アーラ山脈
数刻が過ぎ──。
集合時間になり、蓮と美穂はホクトの元に集まった。そこには、ホクトの忠実な右腕であるミネルの姿もあった。
ミネルは静かに立っており、その冷淡な雰囲気が周囲に漂っている。身長は高く、どこか鋭い目つきが、まるで常に何かを計算しているかのようだった。彼女の顔には感情がほとんど読み取れないが、目の奥には冷徹な輝きが宿っている。
蓮はその姿を見た瞬間、どこか背筋が寒くなるのを感じた。初対面ではないはずだが、初めてちゃんと向き合う彼女に、どうしても苦手意識が湧いてくる。あの冷徹な目つきと無表情が、蓮にとってはどうしても不安を引き起こす。
ホクトはその冷ややかな空気にまったく動じることなく、ただミネルに視線を向ける。
「ミネル、こいつらも同行する。色々頼むぞ」
ミネルは軽く頷き、無言で蓮と美穂に目を向ける。その視線に、蓮は少しだけ顔をしかめたが、すぐにそれを隠すようにして背筋を伸ばす。
「さて、今回の任務の目的は、王都イシュタルとネイトエールの間で中立宣言を結ぶことだ。それも、異種族同盟を結んだ上でーー」
ホクトが言葉を続ける。
「異種族を受け入れることで、両国の関係を新たに築き直し、将来の協力を強化する。これは俺たちのためでもあり、今後の戦を防ぐためでもある」
美穂が軽く頷き、
「それで、私たちの出番が来たってことね」と、やや明るい声で言った。
一方、蓮は再びミネルの冷徹な視線を感じて、少し身を引いた。ミネルが何を考えているのか、蓮にはまるでわからない。ただ一つ言えることは、彼女が決して自分の仲間ではないような気がするということだ。
「わかりました」
蓮は、ホクトの言葉に返事をしながらも、心の中で次第に強くなる緊張感を覚えていた。
「イシュタルとネイトエールは、これまで異種族に対してそれぞれ独自の立場を取っていたが、このままでは未来が危うい。周囲の情勢が急速に変わり、異種族間の衝突が避けられない状況になってきた」
ホクトは真剣な顔で続けた。
「だからこそ、両国の間で平和的な同盟を結ぶことで、共存の道を示す必要がある」
ミネルが静かに口を開く。
「そのために私たちが協力し、この同盟の根回しを行うことが求められてくる。イシュタル側とネイトエール側の双方に信頼を築き、最終的な調整を行わなければならない」
美穂が少し驚きながらも質問する。
「でも、なぜそんなに急ぐの?」
ホクトは重々しい口調で答えた。
「最近、異種族間で暴力的な衝突が増えてきている。特に、サタンの影響が広がる中、これ以上の対立を避けるためにも今がチャンスだ。もし失敗すれば、大規模な戦に発展しかねない」
蓮はその言葉を噛み締めながら、心の中で決意を新たにする。異種族共存のための同盟──それは、この世界の未来を大きく左右する大事な一歩だ。
「分かった。私たちもそのためにできることをやる」
美穂がそう答えると、ミネルが再び口を開く。
「それでは、まずはイシュタル王国の協力者と会い、具体的な調整を進める」
ホクトが頷きながら言う。
「イシュタルはここから先に見えるアーラ山脈を超えなければならない。道のりは長いぞ。覚悟して進め」
ホクトの言葉を胸に、蓮は装備を整え、仲間たちと共に歩き出す。
旅の先に何が待つのかは分からない。ただ、それでも進まなければならないという使命感があった。
やがてイシュタルへ向けての旅は、平原や森を越え、徐々に険しさを増す地形へと変わっていった。
日差しは柔らかく風は穏やかだが、空気の匂いには次第に冷たさが混じりはじめている。
遠くに連なるアーラ山脈の峰々は、雲を突き刺すようにそびえ立ち、その存在だけでまるで異世界の門のような圧を放っていた。
「美穂、アーラ山脈を越えたことはある?」
蓮が前方を指差しながら尋ねると、美穂は歩みを止めずに小さく頷き、少し懐かしそうに微笑んだ。
「うん。……デールとグリンダと、昔行ったことがある」
彼女の言う“昔”がどれほど前のことなのかはわからない。だがその横顔には、淡く揺れる記憶と、どこか切なさを帯びた光が滲んでいた。
「蓮、言ってなかったな」
ホクトが不意に口を開いた。
「アーラ山脈はただの山じゃない。古代の魔法で守られた迷宮があの中にある。正確には、“通らされる”んだ」
