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【完結】狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第5章 美しきスミレ花の上で
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共存同盟


 スミレがうっすらと目を開けたのを見て、蓮は思わず息を呑んだ。

 長い間、熱にうなされ、目を覚まさなかった彼女が、ようやく意識を取り戻したのだ。


「……スミレ?」


 呼びかける声は自然と低く、慎重なものになる。


 スミレはまばたきを繰り返しながら、ぼんやりと天井を見上げた。

 体を動かそうとしたが、すぐに力尽きたように指先が沈む。


 蓮は椅子から身を乗り出し、彼女の様子を確かめた。

 冷たかった肌に、ようやくぬくもりが戻りつつあるのを感じて、胸をなでおろす。


「……蓮?」


 スミレのか細い声に、蓮は嬉しさと安堵が一気にこみ上げた。

 名前を呼ばれただけで、こんなに救われるとは思わなかった。


「よかった……ずっと、うなされてたんだぞ」


 声が震えそうになるのをこらえながら、蓮は微笑んだ。


 スミレは小さく首をかしげる。

 昨夜の記憶が、霧の中に消えてしまったかのように、何も思い出せない様子だった。


「大丈夫、今はもう安全だよ」


 蓮はそっと、スミレの額に手をあてた。

 その手に、確かな体温が感じられる。


 ふと、スミレが胸元の布をぎゅっと握った。

 その動作に、何かを思い出そうとするかすかな迷いが滲んでいるように見えた。


「ねえ……蓮。私、昨日、何かあった?」


 おそるおそる漏れたその言葉に、蓮は一瞬だけ目を丸くした。


「やっぱり……覚えてないのか?」


 確認するように問いかけると、スミレは悲しげに目を伏せた。


「蓮……ごめんなさい。何も……覚えていないの」


 その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。


 だが、スミレがかつて自分に言ってくれたように──

 今度は蓮が彼女に言う番だった。


「大丈夫……大丈夫だよ」


 蓮はスミレの手をそっと包み込む。

 小さく、震える手だった。


「蓮と出会ったあの日も……そうだったの。私は、ずっと何かを思い出そうとして、森に行ったの……でも……気づいたら眠ってて……」


 スミレがそこまで言ったとき、戸を叩く音が響いた。

 すぐに、タオが姿を現す。


「様子はどうだ?」


 無骨な声でそう尋ねると、スミレは不安げにタオを見つめた。


 タオは無言でスミレの隣に腰を下ろし、低く、静かに言った。


「ん、無理に思い出さなくてもいい。体にも負担がかかるだろ?」


 その言葉は、不器用ながらもスミレを気遣っていることがはっきり伝わった。


「ごめんなさい……でも……これが初めてじゃないって……私、自分でも、怖いくらいわかるの……」


 スミレの震える声に、タオはわずかに目を細める。

 慰めの言葉も、無理な励ましもなく、ただ、ぽんとスミレの頭に手を置いた。


「バカか、お前は」


 ぶっきらぼうな声。

 けれど、その手は驚くほど優しかった。


「何も思い出せなくても、怖くても──ちゃんと生きてりゃ、それでいい」


 スミレは小さくうなずく。

 涙は流れない。ただ、胸の奥で、確かに何かが灯るのを感じた。


 その隣で、蓮も再びそっとスミレの手を握りしめる。


「……大丈夫。俺たちが一緒にいる」


 まっすぐな蓮の声に、スミレはゆっくりと顔を上げた。

 蓮の瞳には、不安を押し隠して、それでも誰かを守ろうとする、まっすぐな意志が宿っていた。


 スミレは彼のそんな姿を見て、ゆっくりと目を閉じる。

 少しだけ、体から力が抜けていった。


 ──そして、静かにスミレが眠りについたあと。

 タオは、蓮の方をちらりと見た。


「……こっからは、お前の番だぞ」


「……ああ」


 蓮はきゅっと拳を握りしめた。

 スミレを守るために、自分にできることを、これから一つずつやっていくんだ。


 まだ小さな決意だったけれど、それでも、確かに芽生えていた。


 ***


 朝日が淡い金色の光を差し込む中、ネイトエール王宮の広場は静寂に包まれていた。鳥たちのさえずりと、風が木々の間を抜ける音が心地よく響く。


「気持ちいいね」


 蓮の声に、スミレは小さくうなずく。昨夜の疲れが残っていたが、澄んだ空気の中、心地よい散歩道を歩いていると、少しずつ元気が戻ってくるような気がした。


「ええ、天気もいいわね」


 スミレは無理に笑顔を作ることなく、穏やかな表情で前を見つめて歩く。蓮の側で歩いていると、心が落ち着くことを改めて感じていた。


「──あら、何かやってるみたい」


 ふと、スミレが目を向けた先には、大きな広場の向こうで、何かの儀式が行われている様子が見えた。大勢の騎士たちや王宮のスタッフが整列し、中央には高貴な装いの人物たちが集まっていた。


