狼との駆け引き
タオを取り戻すため、蓮は再び心を決めて足を踏み出した。リリスが倒れたままであることを気にしながらも、今はそれを後回しにせざるを得ない。頭の中で無数の考えが交錯し、足音が妙に大きく響く。
「蓮、何か方法は……」
スミレの声が現実を引き戻す。蓮はその視線をしっかり受け止め、こう答えた。
「あの狼女、何か知ってるかもしれない」
彼女がタオについて何か知っている、そう信じるしかなかった。もしかしたら、彼女の持っている情報が唯一の手がかりかもしれない。彼女の性格がどうかはわからないが、今は頼らざるを得ない。
闇市の喧騒を抜け、足早に貸部屋へ向かう。気持ちが落ち着かない。周囲の音が耳に入らないほど、頭の中はタオのことばかりでいっぱいだった。息を吐きながら、何度も頭を整理しようとするが、気がつけば部屋の前に立っていた。
勢いよくドアを開けると、そこには古びた家具と、気だるげな空気が漂っていた。ベッドに座る狼女は、蓮を見てわざとらしく背伸びをし、にやりと笑った。
「何、あんた戻ってきたわけ?」
蓮は真剣な顔で、深く頭を下げた。
「お願いだ、何か知ってることを話してくれ。タオのことを、教えてくれ!」
狼女はしばらく無言で蓮を見つめ、その視線がじわじわと蓮の体を貫いた。その後、彼女の目にちらりと楽しげな光が浮かぶ。
「ふふ、何だか必死ね。まあ、いいわ。じゃあ、あんた、タオの代わりに私を抱いてよ。そうしたら、全部話してあげるわよ」
その言葉に、蓮は一瞬戸惑った。狼女の目は真剣そのもので、まるで彼を試すように冷徹な視線を投げかけてきた。
「だ、抱く!? だって俺とあなたは初対面でっ……」
蓮は言葉を詰まらせ、慌ててスミレの方を向く。スミレは一切動じず、冷静に狼女を見つめている。
「それで? どうすんの? やるの? やらないの?」
蓮の心臓は速いペースで鼓動を打つ。抱えているリリスも少し苦しそうに呻いている。もう、時間がない。
蓮はぎこちない様子で、自分の覚悟を確かめるように、ゆっくりと彼女に近づいた。
「おっと、やる気になった? じゃあ、あんただけ、ベッドにおいで」
狼女は冷やかすように笑い、手招きする。
蓮は無言でうなずき、心の中で決意を固めた。言葉にしても彼女には伝わらないだろう。しかし、タオを取り戻すためには、どんな手段でも使わなければならない。
「あんたたちは、外に出てな」
狼女がそう言うと、スミレはコクリと頷き、リリスを抱えて部屋を出て行った。
二人きりの空間に、蓮の心臓が音を立てて鳴り響く。狼女はおっとりとした態度で、さらに蓮に近づいてきた。その不穏な空気に、蓮は胸の奥で熱くなる感覚を感じた。心臓の鼓動が高鳴り、体の奥底で何かがひしひしと響く。だが、彼はその感覚を無視しようとした。
蓮は覚悟を決め、少し身を乗り出す。しかし、彼の心臓は激しく脈打ち、体が震えた。狼女が見せる冷徹な視線に、どこか不安を感じている自分に気づく。恐れと欲望、そして決意が入り混じった、複雑な感情が胸を占めていった。
「さあ、来て。私を抱いて」
その言葉に、蓮は体が固まった。どうしようもなく、心の中で抵抗の声が上がった。だが、意を決して前に進もうとしたその瞬間、胸の中で一つの思いが湧き上がる。
「だめだ……」
声に出して言ってしまったその言葉に、狼女は一瞬目を見開いたが、すぐにその冷たい笑みを浮かべた。
「何、あんた……?」
蓮はその言葉に続けて、自分の思いを素直に伝えた。
「ごめん……俺には……心に決めた相手がいるんだ」
顔が赤くなり、蓮は視線をそらした。これ以上、狼女の冷たい笑みを直視するのが辛かった。
「それに、俺は……まだそういうことに、慣れてないから」
その言葉を聞いた狼女は、一度黙って蓮を見つめた。その表情には呆れが浮かびつつも、どこか面白がるような雰囲気が漂っていた。まるで彼の不器用さを楽しんでいるかのようだ。
「ふふ、あんた、ほんとに純情ね」
狼女は、少しだけ柔らかく笑いながら、蓮に近づいてきた。そして、軽く蓮の唇にキスをした。蓮は思わず体を小さく痙攣させ、目を見開いた。
「あんたのファーストキスは、もらったよ」
キスは短く、ただの印象的なものだった。しかし、その行動に、蓮はまるで自分の心の中で何かが動いたような気がした。胸の奥で何かが静かに震えているのがわかる。
「それにしても、あんたの思いが本気だってことはわかったよ」
