湖面に映る星
舟の底を優しく叩くように、静かな波が音を立てていた。
夜の湖はすっかり霧が晴れ、空の星々が水面に降りてきたかのように、穏やかに煌めいている。
美穂は舟の先端に腰かけ、遠くを見つめていた。
「……あの景色、オレンジの花が咲く谷……心当たりがある」
それだけを言うと、美穂はそれ以上、何も語らなかった。
蓮は問いかけず、ただ静かにその横顔を見守る。
メモリアの静けさの中で、彼女の髪がまるで風景の一部のように見えた。
舟はゆっくりと街の明かりへと戻っていく。幻想的な占いの館が遠ざかり、再び街の灯が近づいてくる。
蓮は、ふと思った。
(……スミレが一緒に来ていたら、どうだっただろう)
彼女はあの迷宮に、そしてメモリアに来たことがあるのだろうか。
見慣れた景色として受け入れただろうか、それとも──。
この湖の静けさを、どう感じただろうか。
きっと彼女の横顔を、じっと眺めてしまうのだろう。
思わず口元がほころびそうになるが、それもすぐに消えた。今の隣にいるのはスミレではない。
舟が桟橋に着き、二人は静かに宿の前に降り立った。
木造の小さな宿は、夜の冷えを閉ざすように温かな光を漏らしていた。
ドアの前で、美穂がふいに立ち止まる。
「ねえ、今夜……一緒にいてもいい?」
その声音は、いつもの彼女の芯のある声ではなかった。どこか、迷子のように、頼りなくて──。
蓮は、言葉に詰まった。
一瞬、スミレの顔が脳裏をよぎる。あの真っ直ぐな眼差し、奔放で、でもまっすぐに人を想う心。
でも、今ここにいるのは、美穂だ。
母を思って涙を浮かべた彼女を、放っておくわけにはいかない。
「……わかった」
そう答えると、美穂はほっとしたように小さく笑い、子供のように、おそるおそる蓮の袖を掴んだ。
宿の扉が開き、柔らかな灯りが二人を包む。
そしてそのまま、夜の静寂に溶けていった。
***
部屋は素朴で、小さなランプがテーブルの上でぼんやりと揺れていた。
木造の壁は外の冷気をやんわりと遮り、どこか懐かしい温もりを宿している。
蓮と美穂は、並んで部屋の真ん中に座っていた。
声はない。ただ、沈黙が心地悪くないのが不思議だった。
「……ありがとね」
ぽつりと、美穂が言う。
「今日は……いろんなもの、見すぎちゃったかも」
彼女は自分の膝を抱えるようにして、少しだけ丸くなる。
その姿は普段の彼女とは違って、どこか幼く見えた。
蓮は、言葉を探したが、見つからない。
代わりに、テーブルの上に置かれたマグカップに手を伸ばす。
水を温めただけの簡単なものだが、渡すと、美穂はふっと笑って受け取った。
「ね、蓮はさ……」
美穂は少し間を置いて、ランプの光をじっと見つめたまま言った。
「怖くならない? この先のこと」
「怖いよ」
迷いながらも、蓮はそう答えた。
「でも信じたい、と思ってる。信じないと、前に進めないから」
美穂はその言葉に、どこか安心したように目を細める。
「……そっか。じゃあ、私も。少しだけ、信じてみようかな」
それは自分に言い聞かせるような声だった。
不器用だけど、真っ直ぐなその言葉に、蓮の胸がほんの少しだけ温かくなる。
やがてランプの灯がゆっくりと揺らぎ、夜は静かに深まっていく。
ベッドはひとつしかなかったが、美穂は布団の端にちょこんと横になり、「背中向けるから」と言って、蓮に背を向けた。
その背中越しに、しばらくの沈黙があった。
しかしその沈黙は、気まずさではなく、やわらかな毛布のように二人を包んでいた。
やがて、美穂の小さな寝息が聞こえ始める。
蓮は、天井を見上げたまま、目を閉じる。
(……少しでも、心が軽くなってたらいいな)
そんなふうに思いながら、彼もまた静かに目を閉じた。
外の湖面に映る星々は、ゆっくりと流れ、夜を越えていった。
***
朝の光が、窓のカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
微かに鳥の声が聞こえる。けれどそれは、人間界でよく聞く鳥とは少し違う、不思議な旋律だった。
蓮が目を開けると、隣で美穂がまだ静かに眠っていた。
背を向けたまま、穏やかな呼吸を繰り返している。その寝顔は、昨日よりも少しだけ落ち着いて見えた。
静かに身支度を整えると、蓮はそっと窓を開けた。
湖面が朝日に照らされ、きらきらと輝いている。水の音がすぐそばに感じられ、どこか心が落ち着く。
「……もう朝か」
寝癖のまま髪をかき上げながら、美穂の背中を見つめた。夜の気配はすっかり消え、代わりに柔らかな光が部屋を包んでいた。
やがて、美穂も目を覚まし、眠たげに目をこする。
「ん……眩しい」
まだ少しぼんやりしたまま、布団の中で身体を起こした。
二人は簡単に身支度を済ませ、静かに宿の扉を開ける。
外へ出ると、メモリアの朝はすでに静かな賑わいを見せていた。
木造の桟橋を行き交う人々、ゆるやかに流れる小舟。水面には朝陽が差し込み、まるで水の上に光が舞っているようだ。
あちこちで、小さな市が静かに開かれている。
色とりどりの薬草を束ねて売る老妖精、香り高い花蜜を瓶詰めにして並べる薬師たち。旅の魔法使いたちが、水辺の石段に腰を下ろし、霧の晴れた空を見上げている。
子どもの姿は少ない。
この街には、どこか物静かで大人びた雰囲気を持つ者たちばかりが集まっていた。
誰もが長い旅の途中で立ち寄り、やがてまたどこかへと旅立っていく。
それは、知識と経験を持つ者たち特有の落ち着きであり、どこか“普通”とは違う空気だった。
(……この街、やっぱり特別だ)
蓮はそう思いながら、美穂と並んでゆっくりと歩き出した。すると、ちょうど向かいの宿の扉が開き、ホクトとミネルが姿を現した。
ホクトは軽く背伸びをしながら、眩しそうに空を仰ぐ。ミネルは相変わらず表情を変えず、しかし静かに蓮たちの方へ歩み寄ってきた。
「おはよう、よく眠れたか?」
ホクトが気さくに声をかける。
その一言に、美穂は少し照れたように頷き、蓮は曖昧に笑った。
「うん。……まあ、なんとか」
「そうか。今日は移動日だ、無理は禁物だぞ」
ホクトはそう言って、荷を背負い直す。
ミネルも背に小さな荷を背負っており、その動きには無駄がない。夜の間も、何かしら整備をしていたのかもしれない。
「イシュタルへ向かうんだよね?」
蓮が確認するように問うと、ホクトは静かに頷いた。
「そうだ。アーラ山脈を越えたからな。ここから先は、それほど時間はかからない」
「……うん。少しだけ、楽しみ」
美穂が前を見据えるようにして、静かに言った。
ホクトはその言葉に目を細め、穏やかに頷く。
「行くぞ」
湖の町を背に、四人の影が桟橋を渡り始める。
朝の光は水面に跳ねながら、彼らの背をそっと押すように揺れていた。




