静けさの中で
夜の城は、ひんやりとした空気に包まれ、月の光が静かに城の石壁を照らしていた。その冷たさが、夜の静けさを一層際立たせるようだった。蓮はその静けさに身を委ね、城の屋上へと向かって歩いていた。足取りは自然と、まるで誰かに導かれるように進んでいく。
屋上に着くと、すでにタオがその場所に立ち、遠くの星空を見上げていた。夜風が彼の髪を揺らし、その表情はどこか遠くを見つめているようだった。蓮が近づくと、タオは少しだけ振り返り、静かな声で言った。
「明日からお前はイシュタルか」
その言葉には、どこか重みがあった。
蓮はその空気を感じ取りながら、隣に並んで座る。目の前には、静かな夜の城が広がり、街並みはひっそりと眠っているかのようだった。その穏やかな景色が、二人の会話を一層静かにした。
「うん」
蓮は軽く頷き、タオを見ながら問いかける。
「タオ、なんか知ってるの?」
タオは少し黙り込んだが、やがて再び星を見つめながら答えた。
「シェリーの故郷だ」
その言葉に、蓮は思わず目を細めた。イシュタルという場所が、ただの目的地ではないことを、何か直感的に感じ取ったのだ。
「シェリーは……自分の故郷がイシュタルだということも忘れちまってる。ホクトがあいつをイシュタルから遠ざけようとしているのを見て、確信したよ。きっと、イシュタルには何かある」
タオは少し言葉を躊躇ったようだったが、それでも続けた。
「……それがどんなに苦しくても、お前は彼女を受け入れられるか?」
蓮はその言葉に、胸の奥で何かが引っかかるのを感じながらも、しっかりと気持ちを堪え、静かに言った。
「マアト村に向かう途中、話の続きだったね。タオ、俺は……スミレのことが好きなんだ。どんな彼女でも受け入れたいし、知りたいと思ってる」
その真っ直ぐな眼差しで、蓮は確信を込めて言った。タオはその眼差しを受け止めるように、頷いた。
「中途半端な気持ちなら許さない。彼女を傷つけたら、俺がお前を殴ってやる」
タオのその一言に、蓮は少しだけ驚き、思わず笑いそうになるが、その背後にある真剣さを感じ、顔を引き締めた。
「確認しておきたいんだけど……タオはスミレのことをどう思ってるの?」
その問いを投げかけると、タオは一瞬黙って考え込む。その表情に、蓮はただの気遣いではなく、深い思いが込められていることを感じ取った。
「シェリーは、あいつは不器用だけど……本当に優しいやつだ。俺はあいつに何度も救われてきたし、まあ、なんていうか——家族みたいなもんだよ。だから、蓮。あいつを頼むよ」
その言葉は、まるでタオ自身がスミレに対して強い責任感を持っているかのように響いた。蓮はそれをしっかりと受け止め、胸に刻み込んだ。
タオが続けて言った。
「俺はリリスのそばにいてやらなきゃならない。あいつは今きっと、大事な双子を改めて亡くしてつらい思いをしてると思うからな」
その言葉を聞いた蓮は、タオの心情を静かに理解しようとした。リリス、タオ、そしてスミレ。彼らの関係には、蓮には知らないような深い絆があるのだろう。
「タオ。明日から任務がバラバラになるけど、また一緒に話したい」
蓮がそう言うと、タオは少し黙ってから、軽く肩をすくめて言った。
「そうだな……話してやってもいい」
その言葉には、彼の中に秘めた強い決意が感じられた。蓮はその言葉を胸に刻みながら、夜の風を感じていた。
二人は、しばらくの間言葉を交わさず、ただ星を見上げていた。
***
城の朝は、いつもより少しだけ静かだった。
戦いを終えた安堵と、次なる任務を前にした緊張。その狭間で、蓮たちはそれぞれに、ひとときの穏やかな時間を過ごしていた。
中庭では、美穂が魔法で花を咲かせて子供たちに囲まれていた。笑い声が響く中、蓮は少し離れた木陰に腰を下ろし、それをぼんやりと眺めていた。
すると、そっと誰かが隣に座る。
「何を見てるの?」
スミレだった。風に揺れる髪が、どこか懐かしい香りを運んでくる。蓮は一瞬、息を呑んだが、すぐにいつものように笑って答える。
「いや、意外にも美穂が子どもに人気だからさ。ちょっと羨ましくなって」
「ふふ。確かに、意外かも」
そう言ってスミレは、どこか優しい表情を見せた。普段の彼女とは違う、その柔らかさに、蓮の胸がわずかにざわめいた。
「……ああいう時間、悪くないと思う?」
ふと、スミレが呟いた。目を細めて、美穂と子どもたちの方を見る。
その横顔には、どこか遠くを見ているような、ほんの少しの寂しさが宿っていた。
「ん、まぁ。悪くないな」
蓮はそう返すだけで、深くは聞かなかった。
「そう……それなら良かったわね。美穂ちゃんがついてれば、蓮も安心ね」
スミレはそう言うとやがて立ち上がり、軽くほこりを払う。
