闘争する夕暮れ 後編
「なんだ、これは……!」
ケイの胸に浮かぶ禍々しい魔紋。
脈動する“悪魔の核”。
「ケイ……やめろ、!」
ホクトが叫ぶと同時に、ケイの肉体が膨れ上がっていく。
骨が軋み、皮膚が裂け、黒い毛が生える。
腕は異様に肥大し、顔は縦に割れ、獣の顎が覗く。
「うぉおおおああああッ!!」
地を割る咆哮とともに、ケイの最終形態が現れる。
蓮が息を呑んだ。
「……嘘だろ……これが、ケイ……?」
「魔力の質が違う……まるで、“原初のサタン”……!」
スミレの声が震える。
地面が陥没し、霧が吹き飛ぶ。
毒の水があふれ、湿地が崩れていく。
「来るぞ!」
ホクトの叫びとともに、巨獣の尾が唸りを上げて振るわれる。
「っ……!」
ホクトが剣で受けるが、吹き飛ばされて木々をなぎ倒す。
「まじかよ!!」
蓮が剣を構え直す。
「やるしかない……!」
「私たちも!」
美穂が雷を纏い、スミレが羽を震わせる。リリスは短剣を抜き、音もなく一歩前へ出る。全員が並び立ち、陣を組む。
「総員、戦闘態勢!!」
ホクトの号令が響いた。
蓮が駆け出し、タオが並走する。右からはスミレの花弁が舞い、左からは美穂の雷撃が閃く。そのさらに後方──兎の耳を揺らして、リリスが音もなく駆ける。
「今よ!」
美穂の声に答えるように、蓮の剣が、巨獣ケイの前脚を浅く切り裂く。続けざまに、リリスの短剣が闇を裂く。
「効かせた。今よ、タオ!」
タオの拳が肩へとめり込んだ。
「吠えろよ……俺!」
タオの咆哮に応えるように、赤い狼の影が牙を剥き、ケイの頭部に喰らいつく。
「──今だ、美穂!」
「雷よ、我が刃となれ……!」
稲妻が空を裂き、雷槍がケイの胸元に突き刺さる。
「その隙、逃さない……!」
タオが足元から跳び上がり、空中で体をひねって急降下する。彼の爪と牙が、ケイの肩甲骨を切り裂いた。
「グ……ガァアアアアアアアアアッ!!」
凄まじい轟音。ケイがのけぞった、その一瞬──全員が動いた。
「ケイ……!」
ホクトの剣が、一条の閃光となってケイの魔核を貫く──!
「……っらああああああっ!!」
剣が深く突き刺さった刹那、ケイの肉体が膨張し始める。断末魔の咆哮が辺りに響き、全身が崩壊を始めた──
だが、砕け散るその寸前。
ケイは、かすかに笑った。
それは、どこか懐かしさを帯びた表情だった。
歪んだ獣の顔の奥に、一瞬だけ、かつての彼──仲間と夢を語り合った青年の面影が浮かんで見えた。
「……いい目を……するようになったな……」
血を吐きながらも、その目はまっすぐ、タオとホクトを見ていた。
「お前たちも……いずれ、“それ”に呑まれる。その時……思い出すだろう。俺の……絶望を……」
その声には、怒りも憎しみもなかった。
──それは、呪いではなく。まるで、未来を案じるような、儚い警告だった。
タオは拳を下ろしたまま、ゆっくりと息を吐く。
「……あんたの見立ては、最後まで外れてたな」
黒き巨体が、徐々に崩れていく。怒りも憎しみも、すでに消えていた。残っていたのは、ただ──寂しげな男の輪郭だけだった。
やがて、ケイの体は黒い霧となり、風にさらわれるようにして消えていった。
誰の手も届かない、深い場所へ。
そして。
霧が晴れ、湿地に静寂が戻る。
あれほど荒れていた空が、少しずつ澄み始める。風が草を揺らし、遠くから鳥の声が戻ってきた。
ホクトが、肩で息をしながらタオを見る。
「……タオ。よくやった」
タオは、何も言わなかった。
言葉は不要だった。あの場にいた者だけがわかる、確かな“なにか”が、二人の間を流れていた。
ほんの短い、だが永遠にも思えるような沈黙。
それが、タオとホクトの──共闘の証だった。
風がそっと吹き抜けたあと、湿地の奥からかすかな音が聞こえてくる。
足音だ。誰かがこちらへ向かってくる。
「……!」
草をかき分けて、小さな足音が駆けてくる。
ノアだ。その後ろには、ミーニャとクロネ、そして心配そうな面持ちの草食獣人たちが続いていた。
その姿を見て、タオが顔を上げる。
「無事だったか」
少女がタオの胸に飛び込む。
タオは少し戸惑いながらも、その小さな身体をそっと受け止めた。
「ありが、とう……」
ノアが振り絞るように言ったその言葉に、タオの肩から少しだけ力が抜ける。
やがて村人たちもおずおずと一行へ近づき、口々に声を上げた。
「……あのケイ様を倒したのか……?」
「まさか、本当に……」
「オレたちは、今まで……」
重く張り詰めていた空気が、ひとつ、またひとつとほどけていく。
誰もが戸惑いながらも、その瞳には確かな希望の光が宿り始めていた。
「その……すまなかった。見た目でお前たちを、判断してしまったな。特に、狼の──」
「──タオだ。バステトは変わる……いや、変えてみせる」