「ああ、今日はイシュタル王国とネイトエールが共存同盟を結ぶ日だった」


 蓮はそうつぶやき、広場に目を向けた。

 そこにはイリア姫のほかに、彼女を静かに支える宰相ザイラスの姿も見える。

 彼は、式の進行を静かに見守っていた。


「そうだったのね……ホクト様もいるわ」


 蓮の視線を追い、スミレはホクトが周囲の者たちと話している姿を見た。厳格な表情が一瞬だけ見え、次いで笑顔を浮かべているのが確認できる。ホクトの表情がいつもより柔らかいのは、この同盟の結成を祝うための儀式だからだろう。


「始まるみたい」


 王宮の広間は、重厚な装飾が施され、集まった人々の静かな声が響く中、儀式が始まった。イシュタル王国とネイトエール王国が正式に共存同盟を結ぶための、重要な瞬間が今、目の前に迫っていた。


 蓮とスミレは、儀式の様子を静かに見守っていた。


 その中央に立つのは、イシュタルの姫イリアと、ネイトエールの王トーカル。二人はお互いに軽くうなずき合い、結盟の証として、手にした古代の書を掲げた。


 イリア姫が先に口を開いた。


「今日、我々は血の絆を超えた新たな絆を結ぶ。イシュタルとネイトエール王国が、共に歩む未来を約束する瞬間だ」


 その言葉遣いが、蓮の知っている彼女よりも力強く、国を代表する地位を感じさせる。


 トーカルはゆっくりと頷き、言葉を紡ぐ。


「王都ネイトエールは、異なる土地、異なる人々で成り立っている。しかし、同じ空の下で生きる者として、この地に平和をもたらすためには、手を取り合わなければならない」


 両者は目を合わせ、互いに深くうなずく。そして、二人の間にある大きな本に手を置く。古い文字が刻まれたページが開かれ、その中央には「共に生き、共に戦う」という誓いの言葉が浮かび上がる。そこに、両国の印が重なるように押され、ついに共存同盟が結ばれた。


 その瞬間、周囲に集まった人々から祝福の拍手が響いた。歓声が広場に広がり、式の終わりを告げるように空気が少し緩んだ。蓮はその音に思わず耳を傾けるが、胸の奥で何かが引っかかるような、無意識のうちに湧き上がる不安感に気づく。その感覚が胸を締めつけ、心の中で何かが動き始めたような気がした。


「これで、二つの国が一つになるのね……」


 スミレは小さな声で呟いた。その言葉には、少しの感慨が込められており、どこか遠くを見つめるような目をしていた。


「そうだな」


 蓮は静かに答えたが、スミレがどこか遠くを見つめるその目線に、微かな不安を感じた。それは言葉にできない感覚で、蓮はスミレの心に何かがあることを直感したが、それを口にすることはできなかった。


「よし、行こうか」


 蓮が歩みを進めると、スミレも軽く首をかしげながら答えた。


「ええ、そうね」


 その時、何気なく振り返ったスミレの目が無意識にイリア姫に引き寄せられた。堂々とした立ち姿、周囲の者たちがその威厳に従っている様子に、スミレの目は吸い寄せられるように見つめられていた。


「スミレ、?」


 蓮が足を止め、彼女の顔を覗き込むと、スミレはその視線を気にする様子もなく、少し黙って佇んでいた。イリア姫に集中したその目には、何かが隠されているようで、蓮の胸の奥に不安が湧き上がる。


(やっぱり、イリア姫とスミレは……)


 その思いが蓮の胸に落ちた瞬間、ふと胸騒ぎが湧き上がる。頭の中で何かがひっかかり、息苦しさを感じながら、無意識に足を速めようとしていた。


 その時、スミレの声が遠くから響いた。


「……あれがイシュタルの姫」


 その声に蓮は心の中で息を呑んだ。無意識に冷たい空気を感じ取り、瞬時に自分を落ち着けようとしたが、その不安感は胸の中で収まりきらなかった。イリア姫とスミレが合わせているところを想像するだけで胸が締めつけられる。スミレが何かを思い出してしまうのではないかという恐れが、蓮の心を支配していた。


「すごい存在感だよな」


 蓮は無理に軽く笑いながらも、視線はイリア姫から離せなかった。歩き始めたものの、どこか力が入っている自分に気づく。


「でも、どこか懐かしいような気がするの……」


 スミレの呟きに、蓮は少し驚いた。彼女の目に浮かんだ何かが、蓮の心に引っかかり、言葉にできずに飲み込むしかなかった。


 その瞬間、広場の向こうから騎士たちの慌ただしい声が響いてきた。


「火事だ! 王宮内で火災が発生した!」


 その声に蓮は一瞬、背筋が凍るような感覚を覚えた。反射的に顔を上げると、騎士たちが急いで王宮内へと駆け込んでいく様子が目に入った。


「……火事……」


 スミレのつぶやきが耳に届き、蓮はその言葉に動揺を覚えた。偶然のような気もしたが、心の中で何かが違和感を覚えていた。それはまるで、何かが予兆を告げているかのような感覚だった。


 ──また、火事? 