狼女は少し肩をすくめると、続けた。
「タオのことが知りたいんでしょ? 話してあげる」
その一言に、蓮は胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。彼がずっと求めていた答えが、ついに目の前に差し出されたのだ。だが、それと同時に、浮かれかけた気持ちをすぐに引き締め直す。タオを取り戻す道は、まだ始まったばかりだ。ここで得る情報が、きっとその第一歩になる。
狼女は冷ややかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと語り始めた。
「タオだけど──あいつがここに来るようになったのは、ここ数週間前からね」
一拍置いて、蓮の目を真っ直ぐに見つめる。
「あいつは私から、闇市のボスの情報を引き出そうとしてたんだよ」
蓮は思わず眉をひそめた。闇市のボス──それはただの犯罪者ではない。この街の暗部を支配する存在。そして何より、そのボスがケイだという事実が、頭をよぎる。
「ほら、私はこう見えて、ここらじゃ有名な売春女だからね」
皮肉を込めたその言葉に、蓮は一瞬驚くが、すぐに彼女の言葉の裏にある意味を理解した。
「闇市のボスとも繋がりがあるのさ」
肩をすくめる狼女に、蓮は静かに息を飲んだ。タオが彼女に接触した理由がようやく見えてきた──が、すべてがまだ謎に包まれている。
「それで? タオは何のためにそんな情報を?」
蓮の問いに、狼女はふっと口角を上げる。
「さあね、それは私にも分からない。でも──あの男、本当に変わってたよ。他の肉食獣と違って草食獣の肉を食べようとしないし、私を抱く時も、乱暴にしない。噛み付いたり殴ったりなんて、まったくなかった」
一瞬の沈黙を挟んで、彼女は真顔で言う。
「……優しいんだよ、あいつ」
蓮はその言葉を黙って受け止めた。タオらしいと言えば、確かにそうだ。だが、それだけでは片付けられない何かが、彼をここに駆り立てていたのだろう。
「ボスは塔に住んでる。ほら、バステトに一つだけ目立つ建物があったでしょ?」
「その、ボスの名前は──?」
蓮の問いに、狼女はやや表情を曇らせながら答えた。
「ーーケイ・ヴァンデル。あいつには、関わらない方がいい。あいつがバステトに居座ってから、草食獣たちは姿を消した。……文字通りね」
ぞくり、と蓮の背筋に冷たいものが走った。
タオは、都市バステトのボスであるケイを追っていた。
──そのケイもまた、タオを追っていたのかもしれない。
蓮が言葉を失って考え込んでいると、狼女はちらりと扉の奥を見やり、声をかけた。
「入ってきていいよ」
扉がガチャリと音を立てて開き、スミレとリリスが姿を現す。スミレはどこか不安げな表情で、リリスを支えるようにしていた。リリスは顔色こそ悪いが、自力で立ち上がっている。おそらく、スミレが回復してくれたのだろう。
「は〜、最高だった。気持ちよかったねぇ」
狼女がニヤニヤしながら、わざとらしく蓮に言う。
「ちょっ……何言ってんだよ!」
蓮が慌てて否定するのとほぼ同時に、スミレの表情が一瞬だけ曇る。その変化を、狼女は見逃さなかった。
「冗談よ。安心しな。この男、童貞だから。私を抱けないってさ」
ニヤつく狼女に、スミレはわずかに目を見開いたが、すぐに表情を整えて冷静さを装う。その仕草を見て、蓮の胸に小さな安堵と、くすぐったい嬉しさが広がった。
そんな空気の中、リリスがゆっくりと口を開く。
「狼女さん……今の話、全部聞いたよ」
病み上がりの体を支えながら、リリスの声にははっきりとした強さがあった。
「あら? やっぱり聞こえてた? まあ、二人とも、ゆっくりしていきなよ。今晩はこの部屋、貸してあげる」
狼女は立ち上がり、軽やかに腰をひねると、ドアの方へと向かっていく。
そして、出る間際にふと振り返り、軽く指を立てた。
「塔に行くなら──気をつけな。あんたらだけじゃ、勝てないよ」
一瞬の間を置いて、視線を白猫姿のリリスに向ける。
「それと、白猫。……タオは耳が弱いよ。覚えておきな」
その言葉に、リリスはピクリと反応した。
手をギュッと握りしめるが、何も言い返すことはできなかった。
狼女はそれを見届けると、愉快そうに笑い、軽い足取りで部屋を去っていった。
部屋には、微かな香と、彼女の残した余韻だけが残った。




