闘争する夕暮れ 前編
湿地の空気は重く、湿り気を含んだ風が草を揺らしていた。
ぬかるむ地面に足を取られながらも、一行は慎重に森の奥へと進んでいく。
「……こっち。微かだけど、風の精霊が教えてくれる」
スミレが目を閉じ、周囲に漂う小さな気配に意識を向ける。
その隣でリリスも、足元に漂う気流を手で撫でながら、目を細めた。
「子どもの匂い……それに、恐怖の残滓。誰かに追われてた」
二人の精霊感知が重なり、湿地の道なき道をたどっていく。
やがて──
「……あれ、見て!」
蓮が指差した先。泥に沈みかけた小さな布袋が、草の影に転がっていた。
その周囲には、地面に深く刻まれた獣の足跡がいくつも残されている。
「薬草……? ノアのものかもしれない」
スミレが袋を拾い上げ、中を覗く。
乾きかけた草が数本、潰れた形で残っていた。
それは、子どもが大事に持っていたもののように見えた。
一行はさらに奥へと進む。
ぬかるんだ地面を越え、倒れかけた木々の向こうに──
朽ちた荷車と、破れた布で覆われた小さなテントが見えた。
湿地の中にぽつりと佇むそれは、誰かの隠れ家のようだった。
「……誰か、いるの?」
リリスがそっと呼びかける。
その声に反応するように、テントの中で布が揺れた。
そして──
「……な、なんだお前ら!」
「近づくニャ!」
勢いよく飛び出してきた影。
鋭い目と、頭からぴょこんと飛び出た三角の耳。
見覚えのある顔と声。
「ミーニャ……クロネ……!」
スミレが目を見開く。驚きの声に、ミーニャも同じように驚きを返す。
「ニャニャ!? スミレ!? それに、蓮まで……なんでこんなところに……!」
「わ、私もびっくりよ……!」
スミレが駆け寄ろうとした瞬間、ミーニャの方から飛びついてきた。
「ニャニャー! 会えて嬉しいにゃー!」
ぎゅっとスミレに抱きつくミーニャ。その様子を、クロネはやや警戒しつつも、静かに見守っている。
ミーニャはスミレから離れると、少し照れたように言った。
「……あたい達、今もキャッツリーに住んでるけど、バステトの様子も時々見に来てるんだにゃ」
クロネが小さく頷き、言葉を継ぐ。
「あたいらは、草食獣にも肉食獣にもなりきれない、どっちつかずの種族にゃ。──でもだからこそ、両方の間に立てる存在になれるんだにゃ。どっちの声も、聞けるってことにゃ」
蓮はその言葉に、小さく頷いた。
それはきっと、この土地でこそ意味を持つ“役割”なのだと。
そのとき、一歩下がっていた蓮がふと気づく。
小さな女の子が、ミーニャたちの背後に隠れるようにして立っていた。髪も服も泥だらけで、怯えた目をしている。
「君は──」
「この子は、湿地で肉食獣に襲われそうになってたのを、あたいらが助けたにゃ。ずっと黙ったままで……名前も教えてくれないけど」
ミーニャの声には疲労がにじんでいた。
スミレがそっと歩み寄り、膝をついて少女に目線を合わせる。
「ありがとう。私たち、この子のことを探していたの。無事で、本当によかった……」
ミーニャはこくりとうなずく。
「でもニャ……最近の肉食獣、ちょっとおかしいんだニャ。まるで……本能とは別の、何かに操られてるみたいな」
その言葉に、蓮はぴくりと反応する。
脳裏をよぎったのは──サタンの存在。
(やっぱり……ここも、無関係じゃない)
「何か策を練らないと……」
そう呟いた蓮の声を、鋭い声が遮った。
「ところで──そこの狼。ちょっと顔を見せてほしいニャ」
クロネが一歩前に出て、タオを見据える。
タオはその目を見返し、息を呑んだ。
「……やっぱりお前、あの時の……黒猫か」
その言葉に、クロネの耳がぴくりと動く。
「その反応……間違いないニャ。種族までは見えなかったけど、すぐに何かを感じた……よくもあの時、あたいの耳を噛みちぎってくれたニャ!」
