獣人都市バステト 前編
その日、中庭の噴水のそばで、蓮とスミレは並んで腰かけていた。
穏やかな午後、風が心地よく吹き抜ける中、スミレは膝の上に薬草を広げて、ひとつひとつ丁寧に分けていた。
その手つきを、蓮はぼんやりと眺めていた。まるで風景の一部のように、静かで優しい所作だった。
「スミレの手、器用だな」
ふと漏れた蓮の言葉に、スミレは顔を上げてにっこりと笑った。
「ありがとう。でも、これは昔からの癖みたいなものよ。妖精たちはこうして薬草を使って、自然の力を借りて治療することが多いの」
「なるほど、だから手際いいのか」
蓮は素直に感心しながら、スミレの手元を見守っていた。
「でも、こうやって草を分けていると、なんだか平和な感じがするな」
スミレは少しだけ目を細めて、指を止めた。
「平和って、ちょっと物足りないくらいがちょうどいいのよ。ずっと忙しなくて、心が休まらないと、逆に疲れちゃうわ」
蓮はその言葉に、思わず息を吐いた。
「……俺も、そうだな。最近、ちょっと色んなことが重なりすぎて、頭が整理できてない気がする」
スミレがちらりと彼を見て、小さく微笑む。
「そう……ゆっくり休んで? なにか話せることがあれば、私がいつだって聞くわ」
優しい言葉に、蓮は思わず苦笑した。
「……ありがとう」
風がふっと吹き、スミレの髪が風に揺れる。
その一瞬だけ時間が止まったような感覚がして、蓮は思わず空を見上げた。
「……やっぱり、いいな。この場所」
「ええ」
二人はしばし言葉もなく、ただ風と空の音に耳を澄ませていた。
だけど、心の奥で、蓮はずっとひっかかっている何かに気づいていた。
空気は穏やかなのに、心のどこかだけがざわついている。
うまく笑えない、話せない。ほんの少しの気まずさが、胸の中でひっそりと疼いていた。
風が心地よく吹き抜ける中、スミレは薬草を分けながらふと手を止めた。
「……ねえ、タオなんだけど。最近、少し変なの」
突然の言葉に、蓮はスミレの横顔を見た。
「変って……どういう?」
「夜になると、一人でふらっと出ていくのよ。前はそんなことなかったのに。気配を消すようにして出ていくから、わざと誰にも気づかれないようにしてるのかもって……」
スミレの言葉に、蓮も心の奥に引っかかっていた違和感が引き出される。
「……確かに。俺もこの前、ちょっと気になってさ。何かあるんじゃないかって思ってた」
そうして二人の会話が深まりかけたとき、背後から声が飛ぶ。
「やっぱり気づいてたんだ」
背後から、鋭く、冷えた声が飛んできた。
振り返ると、そこにはリリスが立っていた。
腕を組み、目は真っ直ぐ蓮を射抜いている。
「……探してたの。タオのことで話したかったから」
スミレと蓮が思わず顔を見合わせた。
リリスはゆっくりと歩み寄り、その場に立ち止まった。
「今日も、また夜に抜け出すと思う。昨日も、その前もそうだった。気配を消して、こっそりと。あたしも気づいて、ついていこうとした。でも……途中でまかれた」
「任務なんじゃないのか?」
口に出してはみたものの、胸の奥には、それだけじゃ片づけられないざわつきが残っていた。
リリスは小さく首を振った。
「たぶん、そう。でも、あたしたちに言わないってことは、よほど危ないか──あるいは、何か隠してる」
彼女の声は落ち着いていたが、その奥に隠しきれない苛立ちと不安が混ざっていた。
スミレが静かにため息をついた。
「……タオ、リリスのこと守りたいんだと思う。心配かけたくなくて、言わない。でも逆に、それが一番、気になるのよね」
リリスは数秒黙ったあと、強い眼差しで言った。
「今夜、もう一度追うわ。……次は、二人とも一緒に来てくれる?」
その声に、もう迷いはなかった。
蓮もスミレも、自然と頷いていた。
「了解」