 まるで運命が再び彼を試すかのように、何かの影が近づいているように感じられた。


 騎士たちが騒然と走り回り、周囲は一気に緊迫した空気に包まれた。広場にいた人々もざわめき、誰もが王宮を振り返りながら、次に何をすべきか迷っている。


 蓮は咄嗟にスミレの手を取ろうとした。


「スミレ、ここを離れ──」


 言いかけた瞬間だった。


 ふわりと、何かが蓮の前を横切った。黒い影。気づいた時には、スミレの姿がすぐ近くから消えていた。


「……え?」


 刹那、蓮の脳裏を一瞬で冷たい汗が駆け抜けた。


「スミレ!!」


 声を張り上げたが、彼女は群衆の中に呑み込まれるようにして消えていた。蓮はすぐに駆け出した。人波をかき分け、スミレを探す。しかし、広場の混乱はひどく、どこを探しても白い髪の少女の姿は見当たらない。


(拐われた!? 誰に、どこへ!?)


 焦りと恐怖が渦を巻く中、蓮の視界の隅に、黒衣の人物たちが城の外へと消えるのが見えた。


「待て!!」


 蓮は無我夢中でその後を追った。

 だが、火事に釣られたかのように別の騎士たちが道を塞ぎ、黒衣たちは人波の隙間に巧妙に姿を隠していく。


(スミレ……! お願い、無事でいてくれ!)


 蓮の心はひどく乱れていた。胸の奥に広がる不安は、先ほど感じた違和感が確かな現実となって襲いかかってくる。


 王宮に上がる煙を背に、蓮は必死に人々の間を駆け抜けた。


 ──その時、見覚えのある二人の姿が、騒然とした通りの向こうに見えた。


「タオ! リリス!」


 蓮は声を張り上げ、まっすぐ二人に駆け寄った。

 タオは目を細め、すぐに蓮の異変に気づいた。リリスもまた、素早く辺りを警戒しながら歩み寄る。


「スミレが……拐われた!」


 息を切らしながら必死に状況を伝えると、タオの顔が一気に険しくなり、リリスの手にはいつの間にか短剣が握られていた。


「くそっ……!」


 タオが低く唸り、リリスも無言のまま、すぐに周囲を見回して警戒態勢に入る。


「急ごう。まだ、遠くへは行ってないはずだ!」


 タオが鋭く言い放ち、リリスも頷く。

 蓮は二人と共に駆け出そうとした──その瞬間だった。


 鋭い声が背後から降ってきた。


「どこに行く」


 振り返ると、ホクトが立っていた。

 無表情のまま、だが確かな威圧感を纏って。そしてその隣には、いつものようにミネルが静かに控えている。


「スミレがっ……!」


 蓮は叫びかけたが、ホクトはそれを制するように手を挙げた。


「分かっている」


 短く言い捨てると、ホクトはすぐさま指示を飛ばした。


「ミネル、お前も行け。三人だけでは心許ないだろう」


「了解」


 ミネルが即座に応じ、静かな足取りで蓮たちの傍に加わる。


「城の鎮火は俺と美穂でやる。それと──」


 ホクトの目が鋭く光った。


「イシュタル一行の足止めも、俺たちで引き受ける」


 言いながら、ちらりと王宮の方角を見やる。

 煙はますます勢いを増し、騎士たちの怒号が遠くでこだましていた。


「時間はない。行くなら今すぐだ」


 ホクトはそう言いながら、一切の迷いもなく道を開けるように一歩下がった。

 蓮は喉の奥に熱いものがこみ上げるのを感じた。

 ホクトの言葉は、突き放すようでいて、確かに彼らを信じて託すものだった。


「行くぞ!」


 タオが声を張る。


 蓮も、リリスも、ミネルも、一斉に駆け出した。

 燃え盛る煙を背に、まだ見ぬスミレを取り戻すために──。


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― 新着の感想 ―
スミレが無事に回復して何より。 (*´ω`*) またもや火事ですか。火の用心ですよ。 特に乾燥する日は! ヾ(・ω・*)ノ 質問:スミレのセリフで「ホクト様」と敬称をつけていたのですけど、今回倒れ…
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