「……通らされる?」
蓮は眉をひそめ、足を止めて振り返る。ホクトの言葉に戸惑いがにじむ。
ミネルが前を向いたまま、短く言葉を継いだ。
「アーラ山脈は、異種族の共存を象徴する“試練の地”とされている。王都間の往来に使える唯一の道……と言えるけれど、通る者には“協力”の証を求められる。試練を越えられなければ、道は閉ざされる」
「……わざわざそんなややこしい場所、作らなくてもよかったのに」
蓮がぼやくように言うと、美穂が肩をすくめる。
「でも、種族を超えて“試練を越える”って、信頼の証にはなるでしょ」
その言葉に、ホクトが低く笑う。
「ああ、そうだな。ただ──お前と一緒に行くのは、できれば避けたかったが」
ホクトが意味深にそう言い、美穂の方をチラリと見る。視線にはどこか警戒の色が混じっていた。
「こっちのセリフ」
美穂が一言だけ、冷たく言い返す。
そのやり取りに、蓮の中にひとつの確信が芽生えた。
──やはり、この二人は何かあった。
表面上は冷静を装っていても、言葉の端々に感情が混ざっている。初対面では決して出せない距離感が、そこにあった。
「あ、あの……お二人は、やっぱりお知り合い……?」
蓮が恐る恐る問いかけたその瞬間、両側からギロリと射抜くような視線が飛んできた。
「……っな、なんでもありません!」
思わず背筋を正し、蓮はそそくさと歩みを再開する。
(何百年も生きてる二人だもんな……どこかで関わっててもおかしくないけど……これは、絶対に何かある)
気まずい空気を切り裂くように、蓮は視線を前に向けた。
その背後で、ホクトと美穂が小さくため息を吐く音がしたが、蓮はあえて聞こえないふりをする。
その夜は、誰からともなく早めに床につき、無言のまま火が消えていった。
……それから数日、道中は穏やかだったが、どこか皆が互いの距離を測るような、そんな旅路だった。
そしてようやく──一行は、アーラ山脈の麓へとたどり着いた。
目前に現れたのは、岩と氷に覆われた荘厳な山壁。その中心部にぽっかりと口を開けた巨大なアーチ状の入り口があり、まるで山そのものが異世界への門を備えているかのようだった。自然のものとは思えぬほど整った構造で、左右対称の石造りの柱には無数の古代文字が刻まれ、淡く青白い光を放っている。
「これが……迷宮の入り口か」
蓮が言葉を漏らし、見上げるようにその巨大さを目に焼き付ける。
「懐かしい。うん、やっぱりこの空気感。変わってない」
美穂は感慨深そうにそう言って、入り口に視線を向けた。少しだけ目を細めて、息を吸い込む。彼女にとってここは不安を感じる場所ではなかった。むしろ、昔訪れた場所にふと立ち寄ったような、落ち着いた感覚すらある。
「誰かが、今日も“ここを守ってる”感じがする」
その呟きも、どこか他人事のようで、軽やかだった。
ミネルが一歩進み、無言で手をかざして魔力の流れを探る。
「……歪んでいる。最近、この内部の魔力が不安定になっている。空間の歪みが広がっているかもしれない」
「歪み……?」
蓮が反応すると、ミネルが冷静に説明する。
「この迷宮は、空間構造そのものが特殊。道が勝手に変化したり、閉じたり、同じ場所をぐるぐる回るような構造になっている」
「うわ……そういうの、マジで苦手なタイプのダンジョン……」
蓮が顔をしかめると、ホクトが笑った。
「そんなに深刻になるな。どうせすぐ慣れるだろう」
「慣れたくないんですけど……」
そんな会話を交わしながら、一行はゆっくりと迷宮の入り口をくぐっていった。
その瞬間だった。
「……っ!?」
蓮の足元に、淡く光る魔方陣が突如として浮かび上がった。
「動くな!」
ミネルがすぐに声を上げる──が、間に合わない。
バチンッ──!
空気が一気に張り詰め、まるで空間そのものが引き裂かれるような感覚が駆け抜ける。足元の床が崩れ落ちるのではなく、重力の向きが歪み、四人の体が異なる方向へと吸い込まれていく。
「……っ、蓮!!」
美穂の叫びが空間に反響し、誰の耳にも届かない虚空の中へと吸い込まれていった。
その場に残ったのは、静寂と、門をくぐる前とはまるで別の空気。
まるで迷宮そのものが、試練の幕開けを告げるように、すべてを飲み込んでいた。