「ええ。一緒に行くわ」
三人の視線が交わる。
夕陽が沈みかけ、空は朱に染まっていく。
沈黙の向こうに潜む真実へ。
タオの秘密を追う夜が、今、静かに始まろうとしていた──。
***
夜の帳が降りた頃、蓮、リリス、スミレは静かに足音を忍ばせながら、ひっそりと街道を進んでいた。月明かりに照らされた道には冷たい風が吹き抜け、辺りはしんと静まり返っている。
「マジかよ……タオのやつ、どこまで行くつもりだ?」
蓮が立ち止まり、軽くため息をついた。タオの姿を見失ってからしばらく歩き続けていたが、未だに明確な手がかりは掴めていない。
スミレは後ろを振り返り、少し疑念を含んだ表情で言った。
「おかしいわね。こんなに歩いているのに、周囲が全然変わらないなんて……本当にこの道で合ってるのかしら」
リリスは黙って歩いていたが、彼女の目は鋭く、闇の中を探るようにあたりを見渡していた。
「……足音は感じてる。迷ってはいないはずよ」
その言葉どおり、三人は確かに何かが近づいているのを肌で感じていた。何の変哲もない街道のはずなのに、どこか空気が変わり始めていた。
やがて、周囲の風景が徐々に変わっていく。道の両脇に現れたのは、見たこともない獣のような姿の住人たち。店先には、粗雑な道具や正体不明の商品がずらりと並び、遠くからはざわついた声と音楽が混じり合う。
「……なんだ、ここ……?」
蓮が立ち止まり、あまりの異質な光景に目を見開く。
「獣人都市バステトよ」
リリスが低く呟く。街全体が荒れた印象を放ち、空気はどこか張り詰めている。
スミレも目を伏せながら、小さな声で続けた。
「バステト……聞いたことがあるわ。けど、なんでタオがこんな場所に?」
三人は顔を見合わせ、ここが目的地であることを理解する。
やがて、街の入口にたどり着く。簡素ながらも重厚な門が構えられ、その前には獣人の門番たちが厳しい目で行き交う者を睨んでいた。
「……門番がいるなんて思わなかったな」
蓮が苦笑混じりに呟く。
「この様子じゃ、私たちみたいな人間や妖精は通れないわね」
スミレのその言葉に、リリスが眉をひそめる。
スミレは門の様子をしばらく見つめた後、小さく首を振って言った。
「いったん引き返しましょう。無理に突っ込んでも騒ぎになるだけよ」
蓮も悔しげに舌打ちしながら頷いた。
「……仕方ないか。戻って策を考えよう」
三人は踵を返し、夜の街道を静かに引き返していった。
静まり返った夜道を、蓮たちは言葉少なに引き返していた。闇の中にうっすら浮かぶネイトエールの街灯が見えた頃には、三人とも疲労の色を隠せずにいた。
「……まさか、あそこまで厳重な門番がいるとはな」
蓮が苦笑混じりに呟く。背中に流れる汗が、冷えた風で不快に冷たくなっていた。
「しかもあの街、雰囲気が異様だったわ。下手に近づいていたら、こっちが目立って終わりだったかも」
リリスも渋い顔で答える。スミレは黙っていたが、その表情には少し不安が残っていた。
ネイトエールに戻ると、広場にはまだ灯りがともっており、夜番の騎士たちが巡回しているのが見えた。三人は裏口からそっと屋敷に入り、音を立てぬように廊下を進む。
そして──
「美穂、起きてる?」
蓮がそっと扉をノックすると、中からすぐに返事が返ってきた。
「起きてる。入って!」
扉を開けると、部屋の中では美穂が魔導器の灯りを照らしながら、何やら紙に書き込みをしていた。どうやら調合メモのようだった。
「なんだか疲れた顔してるね。おかえりなさい」
「ただいま。ちょっと聞きたいことがあって……」
蓮は、自分たちに置かれた状況を簡単に説明した。バステトの様子、門番に止められ、中に入ることすら叶わなかったこと。そしてタオが、なぜかその街に足を踏み入れていたこと。
