獣人都市バステト 中編
──獣人都市バステト、再潜入開始。
蓮、リリス、スミレの三人は猫の姿のまま、再びバステトの門を目指していた。
足取りは軽く、もう足音を気にする必要すらない。まるで最初から、彼らはこの街に棲む獣であるかのようだった。
月明かりの下、しなやかに闇の中を進むその姿は、ただの野良猫と見間違えるほど自然だ。
猫化薬の効果は完璧に発揮され、三人は獣人たちに紛れて違和感なく闇市へと溶け込んでいた。
「しっかし、この街、夜でも賑やかね……」
スミレが低く呟くと、隣を歩くリリスが短くうなずく。
「その賑やかさのおかげで、あたし達が紛れ込める。今のうちに入り込むのが正解」
蓮は無言で、目の前の通りを見つめていた。
闇市──そこには、整った道などなく、剥き出しの欲と混沌だけがあった。
両脇には雑多な品々が並び、見るからに胡散臭い商人やならず者たちがひしめき合っている。
肉や毛皮、薬草、不明な動物の骨。商品も客もまるで獣そのものだ。
「……すごい匂い」
スミレが鼻をひくつかせながら呟くと、リリスが眉をしかめた。
目をやると、炙られる巨大な串肉──炎の熱気とともに立ち上る脂の匂いが鼻を突いた。
売り手の獣人が声を張り上げる。
「新鮮な草食獣のもも肉だよ! 一皿たったの三枚!」
「草食獣の……」
リリスの耳がぴくりと動き、視線が逸れる。
表情は読み取れないが、その背は少しだけ震えていた。
「うう……なんだか心がざわざわする……!」
猫の姿のまま、彼女は顔を伏せて歩き出す。
その背に、スミレがそっと尾を触れさせるようにして寄り添った。
「大丈夫。あんまり見ない方がいいわ」
三人は混沌の渦の中を、静かに、しかし確実に進んでいった。
やがてたどり着いたのは、闇市の中心と思われる広場だった。
大道芸、賭博、怪しげな見世物小屋。騒音と熱気が入り混じるその場所で、蓮の目がふとある人物を捉える。
「……いた!」
少し先。灰色の髪に狼の耳──あの後ろ姿は、間違いなくタオだった。
そして、その隣に立つのは、獣のように巨大で筋肉質な男。
まるで猛獣がそのまま二足歩行したかのような迫力。タオと並んでもその体格は圧倒的で、二人はごく自然に言葉を交わしていた。
その距離感には、信頼と親しみがにじんでいる。
「……あれ、誰?」
リリスの声はか細く、どこか震えていた。
タオの肩を軽く叩いて笑う男の様子を見つめる瞳には、明らかな戸惑いと、滲むような寂しさがある。
「タオ……あんな顔、あたしには……」
その言葉の続きを、彼女自身が飲み込んだ。
スミレが静かに寄り添い、尾先でリリスの肩をそっと触れる。
「落ち着いて。今は……まだ見てるだけにしましょう」
「……いや、俺が行く」
蓮の声は低く、しかし揺るがない決意に満ちていた。
「ここまで来たんだ。ちゃんと聞かなきゃ、何をしてるのか」
誰にも止められることなく、蓮は小さな猫の足で雑踏を抜け、タオの元へと歩みを進めていった。
やがてタオと男がその接近に気づく。
タオの目が、猫の姿をした蓮と交わった瞬間、はっきりと驚きが走った。
「お前……まさか……!」
わずかに息を飲んだタオは、目を細めて低く問う。
「……いや、まあいい。こんなところで何してる!?」
蓮は尾をぴんと立て、言い返した。
「こっちのセリフだよ! タオ、お前こそ何してんだ!」
「いいから、今すぐ街を出ろ! なんのつもりか分かんねぇが、お前がここにいていいわけ──」
その瞬間、隣の大柄な男が口を挟む。
「おいおい、何話してんだよタオ。誰だか知らねぇが、猫ちゃんは黙ってた方がいいぜ?」
その眼差しは猛獣そのもので、軽く蓮を見下ろしながらニヤリと笑った。
タオが口を開こうとした、そのとき──
「あれー? 揉めてんの? タオ、お待たせ~」
軽やかな声が割って入る。現れたのは、銀灰色の毛並みに包まれた狼の女だった。
しなやかな体躯に、どこか華やかさを纏った服。自然にタオへと歩み寄り、その腕に絡む。
そのまま胸元を押しつけ、囁くように言った。
「ほら、早く行こ? 今日も……めちゃくちゃにしてくれるんでしょ?」
蓮の方をチラリと見ながら、唇の端をつり上げる。
「……と、とにかく!」
タオは彼女を押し返すように一歩前に出て、蓮に低い声で告げた。
「今すぐ街を出ろ。帰ったら必ず話す。だから、今はこれ以上関わるな……!」
その言葉を、遠くから見ていたリリスは──耐えきれなかった。
「……リリス?」
スミレが小さく名を呼ぶ前に、リリスの身体が動いていた。
猫の姿のまま、彼女は広場を駆け出していた。
まるで何かから逃げるように。
──否。
逃げていたのは、心の奥に生まれたざらつく感情からだった。
蓮は一度だけタオを睨みつける。
「お前、最低だからな!」
その一言だけを残して、リリスの後を追って走り出した。
リリスの白い猫の体が、闇の中を駆けていく。
その背を、蓮とスミレが必死に追いかけた。
「リリス、待てって!」
呼びかけても、返事はない。