ピンと立った片耳。だが、もう片方は──かつて何者かにより噛みちぎられたまま、今も欠けていた。
タオは目を逸らさず、低く応じる。
「……確かに、俺がやった。でもな、そっちが先に仕掛けてきたんだろ?」
空気が一気に張り詰める。
リリスがすかさず割って入った。
「ちょ、ちょっと待って! タオ、本当にあの子たちと会ったの?」
「会ったどころじゃねえ! リリス、お前も覚えてるだろ? 物資を盗まれかけて、泥だらけになったこと!」
リリスは一瞬きょとんとした後、はっと目を見開いた。
「あ……思い出した! あのときの、猫ちゃんたち……!」
──孤児院を出てすぐの頃。
ネイトエール城下町で、クロネとミーニャに出会ったあの時を思い出した。
クロネがビクリと反応するが、すぐに反論を返す。
「そうしなきゃ、生きていけなかったんだニャ! 弱者は、生きるために噛みつくしかなかったニャ! それを、お前は力でねじ伏せたんだニャ!」
「……おいおい、それは……確かにやりすぎたかもしれねぇけど、俺だけが悪いってのは──なぁ……」
口論の熱が高まる中、蓮とスミレが一歩ずつ踏み出し、二人の間に立った。
「落ち着いて、二人とも……」
「今は言い争ってる場合じゃないでしょ? ノアのこと、それにサタンのこと……私たち、一緒に考えなきゃ」
クロネとタオは睨み合いのまま、しばらく沈黙する。
だが次第に、互いの表情が少しだけ緩んだ。
「……まあ、この話はまたあとでニャ。これだから乱暴な肉食獣は嫌いだニャ」
クロネのその言葉に、タオは少しだけ複雑な顔をする。
昨夜のやりとりがあったからか、その言葉が胸にひっかかったようだった。
「こら! クロネ! いい加減にするニャ!」
ミーニャの一喝に、クロネは耳をしょんぼりと伏せた。
「盛り上がってるとこ悪いが……そろそろ本題に入っていいか?」
少し呆れ気味にその様子を見ていたホクトが、美穂と視線を交わしながら言う。
「ノアちゃんが見つかったことだし、早めに報告に戻ろう」
美穂のその言葉に、一行は頷いた。
だがミーニャは、どこか心配そうに口を開く。
「あんたたちが、どれだけ大きなことに関わってるか……最初に蓮やスミレに会ったときから、薄々気づいてたにゃ。──それでも、無事でいてほしいんだにゃ」
「……ありがとう、ミーニャ」
その時だった。
空気が変わる。ホクトの隻眼が鋭く動いた。
「来たか」
ただ一言、警戒の声が漏れる。
外に飛び出すと、霧の中から黒い影が姿を現す。
ケイ──そして、彼に付き従う獣人型サタンたちが、テントを囲うように立ちはだかっていた。
スミレがすぐに振り返り、叫ぶ。
「ミーニャ! クロネ! ノアを連れて逃げて!」
猫人姉妹は力強く頷き、ノアを抱きかかえて湿地の木々の向こうへ駆け出した。
霧の隙間を縫い、跳ねるように消えていく。
「頼んだぞ!」
蓮の叫びに、クロネが一瞥もせずに叫び返す。
「もちろんだにゃ! 任せてにゃー!」
ミーニャがノアを胸に抱いたまま、木々の上を駆ける。クロネが背後を守るように走り、霧の中へと姿を消した。
「……ケイ!」
タオが叫ぶと同時に、ケイが歩を進める。湿地の泥水が、ゆっくりと彼の足元を飲み込むたび、不穏な音が空気を歪ませる。
「タオ……お前を迎えに来た」
その声は低く、地を這うようだった。湿り気を含んだ声が、まるで身体の芯に這いずるように響く。
「お前はこっち側だ。抗っても無駄だ。いずれ自ら悟る時が来る。最初から“力”に身を委ねればよかったと」
タオの拳がわずかに震える。握った指先が、皮膚を裂くほどに力を込められている。
「……黙れ」
その一言は震えにも似ていた。恐れか、怒りか、判別のつかない感情が混ざっている。
ホクトが一歩、前に出る。彼の動きに合わせ、湿地の空気が一気に張り詰めた。
