薬屋ミレオと占い師
メモリアの街路は、夜の帳に包まれているというのに、不思議と怖さはなかった。水路の音がどこか遠くから響き、明かりを灯した浮遊灯が、ふわりふわりと水面を漂っている。
二人の足音は、木製の板道にやさしく吸い込まれていった。
やがて、ひときわ古びた木造の建物の前にたどり着いたようだった。
軒先に吊るされた薬草の束、扉の横にかかる風除けの布。看板には、かすれかけた金文字で「ミレオ薬房」と刻まれていた。
美穂は、扉の前でふと足を止める。
「……私はここで、デールに拾われたの」
その言葉に、蓮が少しだけ目を見開く。
「この薬屋の手伝いをして、寝る場所をもらって……それからデールとグリンダに出会って、旅に出ることになった。……いろんなことが、始まった場所」
美穂は、まるで懐かしい匂いを確かめるように、扉に手をかけた。
チリン、と小さな鈴の音が鳴る。
中は、ほのかに薬草とハーブの香りが満ちた空間だった。棚には瓶詰めの薬や乾燥葉がずらりと並び、奥の暖炉には小鍋がかけられて、白い湯気が静かに立ち上っている。
そこにいたのは、小柄な老婆だった。淡い緑の髪に、薄紫の瞳。年齢は感じさせるものの、その眼差しには妖精族らしい澄んだ光が宿っていた。
「いらっしゃい……あらぁ?」
老婆は美穂の顔をじっと見つめ、そして目を細める。
「なんだか……懐かしい顔立ちねぇ」
「……忘れちゃったの? ミレオ。私よ、美穂。昔、ここでお世話になった──」
その言葉に、老婆の目がぱっと見開かれる。
「まさか……美穂! 忘れるわけがないでしょう!」
ふわりと笑みが広がった。ミレオは歩み寄ると、美穂の手を両手で包み込むように握った。
「こりゃ驚いたよ……ずいぶん立派になって。前に来たときは、一人で色んなもの抱えて、目が少し怖かったけど……今は、ちょっと柔らかくなったねぇ」
美穂は困ったように、でもどこか嬉しそうに笑った。
「……思い出してくれてよかった。てっきり忘れちゃったのかと思った」
「何言ってんの、当たり前さ。あんたが薬草の名前を間違えて、毒草煎じて鍋焦がした日なんて、今でも笑い話さね」
美穂は、思わず小さく吹き出した。
その笑みには、懐かしさと、少しの照れと、そして確かな温かさがあった。
ミレオは奥の小さな椅子を指差す。
「さあ、おかけ。お茶でも出すよ。久しぶりに話しておきたいことも、たくさんあるでしょ?」
美穂はそっと蓮に目をやる。
蓮は頷いた。
「俺も一緒にいていい?」
「……うん。いてくれると、助かる」
懐かしさと、少しの不安と。
さまざまな想いが混ざり合う中、薬草の香りに包まれながら、二人は小さな薬屋の奥へと歩を進めていった。
小さな丸椅子に腰を下ろすと、ミレオが温かいハーブティーを運んできた。透き通る緑色の液体から、レモンバームのような甘酸っぱい香りがふわりと立ちのぼる。
「はい、おあがり。昔と同じ、あんたの好きだったやつさね」
「……ありがとう」
美穂はカップを両手で包み込むように持ち、そっと一口すする。懐かしい香りが、喉の奥から胸に広がった。
「変わらないね、ここの味……」
「そりゃそうさ。年寄りのやることなんて、そうそう変わるもんじゃないよ」
ミレオはくしゃりと笑い、蓮にもお茶を勧める。蓮は少し遠慮しながらもカップを受け取り、礼を言ってから一口飲んだ。
「……おいしい。なんか、落ち着く味ですね」
「でしょう? 旅の疲れも、ちょっとは抜けるさ」
ミレオは笑いながらも、美穂をまっすぐに見つめる。
「で……今日は、どうしたんだい。懐かしさだけで来るような子じゃないって、あたしゃ知ってるよ」
その言葉に、美穂はふっと目を伏せる。
「……母のことを、探してるの」
「お母さんを?」
「うん。あの人、昔、ここに来たことがあるって聞いたの。もしかしたら、何か覚えてるかと思って」
ミレオの表情に、少し陰が差す。
「そうかい……あんたに母親のことを聞かれる日がくるとはねえ。確かに、あんたに似ている人が来たことがあるよ。あんたが生まれる少し前だったかね。だけど……あの人は、あたしが知る中でも、いちばん孤独な目をしてた」
美穂はそっとカップを置き、ミレオの言葉を受け止めるように黙って頷いた。
「愛がなかったわけじゃない。むしろ、あの人は愛しすぎてた。だから、突き放すようなことしかできなかったのかもしれないね」
蓮が、美穂を心配そうに見つめた。
「……会えると思う?」美穂が問う。
ミレオは少しだけ目を閉じてから、静かに答える。
「会えるよ。ただし……あの人に会うってことは、自分の過去とも向き合うってことだ。あんた、その覚悟はあるかい?」
美穂は少し黙ってから、小さく頷いた。
「……うん。たぶん、怖いけど。でも、ちゃんと向き合いたい」
「なら大丈夫さ。昔の美穂なら無理だったかもしれないけど、今のあんたなら、きっと乗り越えられる」
ミレオの声は、どこまでも優しかった。
「……ところで、美穂。“あの人”のこと、本当に知りたいのなら──占い師のところへ行くといいよ」
「占い師……?」
美穂が眉をひそめると、ミレオは懐かしむような声で続けた。