「じゃあ、私は少し散歩してくるわ。……イシュタル、気をつけて行ってらっしゃい」
蓮は少し名残惜しさを感じながらも、スミレに礼を伝える。
「うん、ありがとう」
蓮がそう声をかけると、スミレはひらりと手を振って、歩き出す。
その後ろ姿を、蓮はしばらく見送っていた。
そのとき、少し離れた場所で、美穂がふと視線をこちらに向けた。
子どもたちに笑顔を向けながらも、その目はどこか遠く、蓮とスミレのやりとりを見つめていた。
風が少しだけ冷たく吹いて、美穂は広場の端で、ふと足を止めた。
その視線は遠くの空に向けられていて、どこか物思いにふけっているようだった。周囲の賑やかな声が響いている中でも、彼女の姿は少しだけ別の世界にいるかのように感じられた。
蓮は、彼女が何を考えているのか、すぐにはわからなかったが、軽く声をかける。
「どうした? なんか考え込んでるみたいだな」
美穂は軽く肩をすくめると、ちょっとした笑みを浮かべて答えた。
「ううん。こういう時間も悪くないかもって」
周囲の騒がしさが、どこか心地よく感じるのか、美穂は一瞬、落ち着いた表情であたりを見回した。子どもたちのはしゃぐ声が遠くから届き、賑やかな空気の中に、どこか余韻のようなものが漂っていた。
沈黙の後、突然、美穂が顔を上げて、冗談めかして尋ねてきた。
「ねえ、蓮って……好きな人、いるの?」
その問いに、蓮はちょっと驚いたように目を見開く。そんな恋バナが美穂の口から出てくるとは思ってもいなかったのだ。
しかし、すぐに笑って誤魔化す。
「いや、そういうのは……」
美穂は小さく笑い、蓮の反応を見て、少しだけ考え込むような表情を見せた。
そして、何も言わずにぽつりと続ける。
「ふーん、じゃあ、チャンスあるかもね」
その言葉に、蓮はほんの一瞬、動揺を見せた。
けれど、すぐにその目線を遠くの風景に向けて、静かに息を吐いた。
美穂は、それを気にすることなく、少しだけ照れたように笑って、そっとその場を去っていく。
蓮は、彼女が去った後、少しだけ足元を見つめて静かに思いを巡らせる。
その目には、少しの戸惑いと、そして心の奥底にわずかな期待が混ざっているようにも見えた。
──ただの冗談だと、彼はそう思おうとしたが、どこかでその言葉が耳に残っている。
遠くで、スミレがふと振り返った気配に気づくと、蓮はわずかにその目を細め、無意識にその方向へ視線を送った。
蓮と美穂のやり取りを遠くから見守っていたリリスは、少しだけ眉をひそめてから、ふとスミレに話しかける。
「美穂ちゃん、蓮のこと気になってるよね?」
スミレはその言葉にすぐには反応せず、少しだけ間を空けた。
顔に浮かべていた無関心そうな表情は、まるで何もなかったかのように淡々としている。
「あら? そうなの?」
スミレは特に驚くでもなく、むしろ淡白な様子で返した。
「確かに、蓮はいい子だもの。美穂ちゃんが好きになるのも分かるわ」
その声の中には、軽い興味さえも感じられない。
リリスは、スミレの様子をじっと観察しながら、少し考えた後、にっこりと微笑んだ。
「シェリーは、誰か気になる人いないの?」
その問いかけに、スミレはまたしばらく黙った。
考え込んでいるようにも見えるが、リリスの顔にはどこか楽しげな色が浮かんでいた。
スミレは少しだけ視線を下げ、無理に思考を整理するように言葉を紡ぐ。
「……そんなの、考えたことないわ」
けれど、その言葉の裏にはわずかな揺らぎがあった。
一瞬だけ、スミレの瞳が揺れたような気がする。それは、ほんの一瞬だったが、リリスはその変化に敏感に気づいた。
「ほんとに?」
リリスは軽く笑いながら、少しだけからかうような調子で続ける。
「シェリーも、意外と恋愛に鈍感ってわけじゃないんだね」
その言葉に、スミレは一瞬だけ顔を赤らめそうになり、そしてすぐにツンとそっぽを向いた。
その仕草には、どこか照れ隠しが見え隠れしている。
「うるさいわね。そんなこと、気にしてないわよ」
スミレの声はいつも通り冷たいが、内心では少しだけ動揺している様子がうかがえる。
リリスはその反応を見て、楽しげに鼻を鳴らす。
「ふふ、まぁ、気にしなくてもいいけどさ。スミレも、もうちょっと考えた方がいいかもよ?」
スミレはさらに顔をそむけ、リリスに背を向けるようにして、どこかへ歩き出す。
「そうね、考えないわけじゃないけど。……これ以上、話さないで」
その言葉には少しだけ意味深な響きがあった。
リリスは、それをあえて追わずに、スミレの背中を見送った。
中庭にはしばしの静寂が落ち、吹き抜ける風が花壇の花を揺らす。
やがて、誰の足音でもない気配が遠ざかるようにして、その場に残された空気もゆっくりと動き始めた。




