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【完結】狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第5章 美しきスミレ花の上で
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記憶の中

 ──クスン、クスン。


 小さな子供のすすり泣きが、耳の奥を打った。

 かすかに響くその声に、蓮は無意識のまま、意識と現実のあいだを漂うように歩みを進めた。


 重い足を引きずり、樹の内部へと踏み込む。

 ふわりと、空気が変わった。


 木の匂い。花の甘い香り。どこかで聞いた水のせせらぎ。

 懐かしい、けれど遠い──そんな感覚に包まれる。


 蓮は目の前に広がる樹にそっと手を当て、深呼吸をした。

 肌に感じる微かな温もり。

 それは、かつて触れた彼女のぬくもりにも似ていた。


 そして──彼女は、そこにいた。


 小さな女の子が、膝を抱えてうずくまっている。

 ふるえる肩。薄汚れたワンピース。乱れた髪。

 その幼い幻影は、なぜだか、スミレによく似ていた。


 否、似ているのではない。

 蓮は直感で悟った──彼女こそが、スミレだと。


「ごめんなさい……お父様……お母様……イリア……許して……ごめんなさい……」


 小さな声が、震えながら、途切れ途切れに懺悔を繰り返す。

 まるで罪の重さに押し潰され、呼吸すら忘れてしまいそうな、儚い声だった。


「スミレ……?」


 蓮がその名を呼んだ。


 少女は、そっと顔を上げる。

 涙で濡れた頬。

 震える瞳。

 そして、細い腕が、かすかに蓮の方へと伸ばされた。


 ──今、掴まなければ。

 彼女は、きっと、二度と戻ってこない。


 蓮は迷わず駆け寄り、少女を抱きしめた。

 彼女の体温は、かすかに、まだ、ここにある。

 今度こそ救わなければ。


 その時──


 ゴォォォッ!! 


 紅い炎が、少女の周囲を凄まじい勢いで取り囲んだ。


 凄まじい熱気が押し寄せ、蓮は思わず後退る。

 炎の中で、少女は泣き続けていた。

 その姿が、スミレと重なる──


「──っ!」


 蓮は目を開いた。


 目の前に広がるのは、現実。


 燃え盛る樹木。

 ねじれる枝。

 そして──焼けてねじれる太い枝に絡め取られ、炎に包まれ、必死に泣き叫ぶスミレの姿だった。


「──スミレ!!!」


 叫んだ声は、炎にかき消された。

 それでも蓮は、衝動的に駆け出す。


「蓮! 下がれ!! 火が──!」


 遠くでミネルが怒鳴る。

 だが、振り返らなかった。


 目の前でスミレが消え去るかもしれない──

 そんな予感に胸を締めつけられていた。


 炎は荒れ狂い、焼けるような熱が肌を突き刺す。

 皮膚がひりつき、肉が抉れるような痛みが走った。


 それでも、蓮は進んだ。

 ひとつ、またひとつ、足を踏み出す。


 ──スミレを、助けるんだ。


 熱気を切り裂くように進み、蓮は枝に捕らわれたスミレに手を伸ばす。


「スミレっ……!」


 スミレが顔を上げた。

 蓮と視線が合った瞬間、彼女ははっと我に返る。だが、口元は布で塞がれていて、声を出すこともできない。

 その目から、涙がこぼれ落ちた。


 次の瞬間、奇跡が起きた。


 ゴォッ──


 燃え盛っていた炎が、不意にしぼみ、熱風が途絶えた。

 枝を絡めていた樹も、力を失ったように崩れ落ちる。


「──っ!」


 蓮はすぐにスミレを抱き寄せる。

 ぐったりとした体。

 それでも──生きている。


「ごめん、ごめんね、スミレ。遅くなって、ごめん……」


 スミレは弱かった。

 皆と同じように、傷つきやすく、脆い心を持っていた。

 もっと早く気づけたはずなのに。

 俺は──スミレを、強いと勘違いしていた。


 頼らないように見えたのは、強さなんかじゃなかった。

 ただ、一人で、泣きながら、必死に耐えていただけなのに。


「スミレ、今助けるから」


 蓮は剣を抜き、スミレの後ろで縛られている布を切る。

 口元を解放されたスミレが、呪いが解けたように蓮の名前を呼んだ。


「蓮っ……」


 か細く、今にも消えてしまいそうな声だった。

 蓮はスミレの頬に手を添え、安心させるように微笑む。


「大丈夫、大丈夫だよ」


 スミレは蓮の胸元に顔をうずめ、声を上げて泣いた。

 赤子のように、枯れた声で、必死に。


 こんなスミレを、今まで見たことがあっただろうか。

 蓮はただ、彼女を抱き締めた。

 かけるべき言葉なんて、ひとつも見つからなかった。


 ──しかし。


「チッ、思ったより早く破られちまったな」


 乾いた舌打ちと共に、数人の影が炎の向こうに現れる。

 冷たい目が、蓮とスミレを射抜いた。


「──邪魔はさせねえよ」


 殺気が押し寄せる。

 蓮はスミレを抱きかかえ、咄嗟に身を翻した。


(今は、戦えない──!)


