記憶の中
──クスン、クスン。
小さな子供のすすり泣きが、耳の奥を打った。
かすかに響くその声に、蓮は無意識のまま、意識と現実のあいだを漂うように歩みを進めた。
重い足を引きずり、樹の内部へと踏み込む。
ふわりと、空気が変わった。
木の匂い。花の甘い香り。どこかで聞いた水のせせらぎ。
懐かしい、けれど遠い──そんな感覚に包まれる。
蓮は目の前に広がる樹にそっと手を当て、深呼吸をした。
肌に感じる微かな温もり。
それは、かつて触れた彼女のぬくもりにも似ていた。
そして──彼女は、そこにいた。
小さな女の子が、膝を抱えてうずくまっている。
ふるえる肩。薄汚れたワンピース。乱れた髪。
その幼い幻影は、なぜだか、スミレによく似ていた。
否、似ているのではない。
蓮は直感で悟った──彼女こそが、スミレだと。
「ごめんなさい……お父様……お母様……イリア……許して……ごめんなさい……」
小さな声が、震えながら、途切れ途切れに懺悔を繰り返す。
まるで罪の重さに押し潰され、呼吸すら忘れてしまいそうな、儚い声だった。
「スミレ……?」
蓮がその名を呼んだ。
少女は、そっと顔を上げる。
涙で濡れた頬。
震える瞳。
そして、細い腕が、かすかに蓮の方へと伸ばされた。
──今、掴まなければ。
彼女は、きっと、二度と戻ってこない。
蓮は迷わず駆け寄り、少女を抱きしめた。
彼女の体温は、かすかに、まだ、ここにある。
今度こそ救わなければ。
その時──
ゴォォォッ!!
紅い炎が、少女の周囲を凄まじい勢いで取り囲んだ。
凄まじい熱気が押し寄せ、蓮は思わず後退る。
炎の中で、少女は泣き続けていた。
その姿が、スミレと重なる──
「──っ!」
蓮は目を開いた。
目の前に広がるのは、現実。
燃え盛る樹木。
ねじれる枝。
そして──焼けてねじれる太い枝に絡め取られ、炎に包まれ、必死に泣き叫ぶスミレの姿だった。
「──スミレ!!!」
叫んだ声は、炎にかき消された。
それでも蓮は、衝動的に駆け出す。
「蓮! 下がれ!! 火が──!」
遠くでミネルが怒鳴る。
だが、振り返らなかった。
目の前でスミレが消え去るかもしれない──
そんな予感に胸を締めつけられていた。
炎は荒れ狂い、焼けるような熱が肌を突き刺す。
皮膚がひりつき、肉が抉れるような痛みが走った。
それでも、蓮は進んだ。
ひとつ、またひとつ、足を踏み出す。
──スミレを、助けるんだ。
熱気を切り裂くように進み、蓮は枝に捕らわれたスミレに手を伸ばす。
「スミレっ……!」
スミレが顔を上げた。
蓮と視線が合った瞬間、彼女ははっと我に返る。だが、口元は布で塞がれていて、声を出すこともできない。
その目から、涙がこぼれ落ちた。
次の瞬間、奇跡が起きた。
ゴォッ──
燃え盛っていた炎が、不意にしぼみ、熱風が途絶えた。
枝を絡めていた樹も、力を失ったように崩れ落ちる。
「──っ!」
蓮はすぐにスミレを抱き寄せる。
ぐったりとした体。
それでも──生きている。
「ごめん、ごめんね、スミレ。遅くなって、ごめん……」
スミレは弱かった。
皆と同じように、傷つきやすく、脆い心を持っていた。
もっと早く気づけたはずなのに。
俺は──スミレを、強いと勘違いしていた。
頼らないように見えたのは、強さなんかじゃなかった。
ただ、一人で、泣きながら、必死に耐えていただけなのに。
「スミレ、今助けるから」
蓮は剣を抜き、スミレの後ろで縛られている布を切る。
口元を解放されたスミレが、呪いが解けたように蓮の名前を呼んだ。
「蓮っ……」
か細く、今にも消えてしまいそうな声だった。
蓮はスミレの頬に手を添え、安心させるように微笑む。
「大丈夫、大丈夫だよ」
スミレは蓮の胸元に顔をうずめ、声を上げて泣いた。
赤子のように、枯れた声で、必死に。
こんなスミレを、今まで見たことがあっただろうか。
蓮はただ、彼女を抱き締めた。
かけるべき言葉なんて、ひとつも見つからなかった。
──しかし。
「チッ、思ったより早く破られちまったな」
乾いた舌打ちと共に、数人の影が炎の向こうに現れる。
冷たい目が、蓮とスミレを射抜いた。
「──邪魔はさせねえよ」
殺気が押し寄せる。
蓮はスミレを抱きかかえ、咄嗟に身を翻した。
(今は、戦えない──!)
