精霊花の巡夜
バステトの空が明るくなってから、幾日が過ぎた。
あの街には、確かに変化の兆しが芽吹いている。
闇市は徐々に取り締まられ、弱き者が一方的に虐げられるような場面も、以前よりはずっと減った。
居場所を失っていた草食獣人たちは、イシュタル王国やネイトエールの支援のもとで、新たな暮らしの場を得ている。
それはまだほんの小さな希望だが、確かに根を張り始めていた。
そして——
その政策の中心に名を連ねているのが、タオとリリスだった。
バステトで彼らの名を知らぬ者は、もはやいない。
一匹狼とその対象的な性格な兎は、今や「新しい風」として語られている。
「ふぅ……あの二人、毎日どれだけ働いてるの……?」
美穂が机に書類を積み上げながらぼやく。
「よくやってると思うよ。二人とも、口には出さないけど……バステトのこと、本気で変えようとしてる」
蓮が静かにそう呟くと、隣でスミレが微笑んだ。
「うん。タオの表情……前より、少し柔らかくなった気がする」
「リリスもね。あの子、案外……すっごい頑張り屋よね」
「ふふ、それ、ちゃんと本人に言ってあげれば?」
「言わないよ。言ったら調子に乗るもん」
そうやって交わされる会話は、以前よりずっと温かい空気を帯びていた。
大事な仲間が、今もどこかで誰かのために戦っている。
それが、彼らにとってもまた、前へ進む理由になるのだった。
そんな時、噂をすれば二人組が帰ってきたようだった。
「よお、戻ったぞー」
「はー疲れた! もう、書類に埋もれて死ぬかと思ったんだけど」
タオとリリスが戻ってきたことで、部屋の空気がふっと和らぐ。
「おかえり」
「おつかれさま」
蓮とスミレが声をかけ、美穂が机から顔を上げる。
「ほんとによくやるわよね、あなたたち。……で? 今日は何の報告?」
リリスがふふっと笑って、ぽんとタオの背を叩いた。
「今日は報告じゃなくて、誘いに来たの」
「誘い?」
「うん。“精霊花の巡夜”、もうすぐでしょ? 今年はネイトエールの森でも、綺麗に見られるって聞いたの。だから……行かない?」
その言葉に、部屋の空気が少し変わる。
「精霊花の巡夜……?」
蓮が不思議そうに首を傾げる。
「年に一度だけ、シルフたちがたくさん集まる夜。月と星の巡りがちょうど重なると、精霊たちが呼応して光を放つの」
タオが加えて言う。
「行ったことはないけど──森が、光の花でいっぱいになるらしいな」
「普段もちょっとは見られるけど、その夜はまるで別世界って言われてるんだって」
リリスがそう補足すると、蓮がふとスミレの方を見る。
——あの夜、初めて会ったスミレと、光るシルフ。
思い出すのは、あの光景だった。
「……いいね。行こうよ!」
タオも小さく頷く。「賛成だ」
皆の視線が集まる中、美穂はちょっと困ったように肩をすくめた。
「……私はいいわ。どうせ邪魔になるでしょ、私が行ったら」
「そんなこと言うなよ」
蓮が軽く笑いかけると、美穂はぷいと視線をそらす。
「言っておくけど、別に寂しいとかじゃない。ただ……なんとなく、今回は。私はそのへんで本でも読んでるから。ね?」
笑っているつもりなのに、ほんの少しだけ声が揺れる。
その言葉に、蓮は目を瞬いた。
「……なんだよ、その意味ありげな感じ」
少し戸惑うように問いかけると、美穂はさらりと肩をすくめてみせた。
「なによ。いちいち驚かないでよね」
いつもの調子。でも、その言葉が妙に軽く聞こえるのは、気のせいだろうか。
ふと、部屋の空気がわずかに揺れた気がした。
リリスが視線をそらし、タオは口を開かずに佇んでいる。
スミレだけが、場の空気を楽しむように微笑んでいた。
やがて、その静けさを打ち消すように、誰かが冗談を飛ばした。
そんな軽口が行き交い、次第に部屋は笑い声で満ちていく。
「それじゃあ、今夜ネイトエールの城門で落ち合いましょう」
“特別な夜”を前に、微かなざわめきだけが、そこに残った。
***
その夜。
森は、まるで誰かの記憶の中にある幻のようだった。
木々の間を吹き抜ける風に乗って、小さな光がふわりと舞い始める。
まるで無数の蛍が空から降りてきたかのように、シルフたちが一斉に姿を現し、あたりを幻想的な光で包み込んでいく。
「……綺麗」
スミレが思わず呟いた声は、まるで光に溶けていくようだった。
蓮はその横顔をちらりと見て、小さく息を呑む。
けれど言葉にはせず、手に持っていたランタンの火をそっと消した。もう、必要がないくらい森が明るかった。
「これが、精霊花の巡夜か……」
タオがつぶやき、隣でリリスがふふっと笑う。
「何よ。珍しく感動してる?」