タオがぽつりと呟く。
それを聞いた蓮が、空を見上げてふっと笑った。
「まだ何も変わっちゃいない。でも……“変わる種”くらいは、撒けたと思ってる」
その言葉に、草食獣人たちは深く頭を下げた。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
──遠く、バステトの街の方角から、かすかに鐘の音が響く。
誰かが知らせを運んだのかもしれない。
ざわめきが、街に広がり始めているのかもしれない。
力こそすべてだったこの街に、“別の秩序”が芽吹きはじめているのかもしれない。
それでも、今はまだ──霧の晴れた静かな湿地に、ただ風が吹いていた。
「行こう」
ホクトの一言に、皆が頷く。
彼らの背に、ノアと村人たちの視線が温かく注がれていた。
その視線は、もはや恐れに満ちたものではなかった。
信頼と、敬意。
そして、未来への、ほんのわずかな希望。
バステトの空が、ゆっくりと明るみを帯びていく。
「にゃあ、また会おうにゃ」
「待ってるにゃ」
そんなミーニャとクロネの声を背に、一行は静かに歩き出した。
***
──そして数刻後。
街の中心地に差しかかったとき、タオの足がふと止まった。
人波の向こう、見慣れた銀灰色の髪の狼女が視界に入る。
今日も飄々と、男に腕を絡ませては甘い声で笑っていた。
だが、タオの視線に気づいたその瞬間、狼女の笑みがすっと消える。
「……生きてたんだ」
いつも通りの棘のある声。けれどその瞳の奥には、かすかな安堵が滲んでいた。
タオは一歩踏み出しかけて、すぐに躊躇した。
ほんの数歩。それだけの距離が、やけに遠く感じる。
その横顔を見たリリスが、そっと背を押すように言った。
「タオ、行っておいで」
タオは少し驚いたように彼女を見たが、やがて短く頷き、彼女のもとへ向かう。
「おい、ロアラ」
名を呼ばれて、ロアラはわずかに眉を上げ、鼻で笑った。
「名前、覚えてたんだ。たった数回寝ただけの相手でしょ」
「……それでも、感謝してる」
その言葉に、ロアラは視線を逸らす。
煙草を探すような仕草をして、けれど何も取り出さずに言った。
「なにそれ。別に私、何もしてないけど」
「……ん。体には気をつけろよ」
「あっそ……もう用は済んだ? 行って」
短く返され、タオは静かに頷いて背を向ける。
ロアラはその背中を、しばらく黙って見送っていた。
やがて隣の男の腕を乱暴に振り払い、立ち上がる。
「悪いけど、今日の商売はナシ。……気分じゃないの」
男が文句を言う前に、ロアラはその場を離れる。
その足取りはゆっくりと、けれど確かに“前”を向いていた。
「……さて。あたしも、少しはマシな女になる努力でもしてみるかな」
人ごみに紛れていくその背には、もう媚びるような影はなかった。
──そして、タオは静かに仲間のもとへ戻っていく。
リリスは小さく肩をすくめて、いつものように澄ました顔で立っていた。
「……おかえり」
「ん」
たったそれだけのやり取り。
けれどそこには、確かな信頼と、少しの照れが混じっていた。
タオは歩きながら、小さく空を仰ぐ。
湿地で晴れた空は、バステトの空にも、ちゃんと繋がっていた。
第4章ありがとうございました!
ここまでのまとめです、参考にどうぞ!
《悪魔まとめ》
☆ 悪魔の分類
•後天的サタン
悪魔の血を「飲まされた」ことによって悪魔化した者たち。理性を失いやすく、暴走の危険が高い。
例:第2章……ティナ、リリス
•先天的サタン
生まれつき悪魔の血を宿している者たち。その始祖は「五大悪魔」と呼ばれる特別な存在である。
《五大悪魔》
■ホクト(竜人族)
王都ネイトエールの騎士団「ネイト」の現団長。
五大悪魔の一人でありながら、唯一、悪魔に呑まれず理性を保っている。
かつての仲間(五大悪魔)や後天的サタンを止めるために戦い続ける。
“サタンの裏切り者”とも呼ばれる存在。
竜人族としての正体は一部にしか知られていない。
■ガオス(獣人族/狼)
タオの実父であり、かつての「ネイト」の団長。
悪魔化の影響を受け、ホクトの手によって討たれる。
最期には「タオを頼む」とホクトに託し、静かに命を落とした。
■ ケイ・ヴァンデル(獣人族/熊)
ホクトとガオスのかつての親友。
王都バステト出身で、強い正義感の持ち主だったが、国を守るために悪魔化を選び、弱肉強食の秩序を築いた。
タオを自らの仲間に引き入れようとし、第2章ではティナやリリスを人質に取り、後天的サタンへと変えた。
最終的にはホクトとタオの手で討たれる。
■アンネ(?)
蓮「どこかで聞いたことあるような……」
■ローレ(?)
種族・素性ともに不明。
詳細は明かされておらず、今後の鍵を握る謎の存在。




