試練 共闘
その頃──ホクトと美穂の目の前には、霧のように漂う瘴気の奥、黒々とした魔物が現れていた。岩のように隆起した体躯に、木の根のように絡まり合う両腕。蛇のようにのたうつ尾が地を這い、地面を抉っている。
目は三つ、裂けた口からは不快な唸り声が断続的に漏れ、その気配だけで空気がざらつくようだった。
美穂は一歩後ろへ引き、すっと杖を構える。指先は微かに震えていたが、それは恐れではない。集中による制御。
呪文は唱えない。呼吸を整え、空気の流れと魔力の波を読み込む。
隣で、ホクトが一歩前へ出た。重厚な足音が、迷宮の奥に低く響く。
その背に宿る気迫に、美穂は一瞬だけ、記憶の中の「彼」を重ねた。
彼の鎧の隙間から覗く肌──それが一瞬、鱗のように光を返したように見えた。
「この魔物、だいぶ硬そう」
「お前の魔法、通るか?」
「試してみる」
たった数語。それで十分だった。
ずっと昔、積み重ねてきたものがある。
魔物が、けたたましい咆哮を上げて飛びかかってきた。意外にも俊敏で、尾がしなり、鞭のように振るわれる。
「速い!」
美穂が呟くよりも早く、ホクトが踏み込んだ。尾が振り下ろされた瞬間、彼は膝を折って滑り込み、手にした大剣を振り上げた。
剣が尾をかすめ、鋼のような表皮に火花が散る。
硬い。
「ちっ……」
ホクトがわずかに目を細める。その横を、美穂の魔力がすり抜けた。
淡い青の光が彼女の掌に集まり、弾丸のように魔物の頭部へと放たれる。
直撃。頭が仰け反った──だが、崩れはしない。
「再生してる……」
「核があるな」
ホクトの低い声は、喉の奥から響くようだった。まるで、人の声ではないような──深い、獣の音色。
魔物が吠える。それに応えるように、ホクトが地を蹴った。跳躍。
その影は、天井近くまで一気に舞い上がる。まるで羽があるかのように。
ほんの一瞬、彼の背から淡く揺らめく“膜”のようなものが広がったように見えた。
美穂は、それを知っている。
(……その翼。まだ、隠してるつもり?)
魔物の背に着地したホクトが、怒り狂う咆哮を受けながら剣を振り下ろす。
しかし、背の装甲は分厚く、斬撃は浅くしか入らない。
「こいつ……心臓どこだ」
「左胸の奥。視線がそこに集中してる」
美穂の即答に、ホクトが小さく笑った。
「相変わらず、よく見てるな」
その言葉と同時に、美穂は足元に魔法陣を滑り込ませる。
魔力の糸が迷宮の石床を這い、魔物の足元を絡め取る。
一瞬だけ、動きが止まった。
ホクトが剣を高く掲げる。再び、彼の背に薄く光の膜が瞬いた。
力が──集中する。
振り下ろされた一撃は、風を裂き、魔物の背を深々と断ち切った。
肉が裂け、血ではない黒い瘴気が吹き出す。魔物が絶叫を上げた瞬間、
「今よ」
美穂の第二波が放たれた。鋭く光る魔力の刃が、裂けた肉の奥に潜り込み──心臓部を正確に貫いた。
魔物が崩れる。肉体は煙のように溶け、瘴気とともに迷宮の床に吸い込まれていった。
迷宮の空気が、重たい幕を一枚はぐように、すっと静かに落ち着いていく。
その中に、戦いの余韻と、二人の過去がじんわりと滲んでいた。
美穂は息を吐きながら、ゆっくりとホクトを見上げた。
その瞳には、かすかな揺らぎがあった。
「……やっぱりホクトは、あの頃と変わらない」
ホクトは剣を背に収め、音もなく振り返る。
視線だけが美穂をとらえた。
それは微笑みではなかったが、どこか優しさの匂いを孕んだ、柔らかな目だった。
「美穂、お前もな。ノワル研究区画でお前を初めて見た時から、強さは知っていたよ」
──ノワル研究区画。
魔法都市ノワルが国家の管轄で設けた、選ばれた者だけの育成機関。
才能と資質を見定めるための訓練は、時に過酷で、時に非情だった。
ホクトはその立場上、ネイトエールの代表として一時的にそこに関わっていたことがある。
「……思い出したくない」
美穂がぽつりと呟く。
「あそこは、育成機関なんかじゃない。ただの実験場でしょ」
ホクトを真っ直ぐ見据える彼女の瞳には、怒りとも、悲しみともつかない、にじむような感情があった。
それは、過去に向けた感情であると同時に、今この瞬間に立っている自分自身への確認でもあった。
「ホクトが私にしたことも、許してない。私が魔法使いになれたのは……私自身の努力だから」
ホクトは短く息を吐き、静かに言葉を返す。
「ああ、それでいい」
間を置かずに、美穂が話題を切り替える。だが、その声には鋭さが残っていた。
「それより……あなた、竜人族のこと隠してるの?」
ホクトの動きが、わずかに止まる。
気まずさとも、警戒ともつかない空気が一瞬だけ流れた。