話を聞き終えた美穂は、少し考え込むように唇に指をあて、そしてふと顔を上げた。
「うーん、それなら……あ、あるかも。ちょっと変わった案だけど」
「変わった案?」
「猫になるの。物理的に」
蓮たちの視線が一斉に美穂に向いた。
「……猫?」
「うん。獣人都市なんでしょ? ああいう場所って、人間や妖精は警戒されるけど、獣人──特に猫型なんかは、けっこう自然に紛れ込めると思うんだ。私、前に一度だけ“猫化薬”っていうのを作ったことがあるの。副作用はちょっと毛が残る程度で、ちゃんと時間が経てば元に戻るよ」
蓮は少し唖然としながらも、なぜか悪くないと感じていた。
「……マジで猫になるのか……」
リリスが腕を組んで目を伏せる。何かを真剣に考えている様子だ。
スミレはどこか嬉しそうに口元を緩めて言った。
「いいと思うわ。猫なら、あの街に自然に紛れ込めるし……見た目も可愛いしね」
「そこ重要か?」
蓮が苦笑しながらツッコミを入れると、美穂が満面の笑みで言った。
「じゃあ決まり。明日には試作品を作っておくから、準備しておいて!」
三人は顔を見合わせ、改めて決意を固めた。
──次こそ、タオの後を追うために。
翌朝。
美穂の研究室には、ほんのり甘い香りと、どこか刺激的な匂いが混じっていた。机の上には三つの小瓶が並び、それぞれに淡い虹色の液体が揺れている。
「……これが猫化薬?」
蓮が瓶をじっと見つめる。液体はとろりとした質感で、かすかに湯気が立っているようにも見えた。
「そう。時間は一日限定。副作用は毛がふわっと残るのと、たまに語尾に“ニャ”がつくかもしれないってくらいかな!」
「最後の、それ副作用で済ませていいのか……?」
蓮が眉をひそめる横で、スミレは瓶を手に取り、興味深そうに覗き込んでいた。
「ふふ……なんだか楽しみね。しっぽって、どんな感覚なのかしら」
「いやいや……楽しみって言えるのスミレだけだって」
リリスは若干引き気味な表情をしつつも、しっかり瓶を手にしていた。
「飲めば、すぐに変化するはずだから。準備ができたら、順番にね!」
美穂の号令のもと、まずは蓮が覚悟を決めて一気に飲み干す。
「……甘っ!? って、うわっ、なんだこれ、体が……!」
ふらついた瞬間、蓮の体からふわりと光が立ち昇り、そのまま地面に小さな影が落ちる。
「……ニャッ……!? お、おい、俺……!」
スミレが目を輝かせて近寄った。
「蓮、可愛いっ! ちゃんと猫になってるわ!」
「ちょ、ちょっと見るなって!」
しっぽをブンと振る茶トラ猫・蓮。耳もピクリと動いてしまい、本人は動揺しっぱなし。
続けてリリスも、無言で薬を飲み干した。直後、淡い光に包まれ──
「……白猫?」
スミレがポツリと呟く。目つきの鋭さと凛とした雰囲気は変わらず、クールな白猫がそこにいた。
「なかなか様になってるじゃない」
「……兎から猫になるだけで、感覚はそんな変わらないかも」
リリスは尻尾をくるりと巻きつつ、冷静に現状を受け止めている様子だった。
最後にスミレが一口──。
「ふふ……にゃぁんっ」
「出たー! 語尾ニャ!」
蓮が地面でずっこけ、リリスが無言で目を逸らす。スミレはというと、淡いピンクの毛並みに包まれた愛らしい猫になっていた。
「わたし、この姿、気に入ったかも……しばらくこのままでもいいくらい」
「駄目だって。行くぞ、バステトへ」
美穂は三匹の猫たちを見下ろしながら、にっこりと微笑んだ。
「よし、変装完了。このままなら、バステトの門もきっと通れるはず。効果時間は今から一日。夜のうちに潜入して、朝までには戻ってくる必要があるからね。気をつけてね、みんな!」
「ま、まかせ……ニャ!」
蓮がうっかり語尾をつけてしまい、二人に見られて耳がぴくぴく震える。そんな調子で、三匹の猫たちはひっそりとネイトエールを出発した。




