小さな居住地
夜は深く静まり返り、焚き火の火がぱちぱちと静かに音を立てていた。タオはその光の端に一人座り、黙ったまま宙を見つめていた。燃える炎が揺れ、彼の横顔を淡く照らしている。
少し離れた木陰では、美穂とスミレが丸くなって眠っていた。二人の寝息が静かに重なり合い、そこだけ穏やかな空気が流れている。
そこへ、ひとつの影が近づく。リリスだった。
彼女は無言のままタオの隣に腰を下ろすと、少し間を置いて口を開いた。
「……まだ、しんどい?」
心配するようにタオを覗き込んだ。
「ん……少しだけな。頭の奥が、まだざわついてる」
「その感覚、少し分かる。自分が自分じゃなくなりそうで、怖いのよね」
しばし沈黙が続いた。けれどその空白は、決して気まずいものではなく、ようやく巡ってきた「言葉を探すための時間」だった。
「……色々、ごめんね」
リリスがぽつりと呟くように口を開く。
「タオが毎晩いなくなってるのを見て、あたし……すごく心配で……それでも何も言えなかった。だって、あんたが何かを隠してるのは分かってたから」
タオは視線を下げ、小さく息を吐く。
「……俺も、悪かった。ちゃんと話していれば……リリスを巻き込まずに済んだかもしれねえのに」
その言葉に、リリスの眉がぴくりと動いた。
「それっ……なんでよ」
少し震える声で彼女は言い返す。
「巻き込んでよ。あたしを……もっと頼ってよ。そばにいたのに……ずっと、隣にいたのに……!」
タオは目を伏せたまま、唇を固く結んだ。
「……分かんねぇのか。もう……お前を失いたくねえんだ。ティナだって、守れなかった……。お前にこれ以上、苦しい思いをしてほしくないんだよ」
焚き火の音が、しん、と響く。
リリスは拳をぎゅっと握り、噛みしめた唇からようやく言葉をこぼした。
「そんなの……そんなの、あたしが決めることでしょうが……!」
声が震えているのは怒りか、それとも悲しみか。
「……タオが……他の女と寝るくらいなら……あたしが、あんたと……!」
言いかけて、ハッと息を呑む。言葉の続きを飲み込んだリリスの頬が、一気に赤く染まる。
「お前っ……そんなこと気にして……」
「……っ、うるさい! タオの、女たらし!!」
そのまま立ち上がると、バッと踵を返し、火の向こうへ去っていった。
タオは呆然とその背を見送り、肩を落としてうなだれる。
「……聞いてたか?」
そこへ、どこからともなく現れた蓮が、焚き火のそばに腰を下ろした。
「ごめん。少し聞いちゃった。でも……すごいな。リリスにあそこまで言わせるなんて、お前くらいだよ」
タオは頭を抱え、重く溜め息をつく。
「……全然勝った気がしねぇ……完全に、負けたわ」
「でも、なんかタオ……ここ最近で一番ちゃんと生きてる感じするよ」
蓮のその一言に、タオはゆっくりと顔を上げる。
「ちゃんと……か」
「うん。リリスとぶつかって、こうして戻ってきて。さっきまではもうダメかと思ったけど……ちゃんとここにいるじゃん」
焚き火の炎が、二人の間を温かく照らす。夜風が木々を揺らし、かすかに火が揺れた。
蓮は静かに言う。
「……なあ、タオ。もしまたお前が暴走しかけたら、今度は俺が止める。全力でな」
タオは目を見開き、それから、わずかに微笑んだ。
「……頼りにしてるぜ、相棒」
「なっ……相棒? なんだよそれ! な、なんか恥ずかしいな!」
月が高く登っていた。静かな夜の、ほんの小さな、確かな絆の時間だった。
***
朝の森に、かすかな陽の気配が差し込み始めていた。
焚き火はすっかり消えて、湿った空気が草と土の匂いを漂わせている。
「……おい、起きろ」
静けさを切るような声で、ホクトが蓮の肩を小突いた。
