懐かしい時間
向かう途中、男同士の気楽な会話が弾む。
「スミレさんだっけ? お前が惹かれたっていう相手。で、もうエッチした?」
「な、なんでそうなるんだよ! そんなんじゃないし、それに……スミレとは、そういう関係じゃ……!」
「まぁまぁ、そんなに慌てるなって。風呂入ってゆっくり話そうぜ」
快人は蓮の肩をがっしりと掴むと、そのままズルズルと浴場へ引っ張っていった。
***
脱衣所には他にも何人かの客がいた。
蓮はというと、架空界にも大浴場があるとは知らず、辺りをキョロキョロと見渡していた。最近は部屋の小さな風呂にばかり入っていたため、こうして大きな湯船に浸かるのは実に久しぶりだった。
服を脱いでカゴに入れた蓮は、ハンドタオルで局部を隠しつつ、湯けむり立ちこめる浴場へと入っていった。
白い霧が視界を遮る中、しばらくするとだんだんと光景が見えてきて、妖精族の姿がちらほらと目に入った。
「なあ蓮、お前そんな筋肉あったっけ」
シャワーを浴びながら、快人が隣に座る蓮を見て口を開いた。
「ジロジロ見るなって、気持ち悪いな」
濡れた髪をかき上げながら、蓮は照れたようにそっぽを向く。
二人はそのまま湯船に浸かった。程よい温度が全身を包み込み、思わずため息が漏れる。
「ふぅ〜」
快人は足をぐっと伸ばしてリラックスする。その足には、中高とサッカー部で鍛えた力強い筋肉がしっかりと刻まれていた。
「でさ。実際どうなんだよ、蓮」
「だから、その話はもう──」
「可愛いんだろ? 胸は? でかい? お前が惚れるだけのことはあるって思ってさぁ」
「おまっ……そういうのやめろっての!」
蓮は顔をしかめると、快人の顔に湯を軽くかける。
「ちょっ……! なんだよ!」
「からかいすぎなんだよ」
「じゃあさ、スミレさんのどこが好きなんだよ?」
「それは……」
蓮は頭に乗せていたタオルで火照った顔をぬぐい、少しうつむき加減でぽつりと呟いた。
「……顔が。笑った顔が、好きで……」
その一言に、快人は吹き出す。
「ほんっとお前って、純粋だなあ!」
「うるさいな……悪かったな」
恥ずかしさのあまり、蓮は鼻のあたりまで湯に沈んだ。
「俺、てっきり童貞卒業してると思ってたけどさぁ。その様子じゃキス一つもしてねえな?」
「なっ……余計なお世話だっての!」
実際、蓮には恋愛経験は皆無。いわゆる“彼女いない歴=年齢”というやつだった。
決して恋愛に興味がなかったわけではないが、自分から動こうとは思わなかった。性欲の処理は一人で十分だったし、なにより「好きな人」が現れることがなかったのだ。──スミレに出会うまでは。
快人は少しだけ真剣な顔になって、ぽつりと呟いた。
「でもさ、蓮。あんまりこういうこと言いたくねぇけど、人間界に戻ればスミレさんとも離れ離れになるんだよな」
その言葉が、心の奥にすとんと落ちる。
「だからさ、せめて気持ちくらいは伝えといた方がいいと思うぜ」
そう言って、快人は立ち上がる。
「俺、先に出てるから。お前もちょっとしたら出てこいよな」
蓮は「分かった」とだけ返して、湯船にひとり残った。
人間界に帰れば、当然ながらこんな日常も終わる。
それはずっと望んできたはずの未来だった。──なのに。
(……スミレと離れるなんて、無理だ)
込み上げる想いはもう、誰にも止められなかった。
快人の言うとおり、スミレに自分の気持ちを伝えるべきなのかもしれない。
だが、それが届いたとして──彼女はどう感じるのだろう。
いずれ離れる運命だと分かっていながら、そんな未来を望んでくれるのだろうか。
(幸せなんて、初めから手に入れない方が楽なんだ)
そんな弱さを抱えながら、蓮は小さく吐息をつく。
「……俺も出なきゃ」
ゆっくりと湯から上がると、ふわりと視界が揺れた。長湯しすぎたのだろう。
体の火照りを冷ましながら、蓮はふらつく足取りで快人の待つ部屋へと向かった。
快人の部屋に戻ると、そこにはタンクトップとショートパンツ姿のはな美が待っていた。
すっぴんの顔は、蓮が昔からよく知る、なじみのある顔だった。
「お、蓮。いらっしゃい。快人なら今、イリア姫のところに行ってるよ。すぐ帰ってくると思うから、適当にゴロゴロしてな」
「ん、分かった」
蓮は快人のベッドに大の字で転がると、ちらりとはな美の様子をうかがう。
昔から、彼女はスタイルが良かった。高身長で顔が小さく、必要なところにはしっかりと肉がついている。胸も人並みにあるが、かといってその無防備すぎる格好に、蓮が興奮することは一ミリもなかった。
それくらい、昔からの付き合いなのだ。それに、今では親友の彼女でもある。
この程度で動揺していては身がもたない。
「何見てんのよ」
はな美が手に持っていたグラスを蓮の頬に当てる。蓮はビクリと肩をすくめた。
「冷たっ……」
思わず眉間にシワが寄る。
「蓮、あんたいつまで妖精国にいるの?」
「それがまだ分かんなくて。もしかしたら、明日には出ないといけないかも」
「そんな早く行っちゃったら、快人が寂しがるわよ」