「いや……ただ、こんな綺麗なもんが、この世界にあるなんて思わなかった」
リリスはその言葉に目を細めて、少しだけ顔をそらす。
その横顔をタオは一瞬だけ見つめたが、何も言わず、また前を向いた。
少し離れた場所で、スミレが光に包まれたまま足を止める。
「ねえ、蓮。懐かしいと思わない? 私たち、ここで出会ったわよね」
「──ああ」
蓮がスミレの隣に並び立つ。
「あの日も、こんなふうに手を伸ばしたら、光が手のひらに来てくれて……」
スミレがそっと手を伸ばすと、まるで応えるように、一匹のシルフが彼女の指先にとまった。
柔らかな光が、彼女の頬をほのかに照らす。
「蓮、来て」
スミレがふいに蓮を振り返り、手を差し出す。
その瞳には、どこか寂しげな、けれど優しい光が宿っていた。
蓮は小さく微笑むと、彼女の手に自分の手を添える。
そのぬくもりに、どこか安堵を覚えながら。
「これからも、そばにいてくれる?」
彼女が何を考えてそう言っているのか分からない。けれど蓮には、それがむしろ魅力に感じられた。
「……うん。いるよ」
その様子を後ろから見ていたリリスは、どこか羨ましげに視線を落とす。
隣にいるタオは、それに気づきながらも何も言わず、少しだけ肩をすくめた。
「……なんかさ、こうして見ると、あいつらって案外似合ってるよな」
「え?」
リリスが思わずタオの方を見る。
タオは首をかしげたまま、空に目をやる。
「いや、蓮とスミレ。どう見ても、いい感じだろ?」
リリスは少し黙っていたが、やがてぽつりと口を開く。
「……ふーん。タオはそれでいいの?」
リリスの声には、ほんのかすかな棘が混じっていた。
「どういうことだよ?」
「え? だから──タオは、シェリーのこと……」
そこでリリスは言葉を止めた。
言いかけたリリスの声が、夜の空気に吸い込まれる。
「俺がシェリーのこと、なんだよ?」
タオの眉がぴくりと動く。リリスは言いよどみながらも、目をそらさずに言った。
「だから! タオはシェリーのことが好きなんじゃないの!?」
「……はあ!? 誰がいつそんなこと言った? お前、勘違いにも程があるだろ!」
リリスは目をぱちぱちさせ、あっけにとられたような顔をする。
「え……? だってタオ、シェリーと話してる時、ずっと楽しそうだし、優しいし、距離近いし……」
「お、おいおい、やめろって! 確かにあいつとは仲がいいけど、それは……長年付き合ってきた、家族みたいなもんで……!」
タオが少し早口になるのに反して、リリスは少し頬をふくらませて、くるりと背を向け歩き出す。
「ちょっ……待てって! なんで急に機嫌悪くなってんだよ」
「別に。早く行こ」
口調はそっけないけど、背中からは拗ねた気配がにじんでいる。
「お、おい! リリス!」
タオは小走りで追いつき、思わず彼女の腕を掴んだ。
「……リリス!」
リリスが振り返る。その目が、少し潤んでいた。
「その……俺は……お前とティナのこと、誰よりも大事だった。幼なじみって言葉じゃ足りねぇくらい、今も大事に思ってる。……それこそ、家族にも近い」
タオは少し言いよどみ、けれど視線を逸らさずに言った。
「……まだうまく言えねぇし、今日言うつもりもなかった。でも、お前がそんな顔するなら……言っとく」
一瞬の沈黙のあと、タオはまっすぐ彼女を見つめた。
「リリス、好きだ」
リリスの瞳が見開き、耳がぴくりと反応する。夜風がふたりの間をふわりと通り抜けていった。
しばしの沈黙の後──
「あー、もう! なんか言えよ!」
タオが焦ったように頭をかく。
「……うん、ありがとう」
「っは!? それだけかよ!」
リリスは思わず吹き出す。
嬉しそうなその声が、森の静けさに溶けていった。
二人の歩幅が、自然と重なる。
光の中を並んで歩くふたりの距離は、さっきよりほんの少しだけ、近づいていた。
そのとき、ふいに茂みの陰から──
「……見ちゃったー!」
スミレがぬっと顔を出した。その後ろには、困ったような顔の蓮も続いてくる。
「えっ!? いつからいたの!?」
リリスが慌てた声を上げると、蓮が軽く肩をすくめた。
「まあ……いい感じだったな」
「な、なによっ!」
リリスが真っ赤になって叫び、スミレは嬉しそうに手をぱちぱち叩く。
「タオがリリスにあんなこと言うなんて……ちょっと感動しちゃった」
「おい……やめろ!」
タオが顔を真っ赤にしながら、必死に抗議する。
冗談のような笑い声が、静かな夜に溶けていく。
精霊たちも、くるくると宙を舞いながら、まるで祝福するかのように柔らかな光を振りまいていた。
蓮はふと、森の奥へ視線を向けた。
あの奥には、確かに狭間が存在した。