その声に反応して、順に周囲の仲間たちも目を覚ましていく。
「ん……ホクトさん……朝ですか……」
蓮が頭をかきながら起き上がると、美穂が欠伸をかみ殺しながら身を起こす。
スミレは既に背筋を伸ばして座り、辺りの気配を静かに探っていた。
「ふぁ〜」
リリスの欠伸が響く。うつぶせで寝ていたせいか髪がぐしゃぐしゃのままだ。
タオは焚き火のそばで仰向けに寝ていたが、ホクトと目が合った瞬間、眉をひそめながら体を起こした。
二人の間に、一瞬だけ沈黙が流れる。
気まずい──というより、踏み込みどころの分からない空気。
ホクトはそれを振り払うように、あえて全体に向き直った。
「これからのことを話す」
短く言い切ると、ホクトは近くの石に腰を下ろす。
「引き続き、バステトの治安改善に向けて動く。このまま弱肉強食が続けば、いずれネイトエールにも火の粉が飛んでくる。今のうちに止める必要がある」
全員の目がホクトに集まる。
その視線の中に、蓮が声を重ねた。
「つまり……バステトを仕切ってるやつ──ケイが、黒幕ってことですよね」
「そうだ。奴がバステトの混乱を操っている張本人だ。だが今すぐ直接ぶつかるにはリスクが大きすぎる。まずは、草食獣人たちの保護を優先する。弱い者から守るのが、騎士団としても俺たちの筋だ」
リリスが小さく頷き、美穂も真剣な顔で地図を覗き込む。
タオは黙ってその話を聞いていたが──ふと、ホクトと目が合う。
言葉にできないものが交錯したまま、互いに目をそらした。
「元々やっていた任務を熟すだけだ」
タオがぼそりと呟く。
言葉には素直さがなかったが、それでも力は込められていた。
「……ああ」
ホクトも短く返す。
その言葉の間に、かすかにだが、確かな「和解の一歩」があった。
「じゃあ、朝飯食べたら準備だな。さっさと草食獣のとこ、回ろうぜ」
そう言った蓮に、美穂が「ちょっとくらいゆっくりしても……」と笑う。
スミレは立ち上がりながら、ちらりとホクトとタオを交互に見つめ、何かを思ったように静かに微笑んだ。
こうして、再び歩き出す朝が始まった。
朝日が木々の隙間から差し込み、森に淡い光を注いでいた。
一行は森を抜け、草食獣人たちが身を寄せ合って暮らす、小さな居住区へと足を進めていた。
異種族である彼らの姿は、村に近づくにつれて徐々に周囲の視線を集めていく。
草食獣人の子どもたちは物陰からそっと顔を出し、大人たちは一瞬、警戒するように身を固くした。
「……歓迎されてるって感じじゃないね」
リリスが小さくぼやく。
「当然だ。ここは、弱い者が虐げられる世界だ。誰かを信用する余裕もない」
ホクトは淡々と返しながらも、その視線は村の奥へと向けられていた。
スミレは立ち止まり、そっと手をかざして空気の流れを読む。
「……傷ついた気配がたくさんある。疲れきった精霊たちの声も……」
その声に、美穂が小さく頷いた。
「ちゃんと……助けたい。少しずつでも、信じてもらえるようにしないと」
そのやり取りを、タオは少し離れた場所から見つめていた。
蓮と視線が合うと、タオはわずかに肩をすくめる。
「……俺、ここにいちゃいけない気がするんだよな」
「え? なんで?」
蓮が尋ねかけたそのとき、子どもたちの声が耳に飛び込んできた。
「見て、あれ、狼だ!」
数人の幼い子どもたちが、タオの姿を見るなり、ぱっと逃げていく。
怯えた目で、大人たちの背後に隠れるようにして。
タオはそれを見て、ふっと小さく息を吐くと、フードを深くかぶり、少し距離を取って歩き始めた。
「……ほらな。やっぱ俺は、いるべきじゃない」
その呟きを聞きつけたリリスが、くるりと振り返る。
「ったく、何しょげてんのよ。狼ってだけで怖がられるなんて、理不尽すぎるわよ」
