試練 対峙
暗闇。何もない。何も感じない。静寂の空間。
ミネルは、ただ立っていた。
光も、色も存在しない。情報も、目的も、ない。そんな中──耳の奥で、何かが揺れる。ノイズのような、かすかな音。
「お前は、ただの機械だ」
「心など不要だ。効率だけを求めろ」
「それが、お前の存在意義だろう?」
低く響く声。どこか懐かしい。だが、それが“誰”の声なのか、彼女には分からなかった。
続いて、別の声が届く。優しく、けれど泣いているような声だった。
「頼む、戻ってきてくれ……お願いだから……」
「君がいなくなった世界で、俺はずっと……」
記憶の断片。滲んでいく、誰かの手。
伸ばしても届かない、“かつての何か”。
──分からない。
彼女には、まだ“感情”の輪郭が掴めない。
それでも。
「……私は、命令では動かない」
ミネルの声が、空間に響く。
「記録は不完全。感情も理解できない。だが、私は──選んだ」
蓮、美穂、ホクト。
彼らと共に戦うことを。共に進むことを。
「それが、最も合理的で、最も……正しい選択だ」
淡く、空間にひびが入る。
試練の帳が崩れ始める。
ミネルの目に、一瞬だけ浮かんだ“揺らぎ”は、光のようでもあり、ノイズのようでもあった。
光が差し込み、空間が割れる。
試練の闇が崩れ、現実の迷宮の空気が流れ込む。
ミネルは静かに立っていた。
衣服は乱れておらず、傷もない。
けれど、その背には、どこか疲労のような影が滲んでいた。
「……ミネル!」
蓮が駆け寄る。
不安げに彼女の顔を覗き込むが、ミネルは目を伏せたまま、わずかに首を傾けただけだった。
「何があったんだ?」
しばしの沈黙。
ミネルは、迷うような間を置いて、ぽつりと答える。
「……誰かの声が、聞こえた」
「声?」
「正体は不明。記録にも一致しない。ただ……“私に戻ってきてほしい”と、そう言っていた」
蓮は黙ってミネルの言葉に耳を傾ける。
彼女の言葉はいつも淡々としている。それでも、そこには確かに“迷い”があった。
「だが、私は選んだ。ここに残ると」
「……なんで?」
問いに、ミネルはほんのわずかだけ顔を上げる。
「合理的だから」
それは、どこまでもミネルらしい答えだった。
けれど、その声には確かに、自分の意思で決めたという強さがあった。
蓮は、それ以上何も言わなかった。ただ、小さく笑ってうなずく。
「うん、ミネルらしいね」
空気は、張り詰めたままだった。
むしろ、次の“波”が押し寄せてくる気配が、肌をひりつかせるほど濃くなっていた。
「次は……誰だ?」
蓮の言葉に答えるように、今度は美穂の足元に、ふわりと霧が立ち上がる。
「っ……!」
美穂が一歩下がると、霧はまるで彼女を誘うようにまとわりつき、その輪郭を包んでいく。
「待って、美穂!」
蓮が声を上げるが、美穂は小さくかぶりを振った。
その瞳はどこか、覚悟を決めたように澄んでいた。
「大丈夫。……たぶん、避けては通れないやつだと思うから」
そう言って微笑む彼女の表情には、どこか諦めに似た影があった。
だが、それを見届ける間もなく──霧が彼女を呑み込んだ。
次の瞬間、美穂の意識は、白い虚空へと沈みこんでいった。
──空間が揺れる。冷たい風が吹いた。
気がつけば、美穂は霧の中に立っていた。
どこか懐かしい匂いがする。けれどそれは、決して心地よい記憶ではない。
広がるのは、ノワル研究区画。
誰もいない、白い廊下。閉ざされた部屋。どこからか聞こえる、魔力の爆発音。悲鳴。命令。冷たい評価の声。
美穂の視線が、ある一つの扉で止まる。
その扉の向こうに、誰かが立っていた。
「……ママ?」
小さな背中。見覚えのある髪の色。あれほど会いたかった人が、そこにいる。
だけどその顔には、表情がない。ただ、冷たい声が響く。
「あなたはまだ足りない。弱すぎる。だから、置いていくしかなかったの」
胸が苦しくなる。
違う。そんな言葉が聞きたかったんじゃない。
でも、美穂は気づいていた。
──これは母の言葉じゃない。自分の心が作り出した“恐れ”の声だと。
「怖いのよ。私は──自分の魔力が」
その瞬間、空間が歪む。美穂の周囲に、黒い影が現れる。
それは彼女自身の魔力が形を変えたもの。制御を失い暴走する、恐怖の象徴。
息を呑み、杖を構える。
