未完成の怪物 後編
塔の空間が揺れている。
ホクトとケイ。
正反対の信念を掲げた二人の激突が、空気を裂く轟音と共に火花を散らす。拳と拳、魔力と魔力、意志と意志がぶつかり合い、周囲に稲妻のような衝撃波を巻き起こす。
「お前の“正義”が、どこまで持つか見ものだなあ!!」
ケイが吠える。
その筋肉の膨張と共に、腕が獣のように肥大化する。
黒く染まった毛並みのような魔力が、彼の体を包み込み、熊のような巨腕が地を砕きながらホクトへと振るわれる。
「ぐっ……!」
ホクトが空中でバックステップを取り、腕を交差して受け止める。
だが、反動で体勢を崩す。重い──一瞬、表情に苦悶が走った。
「さすが……重いな」
「理性ヅラした化け物が……よく言うよなぁ!」
ケイが笑う。
その目には、かつての仲間に向けるような情は一切ない。ただ破壊への歓喜だけが燃えていた。
一方、蓮たちは獣人型サタンたちと激戦を繰り広げていた。
「シェリー、右から来るよ!」
「分かってる!」
スミレの魔力が迸り、蔓のような緑の呪縛が敵を絡め取る。
その間隙を縫って、リリスが足元から跳躍。双剣に魔力を込めて、獣人の肩を深く斬り裂いた。
「よしっ、美穂、援護!」
「任せて!」
美穂が放った光弾が、空中からサタンたちを貫く。
爆発とともに地面が砕け、煙の向こうでいくつかの影が崩れ落ちていった。
その戦場の片隅──
まだ誰も気づいていない。
タオの体を拘束していた黒い鎖が、ひとつ、またひとつとほどけていくのを。
タオは、静かにホクトを見つめていた。
かつて見せたことのない真剣な眼差しで──その戦い、その背中を、じっと見つめている。
……何も言わず、ただ見守るように。
そしてその時。
「タオ、拘束が解けたな!」
ホクトの声が飛ぶ。
ケイとの拳の応酬の合間に、彼はちゃんとタオを見ていた。
「立てるなら、応戦を頼む!」
その言葉に、タオは顔を上げた。
ホクトの隻眼が、まっすぐに自分を信じている。
「……ああ」
タオは、立ち上がった。
次の瞬間──
「……悪いな、ホクト」
刹那。
ホクトがわずかに振り返る。
そこにあったのは、信じていた仲間の瞳──そして、胸に走る冷たい感触。
タオの爪が、ホクトの胸を、深く貫いていた。
ホクトが胸の痛みに顔を歪め、ゆっくりと視線を下ろす。
タオの爪が、確かに彼の胸元を深く貫いていた。
タオは歯を食いしばりながら、ホクトを真っ直ぐに見つめている。
ホクトは微かに口元を歪め、息を吐きながら呟いた。
「くっ……そうか、今か。それは……油断、したな……」
その声に驚きが混じらない。
まるで──刺されることを、どこかで理解していたかのような響き。
「ハハハハッ!」
ケイの笑い声が塔に響く。彼の顔には、愉悦と狂気が混じっていた。
「でかしたぞ、タオ! いいぞ、その爪、その怒り、その血! さあ、俺たちの仲間になれ!!」
しかしタオは、拳を震わせながら低く唸った。
「……お前の味方になった覚えも、ない……!」
その声に宿るのは、自らの意思。
決してケイの操り人形ではないことを証明するように、タオは爪を引き抜き、再びホクトを突き放した。
「タオ……! どうして……!」
リリスが絶叫する。タオを信じていたその声が、悲痛に震えている。
だが、タオは彼女を振り返らなかった。ただ前を見据えたまま、静かに口を開く。
「……ずっと、こうしたかったんだ」
声は低く、だが確かな憎しみに満ちていた。
「こいつは……ホクトは、俺の親父を殺した!!」
その言葉が塔の空間を切り裂いた。
時間が止まったような沈黙。
誰もが、その事実に言葉を失っていた。
──ホクトが、タオの父を?
