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【完結】狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第5章 美しきスミレ花の上で
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精霊花の巡夜

 バステトの空が明るくなってから、幾日が過ぎた。


 あの街には、確かに変化の兆しが芽吹いている。

 闇市は徐々に取り締まられ、弱き者が一方的に虐げられるような場面も、以前よりはずっと減った。


 居場所を失っていた草食獣人たちは、イシュタル王国やネイトエールの支援のもとで、新たな暮らしの場を得ている。

 それはまだほんの小さな希望だが、確かに根を張り始めていた。


 そして——

 その政策の中心に名を連ねているのが、タオとリリスだった。

 バステトで彼らの名を知らぬ者は、もはやいない。

 一匹狼とその対象的な性格な兎は、今や「新しい風」として語られている。


「ふぅ……あの二人、毎日どれだけ働いてるの……?」


 美穂が机に書類を積み上げながらぼやく。


「よくやってると思うよ。二人とも、口には出さないけど……バステトのこと、本気で変えようとしてる」


 蓮が静かにそう呟くと、隣でスミレが微笑んだ。


「うん。タオの表情……前より、少し柔らかくなった気がする」


「リリスもね。あの子、案外……すっごい頑張り屋よね」


「ふふ、それ、ちゃんと本人に言ってあげれば?」


「言わないよ。言ったら調子に乗るもん」


 そうやって交わされる会話は、以前よりずっと温かい空気を帯びていた。

 大事な仲間が、今もどこかで誰かのために戦っている。

 それが、彼らにとってもまた、前へ進む理由になるのだった。

 そんな時、噂をすれば二人組が帰ってきたようだった。


「よお、戻ったぞー」

「はー疲れた! もう、書類に埋もれて死ぬかと思ったんだけど」


 タオとリリスが戻ってきたことで、部屋の空気がふっと和らぐ。


「おかえり」

「おつかれさま」


 蓮とスミレが声をかけ、美穂が机から顔を上げる。


「ほんとによくやるわよね、あなたたち。……で? 今日は何の報告?」


 リリスがふふっと笑って、ぽんとタオの背を叩いた。


「今日は報告じゃなくて、誘いに来たの」


「誘い?」


「うん。“精霊花の巡夜”、もうすぐでしょ? 今年はネイトエールの森でも、綺麗に見られるって聞いたの。だから……行かない?」


 その言葉に、部屋の空気が少し変わる。


「精霊花の巡夜……?」


 蓮が不思議そうに首を傾げる。


「年に一度だけ、シルフたちがたくさん集まる夜。月と星の巡りがちょうど重なると、精霊たちが呼応して光を放つの」


 タオが加えて言う。


「行ったことはないけど──森が、光の花でいっぱいになるらしいな」


「普段もちょっとは見られるけど、その夜はまるで別世界って言われてるんだって」


 リリスがそう補足すると、蓮がふとスミレの方を見る。


 ——あの夜、初めて会ったスミレと、光るシルフ。

 思い出すのは、あの光景だった。


「……いいね。行こうよ!」


 タオも小さく頷く。「賛成だ」


 皆の視線が集まる中、美穂はちょっと困ったように肩をすくめた。


「……私はいいわ。どうせ邪魔になるでしょ、私が行ったら」


「そんなこと言うなよ」


 蓮が軽く笑いかけると、美穂はぷいと視線をそらす。


「言っておくけど、別に寂しいとかじゃない。ただ……なんとなく、今回は。私はそのへんで本でも読んでるから。ね?」


 笑っているつもりなのに、ほんの少しだけ声が揺れる。

 その言葉に、蓮は目を瞬いた。


「……なんだよ、その意味ありげな感じ」


 少し戸惑うように問いかけると、美穂はさらりと肩をすくめてみせた。


「なによ。いちいち驚かないでよね」