焼け焦げた地面を蹴り、森のように入り組んだ樹の中を駆ける。
障害物を避け、ただ、ただ──出口を目指して。
何があっても、スミレを守る。
たとえこの身が、焼き尽くされようとも。
遠くから、足音が迫る。
背後では炎が唸り、熱がじわじわと体を蝕んでくる。
ただ、逃げなければ。スミレを連れて──
突如、目の前に現れたのは、崖。目の前には、紫の海──スミレの花畑が広がっていた。
蓮は息を呑む。
この崖を越えなければ、進む道はない。
ちらりと、抱えるスミレの背に目をやる。
翼はそこにある。
だが、力なく震え、だらりと垂れ下がっていた。
飛べる状態じゃない──と直感した。
死ぬわけにはいかない。
いや──スミレを、失うわけにはいかないのだ。
「スミレ……俺を、信じてくれる?」
蓮は震える声でそう告げた。
スミレは力なくうなずく。
迷いはなかった。
迷っている暇なんて、なかった。
だから、蓮は飛び出した。
崖の縁を蹴り、空へ身を投げた。
──だが。
空気を裂くように落下していく。
重力に引きずり込まれる。
あっという間に地面が近づく。
「──っ!」
風が耳を引き裂き、目を開けていられない。
腕に抱えたスミレの体温だけが、かろうじて蓮を現実につなぎ止める。
怖い。
怖い。
怖い──!
心が、喉が、肺が、叫び声を上げる。
頭の中が真っ白になりそうだった。
落ちる。
このまま──
(いやだ──!)
咄嗟に、願った。
誰でもいい。
神様でも、運命でも、奇跡でも──
「お願いだ、誰か──!」
崖の上から、追手たちの冷たい視線が降り注いでいた。
──それでも。
蓮は、手放さなかった。
スミレを抱き締めた腕に、ありったけの力を込める。
たとえこの身が砕けても。
たとえ骨が折れ、肉が裂けても。
スミレだけは──!
バッサァッ!!!
耳をつんざく羽音が、空を切り裂いた。
体がふわりと持ち上がる。
落下していたはずの体が、空へ──跳ね上がった。
「な──」
息を呑む間もなく、蓮は感じた。
背中に。
広がる、巨大な何かを。
重く、しかし確かに──翼が、そこにあった。
「な、なんだ──!?」
思わず叫んだ。
スミレも、震える声で必死に言う。
「蓮っ、その、背中っ……!」
背中に、重み。
違和感。いや、違和感以上の──確かな感触。
振り返る間もなく理解した。
俺の背中から、翼が広がっている。
訳が分からない。
だが、その羽ばたきは、あまりにも自然だった。
翼が動くたび、心の奥で何かがざわめいた。
古く、深く、忘れていた何かが──微かに目を覚ます。
耳の奥に、誰かの声が響いた気がした。
懐かしい声。
温かく、でも、どこか切ない声──
(誰だ……?)
問いかけたくても、答えは返ってこない。
今はまだ、思い出せない。
「蓮! 一体どうなって──」
「わかんない! でも、今は逃げるしかない!」
蓮は翼を必死に羽ばたかせた。
スミレを抱えたまま、紫色の海の上を翔ける。
後ろに、ちらちらと追ってくる黒い影が見えた。
だが蓮は、振り返らなかった。
心のどこかで、確かに感じる。
目覚めかけた何かが、静かに──確かに、そこにいる。
強い日差しが肌を刺した。
けれど、それ以上に、スミレの温もりが腕の中にあった。
「蓮……」
弱々しい声に、蓮は小さく微笑む。
「平気だ。もう少し──!」
昼間の空は高く、どこまでも青く広がっていた。
ふたりきりで、ただ広がる世界を翔ける。
ほんの一瞬だけ、そんな夢のような時間が流れていた。




