未完成の怪物 前編
バステトの街に、静かに夜の帳が降りた。
空はすっかり暗くなり、ひんやりとした空気が肌を撫でる。どこからか、湿った土の匂いがかすかに漂ってきた。昼間の霞が晴れた分、夜の闇はより一層濃く感じられた。街灯のようなものは少なく、ところどころに灯る小さな明かりが、かえって影を際立たせている。
遠くの市場は静まり返り、風に乗って紙くずが舞う音だけが耳に届いた。まるで、町全体が深呼吸を止めて、何かを待っているような、そんな静けさだった。
塔の入り口は、ひっそりと闇に溶け込むように佇んでいた。昼間に見た時よりも、その存在は不気味さを増している。まるで、この場所だけが時間の流れから切り離されているかのようだった。
「鍵は……かかってないみたい」
蓮がそっと扉に手をかけると、驚くほどあっさりと重たい扉が軋みを立てて開いた。中からは冷たい空気が一行を迎えるように流れ出してくる。
「……変ね。こんなに簡単に入れるなんて。誰かが“あえて”通してるみたい」
リリスが警戒するように辺りを見回す。だが、塔の周囲にも、中にも、見張りのような気配は感じられなかった。
「罠かも。でも、今は引き返せないわ」
スミレがきっぱりと言うと、蓮は小さく頷き、先頭に立って中へと足を踏み入れた。
塔の内部は薄暗く、壁には古びた燭台がぽつぽつと並んでいる。誰かが最近通った形跡があるのか、階段には微かに足跡が残っていた。
「上か……」
蓮たちは、静かに階段を上り始めた。足音を消すように、一段一段、慎重に。それぞれの胸には緊張と、これから起こる何かへの覚悟が渦巻いていた。
そして、静寂を切り裂くように、一行の背後から、確かな“気配”が迫ってきていた──
夜の闇に包まれた塔の最上階。
扉を押し開けて踏み入れた瞬間、空気が変わった。
湿った獣の臭いと、鉄のような血の匂い。
そして、そこにいた。
「……!」
蓮が思わず息を呑む。
広い部屋の中央、黒い爪のような何かに絡め取られるようにして、タオが拘束されていた。
両腕を引かれ、膝をついた状態で動かない。だが、その瞳だけが鋭く周囲を見据えている。
タオの前には、玉座のように設えられた椅子に腰掛ける男──ケイがいた。
「やっぱり来たかぁ……お前たち」
口角を吊り上げる笑み。
まるで全てを見通していたかのような余裕をまとい、ケイは組んでいた足を直しながら立ち上がる。
その背後、壁の影から複数の異形の影が姿を現す。
獣の骨と肉を無理やり繋ぎ合わせたような、異形のサタンたち。
四肢は歪に長く、瞳は赤く輝き、まるでケイの意志のままに動く操り人形のようだった。
「こいつらは、俺の傑作たちだ。
ケイブランド・ビーストってとこかな。……まあ、趣味の産物だが」
スミレが一歩踏み出しかけるが、蓮が手で制した。
殺気を隠さないケイの視線が、一行の顔を順番に舐めるように流れていく。
「さぁ──邪魔する奴らは、みんな死んでもらおうか。……ああ、安心しろ。タオの処遇は、そっちが全滅したあとで、ゆっくりと決めてやる」
そう言った瞬間、獣人型のサタンたちが一斉に唸り声を上げた。
「来るぞ──!」
蓮の声と同時に、闇の中から飛び出した獣人型サタンたちが、一斉に襲いかかってくる。
鋭い爪と牙を持つ獣たちの咆哮が、塔の空気を裂いた。
「下がって!」
美穂が杖を振ると、地面から火花のような光の弾が弧を描いて走り、敵の一体を吹き飛ばす。
だが、すぐさま別の個体が、煙を突き破って飛び出してきた。
「速い……!」
リリスが跳ねるように横に避けながら、腰の細剣を抜く。
金属の刃が赤く染まり、彼女の魔力を纏って光を帯びる。
一閃──突撃してきたサタンの胴体を斜めに斬り裂いた。
「蓮、右から!」
「任せろ!」
蓮は無言で剣を振るい、跳びかかる獣人サタンの肩を貫いた。
魔力はない。ただ、繰り返し鍛えた動きと力だけで斬る。
それでも、相手の硬い皮膚が刃を鈍らせる。
「……マジかよ、今までのより硬すぎる!」
「気を抜かないで! こいつら、ただのサタンじゃない!」
スミレが両手を広げ、青白い光の魔法陣を展開。
冷気を帯びた風が、群れに向かって吹き荒れる。
