助っ鳥
四人が走り続ける中、道の先に闇の気配が立ち込め始める。
風が急に冷たくなり、街路の灯りが震えるように揺れた。
「……何」
リリスが短剣を握り直し、周囲を警戒しながら呟く。
「嫌な予感がする」
タオも鋭く周囲を見回す。
その時、突如として、一陣の暴風が街を駆け抜けた。
風が渦巻き、そして──
「……出たな」
ミネルが一歩後ろに退きながら、冷静に言葉を放つ。
その瞬間、暗闇の中から──
巨大な黒い影が現れた。
それはただの「影」ではなく、目の前に現れるものが人の姿をしているわけではなく、まるで無形の力が具現化したかのような存在。
蓮の心臓が一瞬で止まったかのような感覚に襲われる。
「サタン!?」
タオが低く唸り、リリスも短剣を構えたが、すぐに一歩後ろに下がった。
「先に行け! 俺たちはここで引き止める!」
タオが鋭く言った。
リリスも無言で頷き、二人はサタンの魔力が渦巻く空間に立ち向かう準備を整えた。
「ああ──ありがとう!」
蓮が叫ぶと同時に、二人は完全に戦闘態勢に入った。蓮はその背中を見送る間に、サタンの気配が徐々に強まるのを感じた。何かが、急激に形を成し始めている──それは、ただの魔力の波ではない、異常な圧力が広がっていくのを感じる。
視界が、だんだんと歪んでいく。
その時、目の前に広がる空気の変化に気づいた。天気が急に荒れ始め、風が強く吹き荒れる。突然、空が揺れ動き、魔力の渦が空中に現れる。渦の中からは、激しい力が溢れ出し、まるで世界そのものが歪んでいくかのようだ。
「イシュタルだ──」
ミネルの声が冷徹に響く。蓮はその言葉に、確信を覚えた。足元が揺れ、地面が震える。まるで、この世界の秩序が崩れそうなほどの力が渦巻いている。
「渦が──イシュタルに向かっている」
その言葉を聞き、蓮の心は一瞬で焦りを感じた。視界に映る渦は、目を離すことができないほど強力だ。
「行こう!」
蓮は何の迷いも見せず、イシュタルへと駆け出そうとした。だが、その背に呼応するように、ミネルの低く鋭い声が飛んだ。
「待て。歩いて向かうには時間がかかりすぎる」
「でも、他に手段なんて──」
その言葉を遮るように、背後から風がざわめいた。吹き抜けるというより、舞い降りる。耳を撫でる風音はまるで囁きのようで、木々が葉を震わせるよりも静かだった。蓮が振り返ったその瞬間、目に映ったのは“落ちてくる”のではなく、“降りてきた”存在だった。
少女がいた。
淡く光を帯びたような濃いピンク色の肌は、陽を受けるごとにしっとりとした艶を増す。風に揺れる髪は新芽のような柔らかな緑。瞳の色もまた同じ黄緑で、だが底知れぬ奥行きと透明さが宿っていた。背と耳からは、透き通るような翼が広がっている。それは装飾のようなものではなく、空そのものを写し取ったかのような、実体ある美しさだった。
彼女は地上すれすれでふわりと浮かび、まるで足元の大気と一体化しているようだった。地に降りているのに、まったく重さを感じさせない。
「……困っているようね」
その声は、風の音と区別がつかないほど静かだった。だが不思議と、心の奥にまで染み込んでくるような響きがあった。
「あなたたち、人間にしては珍しい風を纏っている。特に、そこのあなた──」
少女の視線がミネルに向いた。じっと、まるで目の奥を覗き込むように見つめる。
「鳥人族……か?」
ミネルは一歩前に出て、警戒心を滲ませたが、少女はくすっと笑った。柔らかな風が微かに巻き起こる。
「そんなに警戒しないで。イシュタルに向かうのでしょう? 手を貸してあげる。……あなたたちの行く先に、ただならぬ気配を感じたから」
その言葉に、ミネルは数秒の沈黙を挟んでから、目を細める。
「……借りを作るつもりはない」
「構わないわ。ただ、いつか私たちの“願い”も聞いてくれると嬉しいのだけど──ふふ、今はまだその時じゃないかしら」
カリュアはそう言って、風に揺れる髪をかき上げた。
その仕草は不思議と年齢を感じさせず、幼さと大人びた気配が同居している。まるで時間の流れそのものから切り離された存在のようだった。
足元の空気が微かに波立つ。彼女の周囲だけ、重力すら違っているような錯覚すら覚える。
ミネルでさえ、次の言葉を見失ったようにじっと彼女を見つめていた。
そして、ふと肩をすくめるようにして、カリュアは柔らかく微笑んだ。
「カリュアって呼んで。空に住んでるの。よろしくね」
少女──カリュアはそう言いながら、翼を一度ゆっくりと広げた。
そして、天を向けて手を軽く掲げる。その指先に呼応するように、空が震えた。風が彼女のまわりに集まり、目に見えない糸を紡ぐように旋回を始める。重力が、彼女の意志で書き換えられていく。
「掴まって。風が支えてくれるけど、念のために私がちゃんと力を加えるから」
彼女のその言葉に、蓮とミネルは顔を見合わせる。
突然の出会いだった。
──彼女を頼るしかなかった。
彼女は自然に二人の元へ歩み寄り、片手ずつ蓮とミネルの腕を取った。驚くほど細い指先なのに、その握りにはしっかりとした芯があった。
そして、次の瞬間──
足元が、ふわりと浮いた。
「──っ!」