そう言ってリリスは一歩前に出ると、明るい笑顔で草食獣人たちに声をかけはじめた。
「こんにちはー! あたしたちはネイトエールから来たの。困ってることがあれば、ちゃんと力になるからね!」
その言葉に、村の者たちも徐々に警戒を解き始める。
兎の耳を持つリリスは、どこか親近感を抱かせるのだろう。
子どもたちの中には、こっそり彼女の後ろに隠れて覗き込む子もいた。
スミレと美穂はその様子を少し離れたところから見守っていた。
蓮がふとタオに目をやる。
「……リリス、すごいな。ああやって、自然に馴染んでる」
タオは肩をすくめた。
「ま、アイツは昔からそういうやつだ」
言葉とは裏腹に、彼の口元にはかすかな微笑が浮かんでいた。
リリスが子どもたちと打ち解け、ようやく空気が和らぎはじめた頃。
一行は草食獣人の代表者たちに呼ばれ、粗末な集会所のような建物へと案内された。
薄暗い室内。藁と土で作られた床の上に、草食獣人の長老たちが静かに座している。
その瞳は鋭く、一行に向けられる視線には、あからさまな“疑い”が滲んでいた。
「お前たち……何の目的で、ここに来た」
最も年嵩の長が、低く乾いた声で問いかける。
その隣には、まだ若いが目つきの鋭い壮年の男が腕を組んで座っていた。
「私たちは王都ネイトエールから来ました。バステトの現状は聞いています。少しでも力になれたらと……」
スミレがゆっくりと頭を下げる。だが、その言葉にも周囲はざわついた。
「……昨夜の騒ぎ、まさかお前たちの仕業か?」
「黒い咆哮の正体が──」
「“狼が暴れた”と……風の噂が届いておる」
「まさか、この男が……」
怯えと敵意が入り混じった声が広がる。
視線の矛先は、部屋の隅で控えていたタオだった。
タオは何も言わず、視線を逸らしたまま、黙って立ち尽くしている。
「……もし誤解を招いたのなら、謝ります。でも、私たちは脅しに来たわけじゃない」
美穂が一歩前に出て、真っ直ぐな声で言った。
「騒動があったのは事実です。でも、その中で命をかけて戦った仲間がいます。守るために──命を落とした人もいたんです」
その言葉に、一瞬、空気が静まり返る。
スミレも続けて言った。
「どうか……私たちを敵と見ないでほしい。信じてもらえるように、私たちは行動で示します」
長老たちは、互いに目を見交わす。
やがて、壮年の男が重い口を開いた。
「……ならば、ひとつ頼みがある。もし本当に“力になる”というのなら──行方不明になった子どもを探してくれ」
空気がさらに重くなる。
「三日前、薬草を採りに出たまま戻ってこない。……名前はノア。七歳の子だ」
リリスが息を呑む。
「七歳……そんな子が、たったひとりで?」
「今のバステトでは、警備も機能しない。大人たちも食べていくのがやっとで……
それでもノアは、“薬草を見つけたら、きっと誰かが喜ぶ”って……」
男の声が、かすかに震えていた。
ホクトが静かに立ち上がる。
「……俺たちが探す。場所は?」
「南東の湿地だ。ただ……今は魔物が多く、奥には近づけぬ。正直、無事でいるとは……」
「無事かどうかじゃない。──探す。ただそれだけだ」
リリスがそう言って勢いよく立ち上がる。
「絶対に助ける。連れて帰ってくるよ」
蓮がタオを振り返る。タオは一瞬躊躇したが、やがて低く答えた。
「……俺も行く」
スミレが小さく頷いた。
「見つけ出して、ちゃんと連れて帰ります」
長老は深く目を閉じ、しばし沈黙。
やがて、かすかに呟くように言った。
「……頼む」
その一言に、静かに火が灯る。
こうして一行は──
行方不明の子ども“ノア”を救うため、そして疑念の眼差しを信頼へと変えるため、南東の湿地へと足を踏み入れるのだった。