 いつもの調子。でも、その言葉が妙に軽く聞こえるのは、気のせいだろうか。


 ふと、部屋の空気がわずかに揺れた気がした。

  リリスが視線をそらし、タオは口を開かずに佇んでいる。

 スミレだけが、場の空気を楽しむように微笑んでいた。


 やがて、その静けさを打ち消すように、誰かが冗談を飛ばした。

 そんな軽口が行き交い、次第に部屋は笑い声で満ちていく。


「それじゃあ、今夜ネイトエールの城門で落ち合いましょう」


 “特別な夜”を前に、微かなざわめきだけが、そこに残った。


***


 その夜。


 森は、まるで誰かの記憶の中にある幻のようだった。


 木々の間を吹き抜ける風に乗って、小さな光がふわりと舞い始める。

 まるで無数の蛍が空から降りてきたかのように、シルフたちが一斉に姿を現し、あたりを幻想的な光で包み込んでいく。


「……綺麗」


 スミレが思わず呟いた声は、まるで光に溶けていくようだった。


 蓮はその横顔をちらりと見て、小さく息を呑む。

 けれど言葉にはせず、手に持っていたランタンの火をそっと消した。もう、必要がないくらい森が明るかった。


「これが、精霊花の巡夜か……」


 タオがつぶやき、隣でリリスがふふっと笑う。


「何よ。珍しく感動してる?」


「いや……ただ、こんな綺麗なもんが、この世界にあるなんて思わなかった」


 リリスはその言葉に目を細めて、少しだけ顔をそらす。

 その横顔をタオは一瞬だけ見つめたが、何も言わず、また前を向いた。

 少し離れた場所で、スミレが光に包まれたまま足を止める。


「ねえ、蓮。懐かしいと思わない? 私たち、ここで出会ったわよね」


「──ああ」


 蓮がスミレの隣に並び立つ。


「あの日も、こんなふうに手を伸ばしたら、光が手のひらに来てくれて……」


 スミレがそっと手を伸ばすと、まるで応えるように、一匹のシルフが彼女の指先にとまった。

 柔らかな光が、彼女の頬をほのかに照らす。


「蓮、来て」


 スミレがふいに蓮を振り返り、手を差し出す。

 その瞳には、どこか寂しげな、けれど優しい光が宿っていた。


 蓮は小さく微笑むと、彼女の手に自分の手を添える。

 そのぬくもりに、どこか安堵を覚えながら。


「これからも、そばにいてくれる?」


 彼女が何を考えてそう言っているのか分からない。けれど蓮には、それがむしろ魅力に感じられた。


「……うん。いるよ」


 その様子を後ろから見ていたリリスは、どこか羨ましげに視線を落とす。

 隣にいるタオは、それに気づきながらも何も言わず、少しだけ肩をすくめた。


「……なんかさ、こうして見ると、あいつらって案外似合ってるよな」


「え?」


 リリスが思わずタオの方を見る。

 タオは首をかしげたまま、空に目をやる。


「いや、蓮とスミレ。どう見ても、いい感じだろ?」


 リリスは少し黙っていたが、やがてぽつりと口を開く。


「……ふーん。タオはそれでいいの?」


 リリスの声には、ほんのかすかな棘が混じっていた。


「どういうことだよ?」


「え? だから──タオは、シェリーのこと……」


 そこでリリスは言葉を止めた。

 言いかけたリリスの声が、夜の空気に吸い込まれる。


「俺がシェリーのこと、なんだよ?」


 タオの眉がぴくりと動く。リリスは言いよどみながらも、目をそらさずに言った。


「だから! タオはシェリーのことが好きなんじゃないの!?」


「……はあ!? 誰がいつそんなこと言った? お前、勘違いにも程があるだろ!」


 リリスは目をぱちぱちさせ、あっけにとられたような顔をする。


「え……? だってタオ、シェリーと話してる時、ずっと楽しそうだし、優しいし、距離近いし……」


「お、おいおい、やめろって! 確かにあいつとは仲がいいけど、それは……長年付き合ってきた、家族みたいなもんで……!」


 タオが少し早口になるのに反して、リリスは少し頬をふくらませて、くるりと背を向け歩き出す。