けれどその手は、ほんのわずかに震えていた。
そのとき、誰かの手が肩に触れた。
振り返ると、そこに蓮が、ミネルが、ホクトがいた。
どこから現れたのかではなく──“今ここにいる”ことが、大事だった。
「怖がるな、美穂。俺たちは、お前を見捨てたりしない」
ホクトの言葉が、光のように届く。
「私は、ただ強くなることに執着してきた。でも、本当は怖かった。力も、自分自身も……ママに、なにを残せばよかったのか、ずっと分からなかった……」
黒い魔力の影が、美穂を包もうとした瞬間。
「それでも──私は、“私を愛してくれた”ママを信じたい」
そう叫び、彼女は杖を振るう。
その一撃は、影を裂いた。
闇が晴れ、母の幻が、微笑むように消えていく。
「あなたが生きているだけで、満足よ」
──それは、本物の母がかつて言った言葉だった。
空間が静かに砕ける。
美穂の目の前に、仲間たちが立っていた。
美穂が戻ってきたとき、彼女は静かだった。
ほんの少し、呼吸が荒い。それでも強くあろうとするその姿に、誰も何も言えなかった。
そして、次に動いたのは──ホクトだった。
「……俺が行く」
その言葉は、誰の誘導も必要としないものだった。
まるで最初から分かっていたかのように、彼は一歩前へと進み出る。
「ホクトさん……!」
蓮が言いかけた言葉を、ホクトは手で制した。
「これは俺だけで解決する」
その背中が、かつての英雄のようにまっすぐだった。
彼の周囲に、炎のような赤い結界が立ち上がる。情念とも呪縛とも言える、熱を孕んだ魔法領域。
彼は、その中へと静かに歩を進めた。
誰にも頼らず、誰の助けも受けず──
それが、彼が選んだ“罪滅ぼし”の在り方だった。
暗い空間。
その中で、ホクトはひとり、無数の影に囲まれていた。
影は人の形をしていた。
かつて共に剣を振るった仲間たち──そのはずだった。今ではただ、彼を“裏切り者”と呼ぶ声だけが、耳を刺してくる。
「なぜ抗った」
「なぜ俺たちを見捨てた」
「お前だけが、生きている意味はあるのか?」
ホクトは、目を閉じたまま黙っていた。
胸に突き刺さる言葉は、すべて過去の自分が問うていたものだ。
それでも──彼は、口を開く。
「……生き残ったのは、俺の意志だ。死ぬことも、堕ちることもできた。だが、選ばなかった」
「お前たちの無念も、失敗も、後悔も。俺がすべて、背負っていくと決めた」
握った拳が、静かに震える。
目の前の影が、剣を抜く。かつての“仲間”が、敵として襲いかかる。
ホクトは剣を抜かない。
真正面から、その影を受け止める。
一閃──
刃ではなく、気迫で、圧で、心で打ち払う。
影が砕ける。空間が揺れる。
「俺はもう、“誰かのために戦う”と決めた……裏切り者で構わない。だが──俺は、もう迷わない」
影たちが静かに霧散していく。
最後に残った一人の影だけが、振り向かずに言う。
「……ならば、進め。お前の道を」
それが仲間だった者か、自分自身の幻かは分からない。
だがホクトは、何も言わずに背を向け、歩き出した。
迷いのない瞳。
背筋はまっすぐ、ただ“前”だけを見据えていた。
ホクトは、霧の帳を割って現れた。
その無骨な足取りと、揺るがぬ背中。姿を見せた彼は、何も語らず、自然に仲間たちの隣へと立った。
ミネルはわずかに肩を上下させながらも、変わらぬ無表情で立ち尽くしている。
美穂は静かに、それでも確かな眼差しで前を見据えていた。
そして三人は、揃った──それぞれが、自らの試練を越えた者として。
試練は、確かにそれぞれを揺さぶった。
過去、罪、そして自分自身の弱さ──。
それでも彼らは、乗り越えたのだ。心の闇を、己の手で。
蓮はその光景を、黙って見つめていた。胸の奥に何かがじわりと滲んでいく。安堵、敬意、そして……焦り。
「……残るは、お前だけだな」
ホクトの声が、静かに響いた。まるで重石のように、背に落ちる。低く抑えられたその声音には、期待と信頼、そしてほんの僅かな憂いが混ざっていた。
蓮は背を向けたまま、小さく頷いた。
「うん……わかってる」
どこかで、ずっと気づいていた。この迷宮がただの空間ではないことを。
ここは試される場所。力ではなく、心の在り方が問われる場所。
──選べ、と。
それが誰の声でもなくても、蓮の中には確かに響いていた。胸の奥で、何かが答えを待っていた。
