騎士の思い
塔の戦いが終わり、静けさが戻った頃。
一行は、バステトの喧騒から離れた森の中で身を潜めていた。
焚き火の灯りが、ゆらゆらと赤く揺れる。
その周囲には、それぞれの思いを抱えた仲間たちが集まっていたが、誰も口を開こうとはしなかった。
タオは、未だ昏睡状態のまま、大きな体を横たえている。
その姿はすでに変異のピークを過ぎていたようで、彼本来の狼人の姿へと戻っていた。
うっすらと汗を浮かべた額には、冷えた布が乗せられ、その傍ではスミレと美穂が交代で看病を続けていた。
一方、焚き火の向こうに座るホクトの胸元には、まだ応急処置の包帯がしっかりと巻かれていた。
その下には、タオの一撃によって刻まれた深い傷跡がある。
動けばまだ痛むはずだが、彼はその苦痛をおくびにも出さず、静かに炎を見つめていた。
やがて、沈黙を破ったのは、蓮の声だった。
「……ホクトさん。あの時、タオが暴走した瞬間、誰よりも早く、ためらいもなく抑制剤を打った。敵味方も、事情もわからない中で、命を賭けて“止める”ことを選んだ。その時、俺は気づいたんです。ホクトさんは、何かを知ってるって……」
ホクトは焚き火の先を見つめたまま、微動だにしない。
「全部……話してください。ホクトさんのこと……サタンのこと」
蓮の言葉に、リリスとスミレも顔を上げる。
少しの沈黙ののち、ホクトは口を開いた。
「……そうだな。もう潮時か」
細く長い息を吐きながら、ホクトは静かに語り始める。
「俺は……“あいつら”と同じだ。サタンと呼ばれる存在と、同じ血を持っている」
焚き火の光がわずかに揺れた。
蓮たちは、言葉を飲み込むように静まり返る。
「“サタン”っていうのは、ただの化け物じゃない。もとは── お前たちと変わらない、普通の者たちだった」
一瞬、空気がざらついたように感じた。
「けどな……俺たち五人だけは、最初から違った」
リリスが思わず訊ねる。
「五人……?」
ホクトは静かに、名前を口にする。
「ケイ、ガオス、アンネ、ローレ──そして、俺。五大悪魔ーーそれが俺たち五人につけられた名称だ」
その名を聞いたとき、蓮の眉がわずかに動く。
(……アンネ? どこかで聞いたような……)
だが、その疑念は言葉にできないまま、ホクトの話に押し流される。
「“サタン”には、二つの種類がいる。
ひとつは、“後天的サタン”。俺たちのような者から血を与えられ、姿と心を変えた者たちだ。ティナや……お前もそうだ、リリス」
リリスがわずかに視線を伏せる。
「そしてもうひとつが、“先天的サタン”。俺たち五人のように、生まれつきその血を持って生まれた存在だ」
ホクトの声に、迷いはなかった。
「先天的な血は、強大で、危うい。俺たちはその力に侵されていった。……四人は理性を失い、自分を保てなくなった」
「俺だけが、それに抗った」
リリスが小さくつぶやく。
「……それで団長は、“裏切り者”って呼ばれてる?」
ホクトは、わずかに笑った。その目は、炎の奥の、遠い過去を見ていた。
「ああ。仲間たちは、俺を裏切り者と呼んだよ。けど──それでも構わなかった」
「俺は、“仲間を止める”ために、剣を取った。騎士として生きることを、選んだんだ」
スミレが、焚き火越しに口を開く。
「じゃあ……タオも、その“血”を……?」
スミレの問いに、ホクトが頷いた。
その瞬間、焚き火の炎が一際強く揺れた。
「悪魔化したガオスを殺したのは俺だ。
……それが、あいつとの約束だったからだ。
そして俺は頼まれた——“息子を頼む”と。
タオを孤児院から引き取り、騎士団として育てたのも……監視のためだった」
言葉の途中で、ホクトの声がわずかに震えた。
それに気づいた蓮は黙ったまま、拳を強く握りしめる。
「監視って……タオのこと、信用してなかったってことかよ……?」
「違う」
ホクトは首を振る。
「信じたかった。だが、それ以上に恐れていた。もしも、あの血が目覚めたとき……あいつまで、ケイやガオスのようになってしまったらと」
焚き火の火の粉が、空へと舞い上がる。
その瞬間、空気が重く感じられる。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
「抑制剤は、ガオスの血液と魔力を分析して、俺が独自に作ったものだ。タオが変異する日が来るかもしれない……そう思い続けて、ずっとポーチの中に忍ばせていた」
ホクトの目が、火を越えて蓮たちに向けられる。
その目には決意と覚悟が宿っていた。
「だが、抑えられるのは一度きりだ。
……次は、ない。もしタオが再び呑まれれば、今度こそ——」
そこでホクトは言葉を切り、唇をかみしめた。
「そんなの……そんなの、救いがなさすぎるだろ……!」
蓮の声が震える。
それに続いて、リリスがそっと言葉を繋ぐ。
「だから、あたしたちが……」
「タオの“居場所”でいよう。ただの仲間として」