自分がこの世界に来てしまった、あの場所。
──もしかしたら、今あそこへ行けば、元の世界へ戻れるのかもしれない。
そんな考えが、ほんの一瞬、心をかすめた。
けれど。
蓮は、そっとスミレたちのほうへ目を向ける。
笑い合う仲間たち。暖かな光。手のひらに残る、スミレのぬくもり。
……違う。
今は、ここにいるべきなんだ。
蓮は小さく息を吐くと、迷いを押し込めるようにして、もう一度前を向いた。
一歩。しっかりと、地面を踏みしめる。
夜空には、無数の星が瞬いている。
誰もが、言葉にできない想いを胸にしまいながら。
けれど確かに、温かな気持ちに包まれていた。
そんな和やかな空気の中──
タオがふと、空を見上げて眉をひそめた。
「……煙?」
その声に、リリスも振り返る。
たしかに、黒い煙が森の向こうから、夜空へと昇っていた。
「火事かな……?」
リリスが不安そうに呟き、蓮も顔をこわばらせる。
「行こう。何かあったかもしれない」
タオが即座に走り出し、蓮たちもそれに続いた。
森を抜けるにつれて、空気がじわじわと熱を帯びていく。
焦げた匂いが、鼻を突いた。
やがて、商店街の一角で、一軒の家が燃え上がっているのが見えた。
周囲には慌てふためく住民たち。バケツで水を運ぶ者、濡れた布で火を叩く者。
必死の消火活動が続いていたが、火はなおも激しく家を舐め続けていた。
「タオ、リリス! 消火を!」
蓮が叫ぶと、ふたりはすぐにうなずき、小さな水魔法を展開する。
生活魔法とはいえ、火に直接ぶつければ十分な効果があった。
タオは魔法で水を放ちながら、住民たちに手短に指示を飛ばす。
リリスもまた、火の勢いを弱めるように水を細かく散らし続けた。
──そのとき。
蓮は、スミレの様子に気づいた。
スミレの足が、ぱたりと止まっていた。
ぱちっ、ぱちっと、木材が燃え弾ける音。
火の粉が夜空に舞い、空気は赤黒く染まっていく。
スミレの顔から、さっと血の気が引いた。
「……あ……あ……」
小さな声を漏らすと、彼女の体はがくがくと震え始める。
次の瞬間。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
堰を切ったように、スミレは謝りながら、うずくまった。
その瞳は、目の前の炎ではなく、もっと遠く──違う場所を見ているかのようだった。
「スミレ!!」
蓮はすぐにスミレのもとへ駆け寄り、彼女を抱きしめるようにして支えた。
スミレの身体は、小さく、小さく震え続けていた。
「大丈夫、大丈夫だよ」
優しく語りかけながら、蓮の脳裏にはふと──
妖精国イシュタルで聞いた出来事がよみがえっていた。
イシュタル災厄、焼け落ちた北区画、あの古びた写真、そして──イリア姫の面影。
どうして、今、この場面でイリア姫のことが浮かぶ?
違う。違う違う違う。
蓮は必死にその考えをかき消した。
スミレが、それに関係しているはずがない。
だが、焦る気持ちを抑えきれずにいると、スミレの震える手が彼の腕を掴んだ。
その瞬間、冷たい感覚が走った。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
スミレの震える声が、夜の空気に溶けていく。
胸の奥に広がった不安は、静かに、しかし確実に蓮を締めつけた。
彼女は今、何を感じているのか。
何が、ここまで彼女を追い詰めたのか。
知りたくても、今はただ、その声に耳を傾けるしかない。
蓮はそっと目を閉じた。
心の奥で、確かな想いが芽生える。
「大丈夫だよ、スミレ」
自分自身にも言い聞かせるように、蓮はそう囁いた。
どんな痛みを抱えていたとしても──それでも、彼女を受け止めると決めたのだ。
空気の隙間に、じわりと広がる不穏な気配。
それは、何かが静かに忍び寄っているような、そんな予感だった。
夜は深く沈んでいく。
やがて、スミレの力がふっと抜ける。
震えていた手が、蓮の腕から滑り落ちた。
「スミレ……?」
呼びかけにも応えず、彼女はそのまま意識を手放した。
蓮はすぐにスミレを抱きとめ、慌てて周囲を呼び、救護の手配を取った。
焼け跡に残る熱と煙の中、スミレは運び出された。
──そして、静かな夜明けを迎えた。
第5章開幕!ありがとうございます!
☆妖精国イシュタル主要人物
イリア
妖精国イシュタルの姫。金色の髪色、翡翠色の瞳が特徴的な妖精族。スミレにどこか似ている雰囲気を放つ。
ザイラス
妖精国イシュタルの宰相。紫色の髪色、銀灰の瞳が特徴的な妖精族。目付きが冷淡でちょっと怖い印象を与える。王国の実権を握っているのはザイラスだという噂も。