 焼け焦げた地面を蹴り、森のように入り組んだ樹の中を駆ける。

 障害物を避け、ただ、ただ──出口を目指して。


 何があっても、スミレを守る。

 たとえこの身が、焼き尽くされようとも。


 遠くから、足音が迫る。

 背後では炎が唸り、熱がじわじわと体を蝕んでくる。


 ただ、逃げなければ。スミレを連れて──


 突如、目の前に現れたのは、崖。目の前には、紫の海──スミレの花畑が広がっていた。

 蓮は息を呑む。

 この崖を越えなければ、進む道はない。


 ちらりと、抱えるスミレの背に目をやる。

 翼はそこにある。

 だが、力なく震え、だらりと垂れ下がっていた。

 飛べる状態じゃない──と直感した。


 死ぬわけにはいかない。

 いや──スミレを、失うわけにはいかないのだ。


「スミレ……俺を、信じてくれる?」


 蓮は震える声でそう告げた。

 スミレは力なくうなずく。


 迷いはなかった。

 迷っている暇なんて、なかった。


 だから、蓮は飛び出した。

 崖の縁を蹴り、空へ身を投げた。


 ──だが。


 空気を裂くように落下していく。

 重力に引きずり込まれる。

 あっという間に地面が近づく。


「──っ!」


 風が耳を引き裂き、目を開けていられない。

 腕に抱えたスミレの体温だけが、かろうじて蓮を現実につなぎ止める。


 怖い。

 怖い。

 怖い──! 


 心が、喉が、肺が、叫び声を上げる。

 頭の中が真っ白になりそうだった。


 落ちる。

 このまま──


(いやだ──!)


 咄嗟に、願った。

 誰でもいい。

 神様でも、運命でも、奇跡でも──


「お願いだ、誰か──!」


 崖の上から、追手たちの冷たい視線が降り注いでいた。


 ──それでも。


 蓮は、手放さなかった。

 スミレを抱き締めた腕に、ありったけの力を込める。


 たとえこの身が砕けても。

 たとえ骨が折れ、肉が裂けても。

 スミレだけは──! 


 バッサァッ!!! 


 耳をつんざく羽音が、空を切り裂いた。


 体がふわりと持ち上がる。

 落下していたはずの体が、空へ──跳ね上がった。


「な──」


 息を呑む間もなく、蓮は感じた。

 背中に。

 広がる、巨大な何かを。

 重く、しかし確かに──翼が、そこにあった。


「な、なんだ──!?」


 思わず叫んだ。

 スミレも、震える声で必死に言う。


「蓮っ、その、背中っ……!」


 背中に、重み。

 違和感。いや、違和感以上の──確かな感触。


 振り返る間もなく理解した。

 俺の背中から、翼が広がっている。


 訳が分からない。

 だが、その羽ばたきは、あまりにも自然だった。


 翼が動くたび、心の奥で何かがざわめいた。

 古く、深く、忘れていた何かが──微かに目を覚ます。


 耳の奥に、誰かの声が響いた気がした。

 懐かしい声。

 温かく、でも、どこか切ない声──


(誰だ……?)


 問いかけたくても、答えは返ってこない。

 今はまだ、思い出せない。


「蓮! 一体どうなって──」

「わかんない! でも、今は逃げるしかない!」


 蓮は翼を必死に羽ばたかせた。

 スミレを抱えたまま、紫色の海の上を翔ける。

 後ろに、ちらちらと追ってくる黒い影が見えた。

 だが蓮は、振り返らなかった。


 心のどこかで、確かに感じる。

 目覚めかけた何かが、静かに──確かに、そこにいる。

 強い日差しが肌を刺した。

 けれど、それ以上に、スミレの温もりが腕の中にあった。


「蓮……」


 弱々しい声に、蓮は小さく微笑む。


「平気だ。もう少し──!」


 昼間の空は高く、どこまでも青く広がっていた。

 ふたりきりで、ただ広がる世界を翔ける。


 ほんの一瞬だけ、そんな夢のような時間が流れていた。


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― 新着の感想 ―
スミレを守るべく、蓮も男を魅せましたね。 (*´ω`*) にしても、蓮は人間じゃなかったのですね。 鳥の獣人とか? 突如として生えた翼ですけれど、人間で無かった事実の方に驚きました。 今後、解明のエ…
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