「ちょっ……待てって! なんで急に機嫌悪くなってんだよ」


「別に。早く行こ」


 口調はそっけないけど、背中からは拗ねた気配がにじんでいる。


「お、おい! リリス!」


 タオは小走りで追いつき、思わず彼女の腕を掴んだ。


「……リリス!」


 リリスが振り返る。その目が、少し潤んでいた。


「その……俺は……お前とティナのこと、誰よりも大事だった。幼なじみって言葉じゃ足りねぇくらい、今も大事に思ってる。……それこそ、家族にも近い」


 タオは少し言いよどみ、けれど視線を逸らさずに言った。


「……まだうまく言えねぇし、今日言うつもりもなかった。でも、お前がそんな顔するなら……言っとく」


 一瞬の沈黙のあと、タオはまっすぐ彼女を見つめた。


「リリス、好きだ」


 リリスの瞳が見開き、耳がぴくりと反応する。夜風がふたりの間をふわりと通り抜けていった。


 しばしの沈黙の後──


「あー、もう! なんか言えよ!」


 タオが焦ったように頭をかく。


「……うん、ありがとう」


「っは!? それだけかよ!」


 リリスは思わず吹き出す。

 嬉しそうなその声が、森の静けさに溶けていった。


 二人の歩幅が、自然と重なる。

 光の中を並んで歩くふたりの距離は、さっきよりほんの少しだけ、近づいていた。


 そのとき、ふいに茂みの陰から──


「……見ちゃったー!」


 スミレがぬっと顔を出した。その後ろには、困ったような顔の蓮も続いてくる。


「えっ!? いつからいたの!?」


 リリスが慌てた声を上げると、蓮が軽く肩をすくめた。


「まあ……いい感じだったな」


「な、なによっ!」


 リリスが真っ赤になって叫び、スミレは嬉しそうに手をぱちぱち叩く。


「タオがリリスにあんなこと言うなんて……ちょっと感動しちゃった」


「おい……やめろ!」


 タオが顔を真っ赤にしながら、必死に抗議する。


 冗談のような笑い声が、静かな夜に溶けていく。

 精霊たちも、くるくると宙を舞いながら、まるで祝福するかのように柔らかな光を振りまいていた。


 蓮はふと、森の奥へ視線を向けた。


 あの奥には、確かに狭間が存在した。

 自分がこの世界に来てしまった、あの場所。

 ──もしかしたら、今あそこへ行けば、元の世界へ戻れるのかもしれない。


 そんな考えが、ほんの一瞬、心をかすめた。


 けれど。


 蓮は、そっとスミレたちのほうへ目を向ける。

 笑い合う仲間たち。暖かな光。手のひらに残る、スミレのぬくもり。


 ……違う。

 今は、ここにいるべきなんだ。


 蓮は小さく息を吐くと、迷いを押し込めるようにして、もう一度前を向いた。

 一歩。しっかりと、地面を踏みしめる。


 夜空には、無数の星が瞬いている。

 誰もが、言葉にできない想いを胸にしまいながら。

 けれど確かに、温かな気持ちに包まれていた。



 そんな和やかな空気の中──

 タオがふと、空を見上げて眉をひそめた。


「……煙?」


 その声に、リリスも振り返る。

 たしかに、黒い煙が森の向こうから、夜空へと昇っていた。


「火事かな……?」


 リリスが不安そうに呟き、蓮も顔をこわばらせる。


「行こう。何かあったかもしれない」


 タオが即座に走り出し、蓮たちもそれに続いた。


 森を抜けるにつれて、空気がじわじわと熱を帯びていく。

 焦げた匂いが、鼻を突いた。


 やがて、商店街の一角で、一軒の家が燃え上がっているのが見えた。

 周囲には慌てふためく住民たち。バケツで水を運ぶ者、濡れた布で火を叩く者。

 必死の消火活動が続いていたが、火はなおも激しく家を舐め続けていた。


「タオ、リリス! 消火を!」


 蓮が叫ぶと、ふたりはすぐにうなずき、小さな水魔法を展開する。

 生活魔法とはいえ、火に直接ぶつければ十分な効果があった。