そして彼は何も答えず、ポケットからタバコを取り出して咥える。火をつけずに、それをくわえたまま言った。
「隠してるんじゃない。言う必要もなければ、それを明かす場面もないだけだ」
「そんなこと言って、気にしてる。中立王都ネイトエールに竜人族がいることがそんなに問題? むしろ、中立を示すには、いい兆しだと思うけど」
ホクトはそれに対して、何も言わなかった。
ただタバコの端を指で弾き、ゆっくりとくわえ直すだけだった。
美穂はそれを見ても、なお言葉を止めなかった。
「まあ、いいけど」
そしてふいに声を落とし、少しだけ表情を和らげる。
「それともう一つ……これはずっと。初めて出会った時から、言おうと思ってた」
その言葉のあと、美穂はほんの少しだけ目を細める。
感情の起伏はない。声色も変わらない。ただ、静かに、核心を突く。
「──あなた、悪魔の血が流れてるでしょう?」
沈黙。
その言葉に、ホクトは口元をゆるめた。
皮肉とも諦めともつかない、けれど確かに「肯定」に近い、そんな笑みで。
そして──その笑みの意味を、まだ知る者はいない。
***
霧はまだ、完全には晴れていなかった。
それはまるで、何かが目覚める前の“まどろみ”のように、迷宮全体を静かに包み込んでいる。
淡く漂うそれが、迷宮全体を白く煙らせる。冷たく、静かで、不気味なほどに音がない。
迷宮の別の区画。蓮とミネルは、足元の濡れた石を踏みしめながら奥へと進んでいた。
深く、重たい沈黙が、迷宮の回廊に広がっている。
ミネルはふいに立ち止まり、瞳を細める。
空間の“歪み”を感じ取るように、片手を静かに空へ伸ばした。
「……奇妙だ。魔力の波動が……急に、消えた」
ミネルは顔をしかめる。静かに手を空へ伸ばし、霧を払うように指先を滑らせる。
「まるで、誰かがこの空間そのものを“切り離した”みたい」
「消えた?」
蓮が歩を緩める。
「どういうことだよ、それ」
「さっきまで、この先から強い力が感じられたのに。誰かが、強制的に“場”を閉じた。
魔法……もしくは、魔法以上の力かもしれない」
まさにその瞬間、音もなく霧が割れるように消えた。
まるで誰かが“舞台”の幕を上げたかのように。
視界の奥に、二つの人影が浮かび上がる。
ホクトと美穂が、静かに佇んでいた。
二人とも傷一つない──
けれど、その静けさは、“何かを燃やし尽くした後”のような、不自然な静寂だった。
ホクトは動かず、ただ視線だけでこちらを見る。
「……遅かったな」
低く、短いその声には、感情の揺れがまったくなかった。
それが逆に、違和感を際立たせる。
ミネルの視線が、美穂に向く。
目を細め、その雰囲気の変化を読み取ろうとする。
「この空間は一体なんだ」
だが、美穂はそれに答えず、ただ杖の先を地面にコツンと突く。
音が微かに響き、霧がわずかに揺れた。
「蓮、無事でよかった」
美穂の声は、いつも通り柔らかく、どこか穏やかだった。その中で蓮は、美穂の表情に一瞬の違和感を覚えた。
あの微笑みに──何かを、隠している気配があった。
「こっちはもう、済んだから」
その「済んだ」の意味を問う前に、ミネルが何かを言いかけた。
だが──その瞬間、空間がふっと揺れた。
まるで“帳”が引かれるように。見えない幕が、世界を包むように。
「……ここから先が、本番だ」
ホクトの声に、ミネルが小さく首を傾ける。
「本番とは、戦闘の予兆か?」
「いや……たぶん違う。剣じゃなく、“心”を試される類のものだろう」
ホクトの言葉に、美穂も頷いた。
「また空気が……変。魔力の流れが交差してる感じがする」
蓮は無意識に、拳を握りしめていた。
自分たちがこれまでくぐり抜けてきた戦いとは、明らかに違う何かがここにある。
「……みんな、油断するなよ。たぶん、バラバラにされる」
言葉が終わるより早く、蓮の視界がにじんだ。
最初は気のせいかと思った。
けれど、まぶたの裏に、見覚えのある風景が浮かんでくる。
懐かしいはずの、それでも今は“遠い場所”。
「……っ!」
蓮が思わず眉をひそめた瞬間、彼の視線の先で、美穂がわずかに微笑んだ。
その笑みは、どこか優しくて、懐かしい──けれど、触れたら崩れてしまいそうなほど、脆かった。
「美穂……?」
違和感。それはほんの一瞬の、微細な揺らぎだった。
だが、言葉にするよりも早く、蓮の視界は暗転する。
音が消える。重力も消える。
残されたのは、ただの“無”。
闇の中に、ひとつだけ、確かな存在があった。
誰よりも静かに、誰よりも孤独に、“それ”はそこに立っていた。
ミネル――
心という未知と、向き合おうとする者。