「ケイ。今日で……決着をつける」
鋭い声。決意は刃となり、空気を切り裂く。
ホクトの一歩に呼応するように、ケイが右手を振り上げた。
唸り声が響く。ぬるりと地の底から這い出すように、獣人型のサタンたちが現れ、一行を取り囲んだ。
「チッ、こっちはこっちでお出迎えか!」
蓮が叫び、剣を引き抜く。鋼が空を切る音が、濁った空気を断ち割る。
先頭のサタンへと蓮が斬りかかる。斬撃が肉を裂き、血が泥と混ざりあって飛び散った。
その背後から、美穂の氷の魔法が鋭く走る。鋭い氷柱が宙を舞い、スミレの魔力が花弁のように舞い上がる。霧と花と血が混じり合い、幻想にも悪夢にも似た光景をつくり出す。
「いくぞ!」
「援護は任せて!」
蓮の動きに呼応するように、リリスが横からすっと飛び出す。紫に染まる魔力を短剣にまとわせ、音もなく敵の死角へ。
「邪魔はさせないよ」
短く呟いた声と同時に、リリスの刃がサタンの脇腹を切り裂く。熱い血が空気を裂き、叫び声が響く。
戦場の喧騒の中、ホクトとタオはケイを睨み据えていた。ふたりの周囲だけ、異様な静けさが支配していた。
ケイが湿地を踏み鳴らし、ゆっくりと前に出る。黒い瘴気が足元から立ち上がり、空気がどす黒く染まっていく。
「さあ、選べ……拒むか、受け入れるか」
圧力のような魔力が、じわじわと体表を侵す。ケイの姿が霧の中へと溶け、視界から消える。
「来るぞ!」
ホクトの叫びと同時に、ケイの巨体が目前に現れた。
「っ……!」
獣爪が振り下ろされ、ホクトの剣が弾かれる。打撃音とともに彼の身体が空を舞い、地に叩きつけられた。
「ホクトッ!」
タオが駆け出すが、ケイの肘打ちが容赦なく迫る。受け止めた腕に重すぎる衝撃が走り、骨の軋む音が内側から響いた。
「ガオスの死も、無駄だったな……」
耳元で囁かれる声に、タオの意識が揺れる。
「仲間を守りたい? それが“弱さ”を生む」
タオの膝が地につき、肩に黒い靄がまとわりつく。泥に混ざる瘴気が、まるで自分の中から湧き出ているような錯覚に陥る。
(まただ……また、全部壊す……)
幼い記憶が、黒い水のように蘇る。父の死、自らの叫び、すべてが指先からこぼれていく。
「やめろ……俺が……俺じゃなくなる……!」
「お前はもう、“それ”の一部だろう?」
ケイの嘲笑が響く。
──その瞬間、走馬灯のように脳裏を駆ける記憶。訓練の日々、仲間の笑顔。そして、若きホクトとケイの姿。
それは、ガオスの記憶だった。
「力を変えるのは、俺たちだ」
その言葉を、かつてのケイが言っていた。
(親父の……記憶、?)
タオは動揺を隠せない。けれど、心の奥底に火が灯った。炎は細く弱いが、確かに熱を持っていた。
「……ケイ。お前が間違っていたことを、俺が証明する」
泥の中から立ち上がる影──ホクトだ。剣を杖代わりに、タオの肩に手を置く。
「お前が選ぶんだ。呑まれるか、呑み込むか」
タオの拳が震える。だが、もうそれは恐れではなかった。涙がにじみ、こぼれる。震える手に、意志が宿る。
「……もう、逃げねえ」
その時、赤い狼の影が背後に浮かび上がる。荒ぶる力が、タオの内から噴き上がる。だがそれは暴走ではなかった。意志と共にある“力”だった。
ホクトの目に、ガオスの姿が重なる。
「タオ、行くぞ」
剣が閃き、拳が闇を裂く。
ケイの腕が切り裂かれ、黒い血が舞う。
「グゥゥ……!」
ケイの唸りとともに、大地が揺れる。
その魔力は嵐のように周囲を蹂躙する。
「まだだ……!」
タオが突進し、拳がケイの腹にめり込む。
続いて、ホクトが上空から渾身の一撃を叩き込む。
「お前を、止めてやるっ!!」
ケイの身体がのけぞる──が、彼はなおも笑っていた。
「やはり……お前たちは……」
その瞬間、地鳴りが響く。