「湖の東に浮かぶ小さな館。あそこには、“霊視”を得意とする魔法使いの占い師がいるんだ。水と霧の力を借りて、記憶や過去、運命の糸を覗くことができる。普通の者には見えないものを、見通してくる」
「……そんな人が、メモリアに?」
「そうさ。まあ、誰にでも心を開くような人じゃないけどね。美穂なら、きっと会ってもらえると思うよ」
ミレオは美穂をじっと見つめる。その瞳はまるで、何かを見透かしているようだった。
「“何を知りたいか”を明確にしてから行くといい。さもないと、あの人の占いは……ときに、心を抉るからね」
「……ありがとう、ミレオ」
美穂は小さく頭を下げた。
「あぁ、行っておいで」
ミレオは優しく微笑み、小さな瓶に詰めた青い薬を差し出した。
「これは、霊視の前に心を落ち着かせるための薬。向こうへ着いたら飲むといいよ。ほんのり甘いけれど、効き目は本物さ」
受け取った薬瓶は、まるで湖の水を閉じ込めたかのような透明な青色をしていた。
外へ出ると、夜の湖には淡い霧が立ちこめていた。水面を照らす灯火がゆらゆらと揺れ、まるで夢の中を歩いているような心地になる。
「……こっちみたいね」
二人は、岸辺に繋がれた小舟に乗り込んだ。舟の底には、ミレオが用意してくれた魔法石が埋め込まれており、舵を取らずとも水の流れに沿って静かに進んでいく。
湖面を滑るように舟が進む中、美穂はポケットからあの小さな薬瓶を取り出した。
瓶の中の液体は、まるで夜の湖そのもののように澄んだ青を湛えている。
蓋を開け、そっと唇に触れる。
ほのかに甘く、冷たい水のような味がした。
薬が喉を通り過ぎた瞬間、不思議な静けさが心の奥にしみ渡ってくる。
──怖くないわけじゃない。
でも、逃げたくない。
自分に言い聞かせるように、美穂は深く息を吸い込んだ。
メモリアの中心部から離れるにつれ、建物の灯りも遠ざかり、あたりは神秘的な静けさに包まれていった。
湖の向こうに、ぼんやりと浮かぶ影が見える。
「……あれが、占い師の館?」
蓮の問いかけに、美穂は頷いた。
湖の上に建てられた、小さな丸い屋根の建物。外壁にはツタのような魔法紋が刻まれ、屋根からは鈴の音のような結界の響きが時折漂ってくる。建物全体が水の上に浮いているようにも見え、不思議な霊気が周囲を満たしていた。
小舟がそっと桟橋にたどり着いたとき、扉が音もなく開いた。
誰かが迎え入れるように、霧が静かに引いていく。
「……来たのね。お入りなさい」
現れたのは、黒と銀の衣をまとう女だった。年齢は分からない。髪は夜のように黒く、瞳は深海のように深く静かな色をしていた。肌は透けるように白く、その眼差しには、深い霊性と底知れぬ魔力が静かに揺らめいていた。
「あなたの心はまだ揺れている。けれど、それでも真実を知りたいのでしょう?」
美穂はわずかに息を呑む。
「……はい」
女はゆっくりと身を引き、霧の中に溶けるように館の奥へと進んでいく。美穂と蓮は無言のまま後を追った。
館の中は、不思議な香りに満ちていた。水草と香木を混ぜたような香り。深く息を吸い込むと、意識がどこか遠くへ引き込まれていくような錯覚にとらわれる。
「では、“霊香”に身を委ねなさい」
占い師は、香炉にいくつかの花弁を落とした。すぐに、淡い紫の煙が静かに立ち上る。水の香りと、どこか懐かしいような遠い記憶の匂いが鼻をくすぐった。
「目を閉じなさい。そして、問いなさい」
美穂は静かに目を閉じた。
心の奥底から、自然に言葉がこぼれる。
「……ママは、今どこにいるの?」
霧のような煙が揺らぎ、やがて空間に像を結んだ。
それは──ひとりの女性の姿だった。
長い髪、どこか気品のある立ち姿。だがその横顔には、静かに寂しさが宿っている。
「……ママ……」
美穂の喉が震える。
映し出されたのは、霧に包まれた静かな谷間だった。
空に近い場所なのに、どこか地の底のような静寂が広がっている。夜ではないのに、光はやわらかく抑えられ、谷一面に咲くオレンジの花が、ほのかに輝いていた。
煙の中の母は、小さな袋を胸に抱え、何かを思い出すようにそっと目を伏せる。そして、振り返ることなく歩き出す。けれどその足取りは重く、迷いを含んでいた。
──立ち去らなければ。でも、立ち去りたくない。
そんな揺れる感情が、煙の揺らめきと共に美穂へと伝わってくる。
占い師が静かに言葉を紡いだ。
「あなたの母は……すでにこの街を離れました。何かを探しているようです」
美穂は、すれ違いそうな距離で、声が届きそうで届かない距離で、霧の中を歩く母の幻影を見つめた。
「……それが“何か”を知りたいのなら」
占い師は、ふと目を開き、美穂をまっすぐに見つめた。
「あなたが、自分の足で歩いて確かめるのね」
煙が再び揺れ、母の姿を霧の中に溶かしていった。
母は、生きている。
その確かな事実が、美穂の胸に温かく灯る。
瞳に浮かぶ涙を、彼女は拭おうとはしなかった。
蓮がそっと、美穂の肩に手を置いた。
「大丈夫?」
美穂は小さく頷く。
苦しさはある。でも、さっきよりもほんの少しだけ──前が見えた気がした。




