獣人都市バステト 後編
地下への階段は石造りで、歩を進めるたびに湿った空気とカビ臭さが鼻を突いた。足音が響かないよう慎重に、一段ずつ降りていく。
蓮は喉の奥がひりつくような感覚を覚えていた。リリスの気配が確かに近づいている。だが、それと同時に、嫌な予感が肌を刺すようにまとわりついてくる。
「……気をつけろ。複数いる」
タオが低く呟いた。半変異のまま、耳をぴくりと動かして周囲を探っている。
やがて階段を下りきると、そこには広い地下倉庫が広がっていた。照明は少なく、壁際に吊るされたランタンがぼんやりと空間を照らしている。
そしてその奥──檻のような鉄格子の中、倒れ込む白い猫人の姿が見えた。
「……リリス!」
蓮が一歩踏み出しかけた瞬間、横手から現れた大柄な影が通路を塞ぐように立ちはだかった。
「ああん? また猫か。さっきの連れかよ」
声と共に、もう一人、背の低いが鋭い眼をした獣人が背後に回り込む。ふたりとも、さっきリリスを攫った連中に違いない。
「何もしなければ、見逃してやる」
大柄な男がにやりと笑い、鉄格子を指先で叩いた。
「チビどもはお呼びじゃねえ。帰んな」
「……帰るわけねぇだろ」
蓮が唸るように答えた。
タオが静かに前に出る。目が金色に光り、喉の奥で唸り声を響かせる。
「邪魔するなら、食いちぎるぞ」
空気が張り詰めた。その瞬間、地下倉庫に、殺気が満ちた。
タオの唸りに男たちが警戒を強めたその瞬間──
「……今よ」
梁の上からふわりと舞い降りたのは、小柄な猫人族の少女。
その身のこなしは、かつての妖精とは思えないほど鋭く、獣のようにしなやかだった。
「……っ!」
一人の獣人が振り返るより先に、スミレの爪が閃き、男の腕をはじく。
すかさず身を沈めて、足払いのように低く跳ねた。
「がっ……!」
背後から不意打ちを食らった男が崩れ落ちる。もう一人が武器を抜こうとしたその瞬間、スミレの指先から淡い光が迸る。
「……眠りなさい!」
それは、かつての妖精の魔法とは違う、低く静かな呪文だった。
光は男の額に触れた瞬間、花弁のように広がり、彼の意識を奪った。
「……スミレ!」
蓮が思わず声を上げると、スミレはちらりと振り向き、小さく微笑んだ。
「リリスを、お願い」
スミレが二人の獣人を制圧した直後──
バキンッ!
鉄格子の奥で、爆ぜるような音が響いた。何かが破裂したような、鈍くて重い音。
その直後、檻の扉が吹き飛ぶ。暗闇の中から、ゆっくりと黒い影が姿を現す。
「……遅かったな、タオ」
その声に、タオの体がピクリと反応する。
黒い影──熊のような巨体の獣人の男だった。肩にかけた毛皮のコートは血に濡れ、その滴が床に落ちている。獣のようにぎらつく目だけが、倉庫の暗闇の中で妖しく光っていた。まるで、この場所にだけ異なる空気が流れているようだった。
「誰だっ……どうして、俺の名前を知ってる?」
タオの声が、疑念に満ちて低く響いた。
だがその問いに答えるより先に、男はその腕に抱えていた人物を見せつけるように持ち上げる。
「リリス……っ!」
まだ意識が朦朧としているのか、彼女はぐったりと男の腕に抱かれていた。
男はその小さな体を軽々と持ち上げたまま、鋭い爪を彼女の首筋へ突きつける。
「動くなよ、猫ども──」
冷酷な声が、地下倉庫の静けさを引き裂く。
「こいつの血、吸いたくてうずうずしてんじゃねぇのか? タオ、お前もさ」
タオの顔から血の気が引く。男の言葉は、どこかを抉るように響いた。
「リリスを離せ!」
声を荒げる蓮。
だが、男は薄ら笑いを浮かべたまま、首をすくめるだけだった。
「来いよ、タオ。お前が俺と来れば、こいつは解放してやる」