 タオは魔法で水を放ちながら、住民たちに手短に指示を飛ばす。

 リリスもまた、火の勢いを弱めるように水を細かく散らし続けた。


 ──そのとき。

 蓮は、スミレの様子に気づいた。


 スミレの足が、ぱたりと止まっていた。

 ぱちっ、ぱちっと、木材が燃え弾ける音。

 火の粉が夜空に舞い、空気は赤黒く染まっていく。


 スミレの顔から、さっと血の気が引いた。


「……あ……あ……」


 小さな声を漏らすと、彼女の体はがくがくと震え始める。


 次の瞬間。


「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」


 堰を切ったように、スミレは謝りながら、うずくまった。

 その瞳は、目の前の炎ではなく、もっと遠く──違う場所を見ているかのようだった。


「スミレ!!」


 蓮はすぐにスミレのもとへ駆け寄り、彼女を抱きしめるようにして支えた。

 スミレの身体は、小さく、小さく震え続けていた。


「大丈夫、大丈夫だよ」


 優しく語りかけながら、蓮の脳裏にはふと──

 妖精国イシュタルで聞いた出来事がよみがえっていた。

 イシュタル災厄、焼け落ちた北区画、あの古びた写真、そして──イリア姫の面影。


 どうして、今、この場面でイリア姫のことが浮かぶ? 

 違う。違う違う違う。


 蓮は必死にその考えをかき消した。

 スミレが、それに関係しているはずがない。


 だが、焦る気持ちを抑えきれずにいると、スミレの震える手が彼の腕を掴んだ。

 その瞬間、冷たい感覚が走った。


「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」


 スミレの震える声が、夜の空気に溶けていく。

 胸の奥に広がった不安は、静かに、しかし確実に蓮を締めつけた。


 彼女は今、何を感じているのか。

 何が、ここまで彼女を追い詰めたのか。


 知りたくても、今はただ、その声に耳を傾けるしかない。


 蓮はそっと目を閉じた。

 心の奥で、確かな想いが芽生える。


「大丈夫だよ、スミレ」


 自分自身にも言い聞かせるように、蓮はそう囁いた。

 どんな痛みを抱えていたとしても──それでも、彼女を受け止めると決めたのだ。


 空気の隙間に、じわりと広がる不穏な気配。

 それは、何かが静かに忍び寄っているような、そんな予感だった。


 夜は深く沈んでいく。


 やがて、スミレの力がふっと抜ける。

 震えていた手が、蓮の腕から滑り落ちた。


「スミレ……?」


 呼びかけにも応えず、彼女はそのまま意識を手放した。

 蓮はすぐにスミレを抱きとめ、慌てて周囲を呼び、救護の手配を取った。


 焼け跡に残る熱と煙の中、スミレは運び出された。


 ──そして、静かな夜明けを迎えた。


第5章開幕!ありがとうございます!


☆妖精国イシュタル主要人物


イリア

妖精国イシュタルの姫。金色の髪色、翡翠色の瞳が特徴的な妖精族。スミレにどこか似ている雰囲気を放つ。


ザイラス

妖精国イシュタルの宰相。紫色の髪色、銀灰の瞳が特徴的な妖精族。目付きが冷淡でちょっと怖い印象を与える。王国の実権を握っているのはザイラスだという噂も。


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― 新着の感想 ―
幻想的で素敵な光景ですね〜。 (*´ω`*) タオの心温まる告白……かと思いきや、公開処刑だったようで。 (・–・;)ゞ 狭間が近くにあっても、未練を押し込める様子なのが、蓮も変わった、成長した、…
1章を読み返してから、ついに5章へ突入しました!! 精霊花の巡夜──もう本当に、映像が目に浮かぶほど神秘的で素敵でした…! あの特別な雰囲気の中で過ごす、かけがえのない時間に心が震えます... そして…
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