ただ、走り続ける音だけが雑踏に紛れ、やがて──
「……ッ!」
路地の角を曲がったその瞬間だった。
突如、前方から現れた黒い影が、リリスを狙って跳びかかる。
「リリス──!」
蓮が叫ぶ間もなく、リリスの小さな体が宙に舞い、後方から差し出された袋のようなものに呑み込まれた。
バサッ──
麻袋が締められ、中からは苦しそうな鳴き声が漏れる。
「くっ……!」
蓮が駆け寄ろうとした瞬間、脇から現れた大柄な男に思い切り突き飛ばされた。
「うわっ──!」
石畳に背中を打ちつけ、息が詰まる。
同時にスミレも跳ね飛ばされ、地面に転がった。
「草食獣じゃねぇのは残念だが……白猫ってのも、なかなか価値があるんだよな」
男はニヤリと笑い、リリスの入った麻袋を担ぐと、そのまま闇の奥へと消えようとする。
「ま、食うよりは売った方が高くつくぜ。今日はツイてる」
「待てよ──!」
蓮が立ち上がろうとしたが、身体が言うことをきかない。
頭が揺れ、視界がにじむ。
「……蓮、しっかり!」
スミレが起き上がりながら言う。目元には焦りが滲んでいるが、すぐに冷静さを取り戻し、周囲に目を向ける。
「今すぐ追わなきゃ……! ──いや、俺はタオを呼んでくる!」
「えっ?」
「アイツら、ただのチンピラじゃない……! スミレ、お願い、リリスを追って……できるだけ、時間を稼いでくれ!」
スミレは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに小さく頷いた。
「わかったわ。……蓮も、絶対に無茶しないで!」
蓮は唇を噛みながら頷くと、反対方向へと駆け出した。
タオの姿を見た広場を目指し、血の気の引いた顔のまま走る。
(お願いだ、間に合ってくれ……!)
胸の奥で焦りが弾ける。
リリスの顔が、何度も脳裏に浮かんだ。
市場の中心まで戻ると、すでにそこにタオの姿はなかった。
蓮はきょろきょろと周囲を見回しながら、近くの屋台にいた大柄な肉食獣の男に声をかける。
「なあ、狼の男──タオってヤツ、どこに行ったか知らないか?」
男は一瞬だけ蓮を見下ろし、鼻で笑った。
「はァ? お前みたいな奴が、タオに相手にされるかっての。かかっ!」
周囲の獣人たちもつられて笑う。蓮はギリ、と奥歯を噛んで怒りを堪えた。
(今は……喧嘩してる場合じゃない)
「ほら、あいつ……いい女、連れてただろ? 俺も混ざりたくてさ」
目を細めてにやついてみせると、男の笑い声がひときわ大きくなった。
「ハン、面白ぇヤツだな! あいつなら、さっきあの女と一緒に奥の貸し部屋に消えたぜ」
男は後ろの通りを親指で指す。
「……あそこを真っ直ぐだ。ま、覗くなよ、猫ちゃん」
「ああ、助かった」
蓮は短く言い残すと、その通りを駆け抜けていった。
心臓がうるさく鳴り、頭の中には一つの思いしかなかった。
(お願いだ、間に合ってくれ……!)
貸し部屋の前まで来ると、猫の姿になった蓮の鼻が、かすかに残るタオの匂いを捉えた。
(この匂い……間違いない、ここだ)
扉に飛びついてドアノブに手をかける。鍵は運よく開いていた。
勢いよく扉を開けると、部屋の中では──
「きゃっ!」
狼女がちょうど服を脱ぎかけたところで、手にしていた上着を慌てて体に押し当てる。
ベッドの傍らには、状況をうまく把握できずに固まっているタオの姿。
「ちょっ……まじかよ、お前ほんとに来たのか!?」
「黙れっ!!」
蓮がタオに向かってまっすぐ歩き、頬をひっぱたいた。
パァン、という乾いた音が狭い部屋に響く。
「ふざけてる場合か! リリスが拐われたんだよ!」
その一言で、タオの表情が一変する。
目を大きく見開き、すぐに部屋を飛び出していく。
「待って、タオ!? どこ行くのよ! 夜はこれからじゃなかったの──!」
狼女の声が背後から響くが、もうタオの姿は見えなかった。
蓮もすぐにその後を追う。
石畳の路地を駆けながら、蓮が叫ぶ。
「まじでタオ、お前! ちゃんと話さなきゃ許さねえからな!」
息を切らしながらも、タオは一瞥もくれずに前を睨んだまま応じる。
「ああ、分かってる。でも今は、急がねえと」
その声に嘘はなかった。タオの眼光が鋭くなり、彼の体が音を立てて変異していく。毛並みが濃くなり、指先に爪が現れ、背中がわずかに盛り上がる。
次の瞬間、彼は四つん這いの姿勢で地を蹴った。地面を滑るように疾走するその姿に、蓮も反射的に地に手をつく。
「くそっ……! 待てよ!」
猫人の本能が走りを助ける。肉球が石をしなやかに掴み、音もなく街を駆け抜ける。
タオは臭いを頼りに、複雑に入り組んだ裏通りを縫うように進んでいく。やがて、彼の足が止まった。
その先には、廃れた倉庫のような建物がぽつんと建っていた。扉は半開きで、地下へと続く石階段が口を開けている。
「ここだ……下からリリスの匂いがする」
タオが低く呟いた。
蓮はごくりと息を飲む。
「行こう……!」
二人は、薄暗い階段を音もなく降りていく──。




