揺れる影
ネイトエールに戻った夜、城は深い静けさに包まれていた。
聞き慣れた石畳の音と、ほんのりと漂う薬草の匂いが、帰ってきた実感をじわじわと胸に染み込ませてくる。
タオは、いつものように廊下の突き当たりで空を見上げていた。
窓辺にもたれ、じっと外を見つめていた彼は、足音に気づいて振り返る。そして、やわらかく笑った。
「……蓮。まずは、おかえり」
「うん。ただいま、タオ」
その一言に、蓮の肩から少しだけ力が抜けた。ようやく帰ってきた──そんな実感が、ようやく胸に降りてくる。
「イシュタルはどうだった? 思ってたより、騒がしかったか?」
タオの問いに、蓮は曖昧に笑いながら、壁にもたれかかった。
「色々、あったよ。……気になることも、いくつか」
「おう、例えば?」
蓮は少しだけ迷ってから、ぽつぽつと話し始めた。イリアという姫の存在。彼女の部屋で見た古い写真。スミレにそっくりな人物。
すべてを、断片的に──けれど、確かに胸に残っていたものを。
話し終えると、タオは静かに目を伏せた。
「つまりお前が言いたいのは──」
「スミレが、イシュタルの姫の姉妹……だって、そう思ったわけだな?」
蓮は黙って頷いた。断言はできない。けれど、目の前にあったものを、簡単に否定することもできなかった。
「まだ確証はない。けど……あまりに、似すぎてた」
タオはしばらく何も言わなかった。ただ、月明かりに照らされた廊下に、二人の影が並んで揺れていた。
「……それでも、今はまだシェリーには言わないでおこう」
タオの言葉は、決して命令ではなかった。だが、その声には確かな思慮があった。
「混乱を招くだけだし、ホクト様が遠ざけてる理由も……きっと、ある」
「……うん。分かってる」
蓮がうなずいた、その時だった。
「ねえ、ふたりとも──何の話?」
後ろから、柔らかい声が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは──スミレだった。
月明かりが差し込む廊下で、彼女の白い髪がそよぎ、柔らかな光を受けて揺れていた。まるで夢の中にいるように、どこか現実離れした美しさがそこにあった。
蓮の心臓が、静かに、けれど確かに高鳴った。
再会をずっと願っていたはずなのに、いざ彼女を目の前にすると、胸の奥がざわめく。イシュタルで見たあの写真。姫の瞳。声の響き。すべてがスミレと重なって、頭の中を掻き乱した。
けれどそのすべてを飲み込んだうえで、それでも「会いたかった」と思ったのは──他でもない、彼自身だった。
それを、本人に伝えることはなかった。
言葉にしてしまえば、何かが崩れてしまいそうで。彼女が築こうとしている「今」という時間を、否定してしまいそうで。
だから蓮は、黙ってその姿を見つめる。ただ、それだけでよかった。
スミレはゆっくりと近づいてきた。彼女の瞳は穏やかで、けれどどこか迷いの色を帯びていた。
蓮はその瞳を、逸らさずに見返す。
もう「記憶を失った少女」ではない。彼女の過去が、少しずつ、断片的にでも明らかになってきている。だからこそ、彼女の存在は今まで以上に特別で、切実だった。
「……おかえりなさい」
スミレの声は、変わらない。けれど、蓮の胸に響くその重さは、以前とはまったく違っていた。
ただの挨拶なのに、言葉にできない想いが、ひとつの音に詰まっているように感じられた。
「……ただいま」
蓮もまた、それだけを返した。
たったそれだけでいい。そう思えるほどに、彼女の存在は、もう彼の中に深く根を張っていた。
***
しばらく三人で夜の風を感じていたが、月が高く昇り、あたりの空気がひんやりとしてきた頃、タオはふっと目を細めた。
「……そろそろ、時間だ」
ぽつりと呟いたその声には、どこか遠くを見ているような静けさがあった。
「どこか行くのか?」
蓮が尋ねると、タオはいつもの調子で肩をすくめる。
「まあ、ちょっとな。風が気持ちいいし……少し歩いてくるよ」
飄々とした笑みを浮かべ、タオは静かにその場を離れた。
足音はすぐに遠ざかり、廊下には再び静寂が戻る。
蓮はその背中を見送りながら、なんとも言えない違和感を拭えなかった。
「まだ一緒にいても良かったのに。相変わらず一匹狼だよな」
ぽつりと漏らすと、スミレは横顔を向けたまま、月を見上げた。
「……そうね」
その返事に、蓮はふと黙り込む。
スミレの声は穏やかだったが、その奥には小さなひっかかりがあった。
蓮もまた、廊下の先──タオが去っていった方向とは別の暗がりに視線を向ける。
何も見えない。ただの闇。
けれど、その闇の奥で何かが見ている気配だけが、確かに存在していた。
蓮は何も言わなかった。
タオが何を抱えているのか、今はまだ分からない。
けれど──確かに、何かが始まろうとしている。
そう感じながら、蓮は再び月を見上げた。
《第3章までの復習 人物紹介》
峰野 蓮
スミレとの出会いをきっかけに架空界へ来てしまった人間。無魔力ながら騎士団として剣を持ち戦っている。人間界へ戻ることを夢見ているが、最近は少し悩んでいる様子。
ホクト
ネイト騎士団長。トーカル王の息子。
赤髪で隻眼、タバコ依存症。その正体が竜人族であることは隠している様子。
美穂とはかつてのノワル研究区画で知り合った因縁の仲である。
ミネル
ホクトに忠実な右腕。
紺色の髪に透明な瞳が特徴的で、人間の体を使って作られたロボットだというが…。
感情があまりない。
雪緖 美穂
人間と妖精族のハーフの魔法使い。水色の髪と小さな背丈が特徴的。
ノワル研究区画で育ち魔法使いになる。
その後は薬屋ミレオの元で薬の勉強をしたり、グリンダとデールと共に旅をしたり。蓮との出会いを経て、ネイト騎士団に入団した。
イリア
妖精国イシュタルの姫。金色の髪色、翡翠色の瞳が特徴的な妖精族。スミレにどこか似ている雰囲気を放つ。
ザイラス
妖精国イシュタルの宰相。紫色の髪色、銀灰の瞳が特徴的な妖精族。目付きが冷淡でちょっと怖い印象を与える。王国の実権を握っているのはザイラスだという噂も。
ミレオ
湖上都市メモリアの薬屋。長寿妖精族。かつて美穂がお世話になった。
ユナ
美穂の母親。フェリリスの谷にて姿を見つけるも、それはもう既に魂となっていた。