はな美は酒の入ったグラスを片手に、蓮が寝そべっているベッドの端に腰を下ろした。
その動きに合わせて、胸がゆるやかに揺れる。
蓮にとって二つ年上のはな美は、姉のような存在だった。
快人とはな美が付き合い始めてからは、はな美と二人で過ごすことはなくなったけれど、三人で顔を合わせる時間は、今も昔と変わらず大切なものだった。
「はな美は快人のこと、めっちゃ好きだよな」
軽くふざけてそう言うと、はな美は蓮の顔にすっと近づいてきた。
「私は快人のことも、蓮のことも好きよ」
歯を見せて笑うはな美の顔は、子どもの頃と変わらず無邪気だった。
相変わらずの彼女。それが蓮の知っている、はな美だ。
「そんなこと言ったら、快人に怒られるぞ」
蓮がそう言った矢先、部屋の扉がガチャリと開いた。
入ってきた快人は目を細めながらズカズカと歩み寄ると、蓮の頬をむんずとつねった。
「お前ー! 人の女に手ぇ出すなー!」
「いや待て待て、俺は何もしてないって!」
そんな二人のやり取りを、はな美はくすくすと笑いながら眺めていた。
──そして朝。
眩しい朝日が、部屋のカーテン越しに差し込んでいた。
鳥のさえずりが、どこか遠くで聞こえてくる。
寝苦しいほどの熱気に、蓮はうっすらと意識を浮上させた。
気づいたら熱い───やけに体が熱く、重かった。
蓮は体の上に乗っかる何かに違和感を感じると、汗だくの体で起き上がった。
「なっ……!! 快人!?!?」
どうしてこうなったのかは分からない。分からないのだが───蓮の体の上には、快人の足や腕が乗っかっていた。そして隣を見ると、そこには気持ちよさそうに眠る快人の姿があった。
「いや待て待て! 俺にそんな趣味はない!」
蓮は寝ている快人を勢いよく投げ飛ばす。
「痛えな、いきなり投げるのはないだろ! 俺だってお前と同じベッドで一夜過ごすなんてしたくなかったさ! お前が悪いんだぞ、蓮!」
「は……?」
蓮は昨夜のことを思い出した。
たしか昨日の夜、蓮は快人達と色々な話をしたのだった。懐かしいな、と思いながら、気づくと蓮はそのまま就寝。そして起きたらこれだ。
「ご、ごめん。本当にごめん」
蓮は申し訳なさそうに頭を下げる。
それを見た快人は、やれやれと呆れて笑った。
「まあ、いいけどさ。おはよ、蓮」
快人は指の間接をポキポキと鳴らした。
「ん、おはよう快人」
しばしの沈黙。
二人はベッドの上で並んで天井を見上げた。
窓の外では、朝の光が白く差し込んでいる。
「……なんか、変な目覚めだったな」
蓮がぼそっと呟くと、快人は鼻で笑った。
「お前のせいだっつーの」
少し笑い合ったあと、蓮はふと思い出したように口を開いた。
「快人。そういえばイリア姫のところに昨日行ってたろ。何しに行ってたんだ?」
快人は、ちょっとバツが悪そうに鼻をかいた。
「んー、まあちょっとな。姫から伝言預かってたんだけど……あ、そうだ」
「ん?」
「忘れてた。蓮、お前にこれ渡しといてってさ」
そう言って、快人はポケットの奥から、小さな紙切れを取り出した。
「おい、グシャグシャじゃねえか!」
「悪い悪い。夜通し一緒に寝たからな、ぬくもりで……」
「その言い方やめろって!」
蓮は顔をしかめながら紙を広げる。そこには几帳面な字で、数行のメッセージが綴られていた。
——架空界に来てから、地道に読み書きの練習を続けていたおかげで、蓮にはその内容が理解できた。
『少しお話ししたいことがあります。明日の朝、自室におりますので、お時間があれば来てください』
「……なんだこれ」
「姫直々のご指名だな。部屋に呼び出されるなんて、惚れられてんじゃね?」
「そういうんじゃないって……」
蓮はしぶしぶ腰を上げた。胸の奥に、何か妙なざわつきを感じながら。
そんな蓮を見ながら、快人がぼそっとつぶやく。
「ま、でも実際、イシュタル王国の実権握ってんのは姫よりあの宰相だって噂だけどな。……ザイラスってやつ」
「ああ、その人なら昨日チラッと見たけど、マジで無表情だったよ。まあ、姫の側近だし、信用はできるだろ」
蓮はそう言いながらも、胸のどこかにその名を刻みつけた。
そして一度深呼吸をしてから、少し声のトーンを落とした。
「そういえば、ちょっと伝えなきゃいけないことがあるんだ」
快人が寝ぼけまなこで蓮を見つめる。
「ん? なんだ?」
「もう聞いてるかもしれないけど……俺たち、今日には出発しなきゃいけないんだ。だから、せっかく会えたけどまた……」
蓮がそこまで言いかけて、口をとざす。
「また……なんだよ? 距離なんて関係ないだろ、こうしてまた会えたんだ。次からはもう、いつだって会える」
快人はそう言うと、蓮の肩を軽く叩いた。
「ほら、イリア姫の所行ってこい。出発準備とかもあって忙しいんだろ?」
快人のその言葉に背中を押されるように、蓮は立ち上がる。
「ありがとう、快人。また後で……城門で落ち合おう」
ドアを閉めたあと、蓮はひとつ息を吐いた。
イリア姫が待っている──そう思うと、どこか胸の奥がざわつく。
気を落ち着けるように歩調を整えながら、彼はイリアの部屋へと向かった。