そのときだった。足元に、黒い波紋のような影がゆらりと広がり始めた。まるで意志を持つかのように、じわじわと空間を侵食していく。
「……蓮」
美穂が、不安を滲ませた声で名を呼ぶ。
ミネルが、警戒の眼差しで一歩踏み出しかけた。
だが蓮は振り返り、ゆっくりと微笑んだ。
その笑顔は、どこか寂しげで──けれど確かに、強かった。
「大丈夫。俺も──ちゃんと向き合ってくる」
それだけを告げて、彼は目を閉じた。
次の瞬間、世界が沈んだ。
色が消え、音が消え、温度が消える。
まるですべてが“無”になるような、深い静寂。ここは、意識と意識の狭間。試練の入り口。
蓮はその中心で、静かに息を吐いた。
「……選ばなきゃいけないんだろ? 俺も」
誰にともなく呟いたその言葉は、まるで鍵のように空間に響き、そして──扉を開けた。
***
気がつくと、蓮は“あの日”に立っていた。
淡い光が差す、春の街並み。遠くからは部活帰りの声が聞こえ、教室の窓には西陽が差し込んでいる。
そこは、蓮がかつて過ごした人間界だった。あの頃、何気なく笑い合っていた、何もかもが平和だった日々。
そして、目の前には──
「蓮、こっちに戻っておいで」
「なあ、あの変な世界より、こっちのがいいに決まってるだろ?」
声の主は、はな美と快人だった。
親しげな笑顔で、まるで昨日の続きのように話しかけてくる。
はな美はいつもの明るさで笑い、快人は手をポケットに入れたまま、どこか気怠そうに、それでも優しげに言った。
──懐かしい。
胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚。ずっと追い求めていた光景が、そこにあった。
だが、その声の奥には……ほんのわずかに、違和感が混じっていた。
柔らかな空気のはずなのに、どこか“誘導するような”圧を感じる。
まるで、この世界に引き戻そうとする“意思”が、ふたりを借りて囁いているかのように。
蓮は立ち止まり、静かに教室を見渡した。
そこには確かに、戻りたかった日々があった。
それでも──彼は、ふっと息を吐いた。
「……違うな」
その言葉は、自分自身への確認だった。
「たしかに、俺はずっと人間界に帰りたかった。いまだって、帰れるなら帰りたいって思ってる。でも──」
顔を上げる。想いが、胸の奥から溢れ出す。
「架空界で出会った大事な仲間がいる。あの世界にも、守りたいものがあるんだ」
その言葉に呼ばれるように、蓮の心にふと浮かんだのは──スミレの顔だった。
笑ってこちらを見る、いつもの表情。
胸の内をなかなか見せてくれない彼女だけれど、ときおり見せる照れたような仕草や、黙って寄り添ってくれる優しさ。
そんな彼女に、蓮は何度も救われてきた。
そして彼の脳裏には、次々と仲間たちの姿がよみがえってくる。
訓練場で共に汗を流した騎士団の仲間たち。
ぶっきらぼうでも面倒見のいいタオ。冗談を飛ばして場を和ませるリリス。
不安な夜に、何気ない会話で笑わせてくれた他の団員たちも。
──あの世界には、もう“日常”がある。
確かに、あそこには自分の帰る場所があるのだ。
「人間界だって、架空界だって……俺にとっては、どっちも現実だ」
言葉が放たれた瞬間、教室の風景がわずかに揺らいだ。
友人たちの笑顔が、じわりと歪み始める。
「お前は戻ってくるべきだ。全部忘れて、最初からやり直せる」
「向こうの世界なんて、幻だ」
囁く声が重なっていく。耳元に、脳裏に、心の隙間に。
──違う。
蓮は、強く目を開いた。光の揺らめきを振り払うように。
「俺は欲張りなんだ。どっちも、選んでみせる」
その瞬間、教室が崩壊を始めた。
床が裂け、壁が砕け、空が破れる。現実の殻が、偽りの仮面を剥がされていく。
視界が闇に染まり、風景が霧散していく。
──お前は、それでも後悔しないか。
誰とも知れぬ声が、虚空から問いかける。
けれど、蓮は一切ためらわなかった。
「後悔してるヒマがあるなら、前に進む。俺は、そういう生き方を選ぶって、決めたんだ」
言葉は、断ち切るように明確だった。
霧が晴れゆく。
そして、現実の空気が戻る。
静けさの中に、仲間たちの気配が確かにある。
ミネル、美穂、ホクト──。
四人の姿が、再びひとつになる。