そう言いながら、男は懐から何かを取り出す。布に包まれた“何か”を投げるように床へ落とした。
ゴトッ。
それは──小さな草食獣人の“腕”だった。まだ血の乾ききっていないそれが、重い音を立てる。
「……!」
スミレと蓮が息を呑む。だが、タオだけは、凍りついたように見つめていた。
「条件追加だ。俺と来たけりゃ──それの血を舐めろ」
「なっ……!」
リリスが目を見開いた。薄れる意識の中で、かすれた声を絞り出す。
「だめ……タオ、だめよ……そんなこと、しちゃ──」
だが、タオは動かなかった。いや、止まっていたのは、心だった。
肉食獣として生まれながら、草食獣人の血を一滴も口にしないと誓ってきた。
その誓いが、絆が、今──目の前の命と引き換えに、試されている。
「さぁ、どうする? 昔みたいに“家族ごっこ”でも思い出してるか?」
その言葉に、タオの目が一瞬揺れる。
蓮も、スミレもその一瞬に全身を強張らせた。
そして、息を呑んだ。
ああ、この男は何かを知っている。
過去を知っている、タオの──家族のことを。
「何が、目的だ?」
タオの声は冷たい。それでもその奥には、膨れ上がる怒りと疑念が渦巻いていた。
男は静かに、だが、はっきりと答える。
「お前の中に、ガオスの血が流れているんだろ? あの血を継いだお前なら、俺と一緒に獣人の世界を変えられる。さぁ、どうだ?」
男の目は鋭く、そしてにやりとした笑みに満ちていた。タオに手を差し出すその動きには、何かしらの強引な魅力があった。無視できないものがあった。
タオは足を一歩、踏み出す。
その足音が、倉庫の冷えた空気の中で響く。
「どうして、親父の名前を知ってる……?」
タオは声を絞り出すように問いかけた。
「お前、何者だ……?」
男はふっと笑みを浮かべると、まるでこれから始まる興奮を予感させるような笑みを浮かべた。
「ケイ・ヴァンデル ──時期にバステトの王になる。それと、お前の父さんの友達だよ」
その言葉は、まるで過去の呪縛を掘り起こすようだった。
タオの目が一瞬、怒りに満ちた何かで満たされるが、同時に一筋の疑念が胸をよぎる。その背後に何か大きな真実があるのかもしれない。
「さあ、タオ、おいで」
リリスの細い声が、今にも切れそうな糸のように届く。
「タオ……お願い、やめてっ……戻って……」
タオは静かにしゃがみこむ。震える指で、布の中の腕に触れ──
そして、一滴。
唇を、血に。
「……っ、タオ……!」
リリスが悲鳴のように叫んだ。
スミレが動こうとするも、蓮が咄嗟に腕を掴む。
タオの表情は、何かを捨てた者の顔だった。
誓いを、自分を、仲間との絆を──すべてを心の奥に沈めて。
ただ、今はリリスを守ることだけを選んだ。
「これで……いいだろ」
ケイが、その瞬間、歓喜のように大笑いする。
「ハハハハハッ!! そうだ、それでいい!! お前はやっと“本当の自分”を受け入れた! いい子だ、タオ!」
狂ったような笑いが地下に響き渡る。
タオは無言のまま、立ち上がる。顔を隠すように、目を伏せながら。
ケイがリリスを解放する。彼女はふらりと蓮の方へ投げ出され、そのまま意識を失った。
「リリス……!」
蓮が駆け寄り、支える。スミレもすぐに膝をついた。
「行くぞ」
ケイはタオの腕を掴む。その手には確かな“勝利”の実感があった。
渦を巻くように空気が歪む。空間が揺れる。ケイの術式が起動したのだ。
「タオーーっ!!」
蓮の叫びも、もう届かない。
最後に、タオが一瞬だけ振り返った。その目には、後悔も、悲しみもなかった。ただ、決意だけが宿っていた。
そして──タオは、ケイと共に消えた。
まるで、闇に呑まれるように。