ホクトが目を細める。
その目は、確かな決意を見せていた。
「……タオならまだ、“自分を保てる”と信じている」
蓮の言葉に、蓮も頷きながら問いかけた。
「でも──ホクトさんも五大悪魔の一人なのに、なんでホクトさんは悪魔化しないんだ?」
ホクトの顔に一瞬、険しい表情が浮かんだが、すぐに消え、静かに答える。
「……それは、俺自身にも分からない。血が目覚めたとき、俺も一度は呑まれかけた」
「呑まれかけた?」
リリスが驚いて問いかける。
「ああ。俺は必死に血の力を拒絶しようとして、必死に耐えた。その結果、今の俺がいる」
ホクトは言葉を選ぶように、静かに続ける。
「でも、あいつらは……自分の力を抑えきれなかった。それが、血が暴走する原因だったんだろうな」
蓮が疑問を口にする。
「でも、さっき言ってた抑制剤。それを自分には使わなかったんだよな?」
ホクトは一度、目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。
「ああ。使わずに、抑制ができた。あの血が完全に暴走する前に、何かしらの力が働いたんだろう」
一瞬の静けさが訪れる。
ホクトは、遠くの焚き火の炎を見つめながら続けた。
「だが、それが完全に抑えられてるとは限らない。もし俺が何かの拍子で暴走したら、もう自分を制御できない」
ホクトは少しの間黙った後、苦い笑みを浮かべた。
「その時のために──お前たちがいる。俺がかつての仲間を殺すように、お前たちも、俺をいつか殺すときが来るかもしれないな」
その言葉には、深い後悔と決意が込められていた。
ホクトの言葉が夜の静寂に溶けた、その刹那。
「……う……」
かすかなうめき声が、闇の中からこぼれる。
スミレとリリスが同時に顔を上げ、タオのもとへ駆け寄った。
「タオ……!」
「目が……覚めたの?」
まぶたがゆっくりと開き、焦点の定まらない瞳が揺れる。タオは、まるで悪夢の続きを見ているかのように周囲を見回した。
「……俺……何を……」
そして、ホクトと目が合った瞬間だった。
バチン、と音がするような衝撃が、タオの中で何かを弾いた。
「——ッ!」
タオの体がびくりと震え、目が一瞬で赤く染まる。牙がわずかにのぞき、呼吸が荒くなる。手が無意識に力を帯び、変異しかけた指先が爪の形に変わっていく。
「おい、タオ……! 落ち着け!」
蓮の声は届かない。タオの視界にはホクトだけが映っていた。
「……お前を……殺す……ッ!」
殺意の波が、夜気を切り裂く。
その瞬間だった。
「タオ!!」
リリスが叫び、タオの前に立ちはだかった。
「見て! あたしの目を……見て!!」
赤く染まったタオの瞳が、リリスのそれと交錯する。
リリスの瞳は、強く、震えながらもまっすぐだった。
「あたしも……同じだった。自分を失いかけた。“それでも”あんたは手を伸ばしてくれたーーだから今度はあたしが……!」
タオの肩が震えた。
「……俺は……っ」
「自分を見失わないで! 誰よりあんたが、それを一番恐れてるんでしょ!? だったら、戦ってよ……自分自身と!」
リリスの声が、夜に響いた。
タオは……その場で膝をつき、肩で荒く息をしながら、変異しかけた体が少しずつ静まっていく。
赤かった瞳が、徐々に元の色に戻っていった。
だがその直後。
「——っ、あああッ……!」
タオの体がびくりと大きく跳ねた。
耳の奥で、何かが爪を立てて暴れる。
脳をかき乱されるような、ぐちゃぐちゃにされるような、激しい耳鳴りと頭痛。
理性が焼き切れそうになる。
「やめろ……やめろ、やめてくれ……!」
うずくまるタオの元に、ホクトが駆け寄り、その体を支えた。
「タオ、しっかりしろ。呼吸を整えろ。
……それは全部、幻覚であり幻聴だ。惑わされるな」
冷静だが、どこか祈るような声だった。
タオの目尻から、ぼろりと涙がこぼれる。
苦しみ、悲しみ、悔しさ、怒り——
全部が胸に押し寄せ、呼吸を奪っていく。
しばらくして、ようやく耳鳴りが遠ざかり、頭痛も薄らいでいった。
タオは、震えるまま顔を上げた。
「ホクト……お前を、俺は……許せない」
その声は、怒りとも、涙ともつかない、苦しい絞り出しだった。
ホクトは少しの間黙り、タオの視線を正面から受け止めたあと、ぽつりと答えた。
「ああ——それでいい。
俺は、ガオスをこの手で殺した。それは……俺が一生背負わなきゃならない罪だからな」
タオは何も言わず、ホクトの手を振り払った。
うつむいたまま、拳を強く握りしめる。
誰も、その姿に声をかけられなかった。
夜の闇だけが、静かに彼を包んでいた。
ホクトはしばらくその場に立ち尽くしていたが、
やがて、わずかに息を吐くと、そっと立ち上がった。
「……悪い。少し、一服してくる」
それだけ言い残し、足音も立てずに闇の中へと歩き去っていく。
その背中は、どこか遠く、
誰よりも孤独に見えた。