驚愕と混乱が仲間たちの表情を曇らせる中、タオの怒りだけが燃え続けていた。
そして、ついにスミレが叫んだ。
「ホクト様!」
駆け寄る彼女の足音が、沈黙を破る。
スミレはホクトの体を支え、その胸に顔を寄せるようにして回復魔法を発動した。
手のひらから癒しの光が溢れ、花びらが舞い始める──けれど。
「……だめ、止まらない……!」
どれだけ魔力を注いでも、ホクトの傷は癒えない。
その体は、まるで深い呪いに蝕まれているかのようだった。
「美穂、お願い……!」
「うん!」
美穂も駆け寄り、手を重ねる。二人の魔力が重なってもなお、傷は塞がらない。
「お願い、持ちこたえて……!」
その間にも、蓮とリリスは動揺を押し殺し、獣人型サタンと交戦を続けていた。
「クソッ……こんな時に……!」
蓮は額から汗を流しながら、剣を振るう。焦りが刀身にまで滲んでいるようだった。
「今は……目の前の敵を止めるしかない……!」
リリスの双剣が獣人の喉元を裂きながら、彼女の瞳はずっと、タオの方を見ていた。
その姿──タオの体が、徐々に異形へと変わりつつあることを、見逃せなかった。
タオの体が、ゆっくりと変貌していく。
毛並みのような黒い紋が腕に浮かび、瞳が赤く染まっていく。
「……ッ、あ゛……!」
息を吐くたび、喉から濁った咆哮のような音が漏れる。牙が伸び、爪が肥大化し、鼓動のたびに悪意があふれ出す。
タオは、自分の中の何かと戦っているようだった。
「タオ……!」
ホクトが、血を吐きながらも声を絞り出す。
「呑まれるな……タオ……!」
血に濡れた口元から、荒い息が漏れる。
「ガオスは……あいつはあの日、悪魔に……自分自身に呑まれたんだ……。お前は……あいつのようにはなるな……絶対に……!」
その声に、一瞬、タオの動きが止まる。
僅かに揺れる瞳。
爪を握った拳に、迷いのような震えが走った。
その隙を逃すまいと、ケイが高笑いをあげた。
「いいぞ……そのまま呑まれちまえ! お前はもう、“俺の作品”だ……!」
だがタオの目は、誰の声にも応えなかった。
握られた拳が、小さく震える。
その奥で、まだタオ自身の意識が、必死に何かを訴えているようだった。
──だけど。
「──あ”あああああああっ!!」
獣のような叫びが塔内に響いた。
タオの背が、膨れ上がる。
背筋が引き裂かれ、黒い獣毛が噴き出す。
眼は完全に赤く染まり、牙が顔の輪郭を塗り替えるほどに伸びた。
“それ”は、もうタオではなかった。
いや、タオという名はまだそこにある。
だがその姿は──誰もが知っていた、あの“狼人”ではなかった。
黒い魔力が嵐のように吹き荒れ、周囲の瓦礫が宙に舞う。
スミレたちの立っていた場所も、強風に押されてよろめくほどだった。
「くそっ……まじかよ!!」
蓮が叫ぶ。
その声に呼応するように、異形のタオが咆哮を上げ──仲間たちに向かって、地を砕きながら走り出した。
「くっ、止まれタオ!!」
蓮が剣を構える暇もなく、タオの巨大な腕が横薙ぎに振るわれる。
剣で受け止めたものの、衝撃で吹き飛ばされ、石壁に叩きつけられた。
「蓮!!」
リリスが双剣を交差させ、正面から迫るタオの爪を受け止める。
その鋭さに、刃の表面がギギギ、と火花を散らした。
「タオ……お願い、戻って……っ!!」
だがその叫びも届かない。
異形のタオは咆哮とともに跳躍し、獣人型サタンの背後に着地すると、黒い腕を地面に叩きつけた。
「うぐっ──」
振動とともに、瓦礫が爆ぜ、獣人型サタンが吹き飛ばされる。
「ハッ……ハハッ、いいぞ……その力、もっと──」
ケイがその様子を喜々として見ていた、次の瞬間。
「っがあっ……!」
彼の体も、タオの爪による一撃で吹き飛ばされた。
血を吐き、壁に激突して崩れ落ちる。
「おい、タオ……しっかりしろよ……」
蓮が、目を見開いたまま呟く。
タオは、敵味方の区別すらなく──ただ、すべてを壊そうとしていた。
スミレと美穂がスロープの陰へ身を隠し、ホクトにしがみつくようにして傷の手当てを続ける。
だが。
ホクトはその手をそっと払い、立ち上がろうとしていた。
「ダメ、まだ動ける身体じゃ……!」
スミレが制止するが、ホクトの目はタオを見据えていた。
「……あれを止められるのは、俺しかいない」
よろける身体を支えながら、ホクトは腰のポーチから、小さな注射器を取り出す。
「それは……?」
「──抑制剤。あいつはまだ……完全には呑まれていない。間に合う」
ホクトは血が滴る胸元を抑えながらタオの方へと歩き出した。
異形のタオがこちらを振り返る。
その赤い瞳が、ホクトをとらえた瞬間──
「うおおおおああああっ!!!」
雄叫びとともに飛びかかる。
「お願い、タオっ……やめてっ!!」
スミレの叫びが木霊するなか、ホクトは自らの身体を盾にしながら、タオにしがみつくように接触。
一瞬の隙をついて、首元へと注射器を突き立てた。
プシュ、と音を立て、液体が体内に流れ込む。
タオの体が、びくん、と大きく震えた。
咆哮が途中で詰まり、全身から黒い魔力が吹き出す。
その場に崩れ落ちたタオの体から、徐々に赤い瞳の輝きが消えていく。
やがて、そこに残ったのは──黒い毛に覆われたまま、意識を失ったタオの姿だった。
「……間に合った、か」
ホクトもその場に膝をつき、意識を失う直前、かすかに呟いた。
塔の空気が、ようやく静寂を取り戻した。
ケイはよろめきながら立ち上がると、黒く染まった口元を袖で拭い、忌々しげに唾を吐いた。
「チッ……やってくれるじゃねぇか」
低く笑いながらも、その声には確かな怒りがにじむ。
「……ま、今回はこれでいい。作品が未完成だったってだけの話だ」
一歩、後ずさると、肩越しにちらりとホクトを睨みつけた。
「次は──もっと美しく、もっと“壊れて”もらうさ。
タオ……お前は俺のもとにいた方が、遥かに“価値がある”」
狂気をはらんだ笑みを残し、ケイは背後の暗闇へと歩み出す。
その足元に落ちた瓦礫が、カラン、と乾いた音を立てたとき──彼の姿は影の中へと消えた。