風が渦を描き、彼らを持ち上げる。だがそれは暴力的な上昇ではなく、まるで水面から浮かび上がる泡のように静かな浮遊だった。重さは確かにあるはずなのに、それすら風がそっと預かっているかのようだった。
そしてカリュアの背にある翼が羽ばたいた。風の流れが一変し、彼らの身体がゆっくりと、確実に空へと舞い上がる。
「……すごい……」
蓮が思わずこぼした言葉は、音になった瞬間すら風に溶けるようだった。
地上が遠ざかる。雲の層を抜けた先に広がる空は、かつて下から見上げたものとはまるで異なる世界だった。澄み渡った青の中に金色の陽光が射し、アーラ山脈の峰が凛として空を切り裂いていた。
「空を渡れる者は、この世界にそう多くないわ。鳥人族はその数少ない例外」
カリュアが穏やかな声で告げる。
一拍の間があった。風が少しだけ変わる。
「……あなたも、少し変わっているわね」
その視線は、再びミネルへと向けられた。
好奇心とも敵意とも違う。ただ、どこか……探るような、遠い記憶を探し当てようとする視線。
ミネルは視線を逸らし、沈黙を貫いた。風を切るその横顔は、いつものように冷静で無表情だ。
けれど蓮の胸には、なにか微かなひっかかりが残る。
(……ミネルは人間じゃない。あれは“人の形をした機械”だ。それは知ってる)
だが──今のカリュアの目は……それだけじゃない、何かを感じ取ってたように見える。
(やっぱりミネルは只者じゃない……)
そんな時、不意に疑問が浮かび、蓮はカリュアに問いかけた。
「……あの、どうしてカリュアさんは、あんな場所にいたんですか? 地上なんて、鳥人族には珍しい場所なんじゃ……」
カリュアは少しの間、何かを思案するように黙り込んだ。そして、ふっと微笑む。
「たまたまよ。風が少し騒がしかったの。……とても懐かしい気配が混ざってたから、気になってね。降りてみたの」
その言葉の奥に、淡く張り詰めたような気配が混じっていた。
蓮はそれ以上は聞けなかった。けれど、自分たちが何かを巻き込んでしまっていることだけは、確かに感じた。
「……まあ、運命ってやつかもしれないわね」
そう言うと、カリュアは翼を一閃させた。
「しっかり掴まって。スピードを上げるわよ」
その瞬間、世界が音を立てて流れ出した。風が巻き起こり、空気を裂く。蓮は思わずミネルの腕にしがみつく。
「それより──ミネル! 一緒に動くの、試練以来だよな! お前には聞きたいことが山ほどあるんだ! ひと段落ついたら……絶対、話せよ!」
風を割って、蓮は笑い混じりに叫ぶ。
ミネルはちらとだけ振り向き、口元をわずかに緩める。
「……気が向いたらな」
それだけを告げて、また前を向いた。
(……気が向いたら、か)
蓮はその横顔を見つめながら、ゆっくりと息を吸い込んだ。
ミネルが何者なのか、本当に知る日は──まだ少し先のようだった。
青空を割る一対の翼は、まるで光を編んだようにきらめき、見下ろす大地を呑み込んでいた。
森、山、湖……すべてが絵のように後ろへ流れ、やがて──
「……この速さなら、間に合う」
ミネルがぽつりと呟く。
高空から見下ろせば、かつて数日かけて越えたアーラ山脈が、ただの一筋の影のように広がっていた。
少し先には、湖上都市メモリアの白い建物群が、水面に映して揺れている。
「……信じられない、もうここまで来たのか」
蓮は風を切る中で呟いた。
そんな時、カリュアが大気を蹴った。
一気に高度を下げ、目にも止まらぬ速さで地上へと降りていく。
視界の先に、白銀に輝く塔群と、堅牢な石造りの王都が広がっていた。
イシュタルだ。
「──見えた!」
そしてそこからさらに北へ──
一面、紫色の花畑が風に揺れている。
その中心にそびえ立つ巨大な樹木の幹は、以前見た時よりもさらに黒く、まるで時間すら呑み込んでしまいそうに異様に膨らんでいる。
──北区画。
今ならその場所が何を意味するのか分かる気がした。
樹木の頂上から、ゆらりと黒い渦が渦巻いているのが見えた。
まるで暗い影が漂い、渦の中には何かが眠っているようだった。
その渦の中から、わずかにかすかな……誰かの気配が感じられる。
──スミレだ。
蓮は胸の奥で強い震えを感じた。
その渦が示すもの──それが彼女だと、直感的に確信した。
だが、何かがそれを邪魔している。今はそれを確かに捉えることができない。
ただ、あの渦を見つめることで、無言のうちに何かが近づいている予感がした。
「カリュア──あそこに降りて!」
蓮は叫び、しがみつく手に力を込めた。
「了解。……でも、気をつけて。あれは“闇”じゃない。もっと……深い何かが呼んでる」
カリュアの翼が大きく羽ばたき、三人の身体が一気に滑空に入る。
風を裂き、光を貫いて──彼らはスミレの待つ地へと、まっすぐに降下していった。
もう、止まることなどできない勢いで。
樹木へと降下し、その巨大な幹にかろうじて着地した。
その背に乗った蓮は、地を蹴った瞬間──
幹の奥深く、絡みつくように伸びた枝に、ぐったりと拘束されたスミレの姿を捉えた。
「スミレ!!」
叫びながらカリュアの背から飛び降りる。
「私が手を貸せるのは、ここまで!」
そんなカリュアの声を背に──着地した瞬間、世界が、ぐにゃりと歪んだ。




