーマリアを……彼女に、会わせてくださる?」
一瞬、ホクトの眉がわずかに動いた。
だが、すぐに静かに応じた。
「……ああ」
イリアはそれだけで、満足げに微笑んだ。
そして、両手に光の弓を生み出すと、目前の敵へ向けて矢を放った。
怒りに狂ったザイラスが、黒く染まった翼を広げ、突進してくる。
ホクトはその爪を、真正面から受け止めた。
「ぐぅ……っ!」
重い衝撃が、骨まで響く。
だが、退かない。
「姫、押すぞ!」
「ええ!」
息を合わせた二人の一撃が、ザイラスの動きを一瞬止めた。
その隙を逃さず、イリアが光の鎖を放つ。
鎖はザイラスの四肢を絡め取り、空中に縛り付けた。
「ぐあああああああ!!マリアを、よこせぇぇえええ!!!!」
激しく暴れるザイラスを、ホクトが大剣で抑え込む。
その姿は、空の要塞のようだった。
だが──周囲のサタンたちは、なおも数を減らすことなく押し寄せてくる。
イリアが短く息を呑んだ。
「まずいわ……!」
ホクトも状況を即座に見極めた。
このままでは、ザイラスの拘束を保ちながら全員を捌くことは不可能だ。
ましてや、蓮とスミレの安全も確保しなければならない。
「──一時撤退だ」
低く、しかし揺るぎない声で、ホクトが告げた。
イリアも即座に頷く。
「了解ですわ!」
二人は拘束したザイラスを光の結界に封じ込めると、残る敵の群れを切り裂きながら後方へと退いた。
空に、銀と金の光の軌跡が閃く。
その刹那──
ホクトの瞳には、蓮たちが墜落した森の方角が、はっきりと映っていた。
(待っていろ、蓮──)
彼は剣を握り直し、イリアと共に、疾風のように空を駆けた。