霜に包まれた敵が一瞬動きを止めたところを、美穂が魔弾で追撃する。
「いい連携!」
だが、それでも数が多すぎた。
「さすが、俺の子たちだ」
塔の奥からケイが優雅に手を叩く。
その背後──黒い鎖に縛られたタオが、歯を食いしばっている。
「くっ……動けねぇ……!」
鎖はただの拘束具ではない。黒い魔力のような霧が絡みつき、タオの体をじわじわ蝕んでいた。
引き剥がすたびに、皮膚が焼けるような痛みが走る。
「どうだ? タオ。いい眺めだろう……ああ、でもお前のせいで死ぬかもしれないが」
「……黙れ」
「ハハッ、まあ安心しろ。すべてが終わったら、お前を“真作”にしてやる」
獣人型サタンたちが次々と襲いかかり、一行は次第に押されていく。
そして──その時だった。
塔の入口から、風が吹き抜ける。
静寂とともに歩み寄る一つの影。
「……すまない。遅くなった」
その声とともに、ホクトが現れた。炎のような赤髪を風に揺らし、隻眼で闇をも貫くように睨み据える。
「ホクトさん……!」
蓮が思わず息を呑む。
美穂やスミレ、リリスたちも短く安堵の表情を浮かべた。だがそれも束の間──。
「ホクト……いや、今は“サタンの裏切り者”か」
ケイの口から放たれたその言葉に、蓮は眉をひそめた。
(裏切り者……? ホクトが? 何の話だ……?)
不意に胸の奥に冷たいものが流れ込む。
それでもホクトは、わずかに目を細めるだけで、ケイを真っ直ぐに見据えていた。
「久しぶりだな。お前の顔をまた拝めるとは思わなかったぞ」
塔の奥、獣人型サタンの群れの中央に立つケイが、嬉々とした様子で手を広げた。
「……何も裏切ってなどいない。俺は、道を正そうとしているだけだ」
「それを裏切りって言うんだよ、ホクト! 俺たちサタンは、選ばれた存在だった。お前はそれを否定した! “力”を捨て、“正義”を語るなんて、滑稽だとは思わないのか?」
ケイの足元で、黒い影が蠢く。
彼の周囲に、血のような魔力がゆっくりと広がり始める。
「さあ、ホクト。来い! ここで証明しようじゃないか、お前の正義と、俺の力──どちらが強いのかを!」
その言葉と同時に、ケイが一歩前に踏み出す。
「みんな、任せてくれ。ここは──俺がやる」
ホクトが振り返らずに言う。
その声に、蓮たちは一瞬躊躇うが、すぐに頷いた。
「了解。任せる」
「……頼んだわよ」
「気をつけて、団長!」
獣人型サタンとの戦闘を再開しつつ、一行はホクトの背を守るように動く。
そして──
ホクトとケイ、二人が向かい合う。
白と黒。
理性と狂気。
相反するはずの存在が、いま、真正面からぶつかり合う。
塔の空気が重く揺れる。
それは、ケイとホクトが対峙した瞬間──ふたつの異質な気配が、ぶつかり合ったからだ。
「……変わらないな、ホクト。その澄ました目。何もかも分かってるような顔」
ケイが、口の端を吊り上げた。
その身から発される魔力は、まるで獣の咆哮。地を這うような重圧が空間を満たしていく。
「お前はもっと、強くなれるはずだったんだ。竜の血を持つ最強の素材……それを、無駄にしやがって!」
ホクトは無言のまま一歩、前へ。
踏み出すたび、地面がうっすら焦げ、足元から銀と赤の鱗のような紋が浮かび上がる。それは、竜の血が呼応する証──静かに、だが確かに。
「俺はただ……守るべきもののために力を使いたいと思っただけだ」
「はっ! 甘いな!」
ケイが地を蹴る。その巨体が風を裂き、轟音とともに飛びかかってきた。
──速い。
蓮たちが目を見張るほどの猛スピードだった。常人なら、姿さえ捉えられない。
だがホクトは、動じない。
彼もまた、足を踏み出す。竜の力がその背に宿り、残像を引くようにケイの拳を紙一重でかわした。
「見えてるよ、お前の動きなんてな」
拳と拳がぶつかる。
風が爆ぜ、塔の壁が軋む。
空間ごとねじれるような衝撃──それが、ホクトとケイの一撃だった。
「来い、ケイ。決着をつけよう。過去を終わらせるために」
「上等だ、裏切り者ォ!」
ふたりのサタンが、地を裂き、炎を巻き起こしながらぶつかり合う。
その衝撃のなか、誰も気づかない。
拘束されていたタオの鎖が──静かに、外れ始めていたことに。




