新たな旅路
店を出た途端、夜の空気が肌を撫でた。昼間の熱気はとうに去り、今はしんと静まり返った街並みが広がっている。夜の街は、日中の喧騒を忘れさせるかのように、ひっそりとした落ち着きを取り戻していた。
石畳の道は月明かりを受けてほのかに白く光り、街灯がところどころで揺れる影を落としていた。その明かりが、まるで夜の訪れを祝うかのようにゆらゆらと揺れ、薄暗い通りに温かみを与えている。店の灯りが背後で消えると、音のない夜が三人を包み込んだ。静けさの中に、どこか緊張が漂っていた。
しばらく誰も口を開かなかったが、スミレがふと顔を上げて言った。
「もう遅いし、捜索は明日からの方がいいわね」
その声は、夜の静けさに溶けるように優しく響いた。彼女の目はどこか遠くを見つめるようにしていたが、その表情に隠された決意が感じられた。
明日からの捜索に対する不安と期待が入り混じり、彼女自身も少し緊張しているのだろう。それでも、その言葉には何か安心感があり、蓮も少し心が軽くなった気がした。
「そうだね。明日は朝から探しに行こう」
蓮も頷きながら答える。胸の奥にひっかかる記憶の欠片はあったが、今は無理に探してもどうにもならない。焦りを押し込めるように、彼は足元の影を見つめた。夜の闇に足音が消えていく中、少しだけ不安が胸の奥に息づいていた。
「それに向けて少し準備をしておきたいことがあるの」
スミレは、ふと足を止めると、手のひらを軽く広げた。夜空の下で、その動きは一瞬にして周囲の静けさを引き寄せるようだった。すると、空の彼方から一羽の小さな鳥が羽音を立てて降りてきた。その羽音は、静かな夜の空気の中でも、まるで約束されたように響いている。その音の一つ一つが、スミレの心の中で何かを確かめるように感じられた。
「いらっしゃい」
スミレは鳥が自分の手に舞い降りるのを待つ。風に揺れる鳥の羽根が、月明かりを受けてきらきらと輝く。あたりの空気が少しだけ冷たく感じられるが、その鳥は温かな存在感を持っているようだった。
スミレは軽く目を閉じ、心を落ち着けた後、鳥がそのまま手のひらにくちばしを寄せ、ひときわ小さなさえずりを発した。
「マアト村にいるタオまで──お願いね」
スミレは静かに口を閉じ、鳥たちを見つめる。その眼差しは真剣そのもので、今後の捜索に対する緊張感を感じさせた。何かを頼むような、そして決して失敗できないという覚悟がその表情に浮かび上がっていた。
スミレの意志は強い。それが、あたりに伝わるように鳥たちが瞬時に反応する。
スミレはゆっくりと鳥を放す。彼女の手のひらから離れると、鳥たちは音もなく空に舞い上がり、夜空に消えていった。その羽音が、ほんの少しだけ耳に残る。夜の中で鳥が去った後の空は、何とも言えない静寂に包まれている。
スミレはその場にしばらく立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと振り返り、二人に向けて微笑んだ。その笑顔には、どこか力強さと安心感が込められていた。
「これで、タオもすぐに来てくれるわ」
蓮も美穂も、スミレの動きに感心しながらも、どこか安心した表情を浮かべる。
スミレの冷静さと確かな判断力に、二人は少しだけ自分たちの不安が軽くなったように感じていた。
「これで準備は整ったのね」
「うん。後は、タオを待つだけだね」
二人は自然と歩き始め、スミレもその後ろに続いた。夜の冷気が、三人の周りを包み込みながらも、空には高く、伝令鳥が飛んでいったことを感じさせていた。その静かな空気が、彼らの心の中に一つの流れを生んでいた。
と、その時。
スミレが少しだけ足を止め、美穂の方へ体を向けた。
「それで──どう? 美穂ちゃん、私の部屋で泊まる気にはなった?」
突然の問いかけに、美穂は思わず立ち止まり、目を丸くする。
「えっ……な、なによ急に」
「ふふ、だってさっきまでは悩んでたでしょ? ひとりで別室に泊まるのも不安なんじゃないかなって」
スミレはからかうように笑っているが、その目はどこか優しかった。美穂が感じていた不安を、無理なく和らげるような言葉だった。
美穂はほんの一瞬だけ口を引き結んだが、やがてプイッとそっぽを向いて言った。
「……泊まってあげてもいいけど」
「そう? それなら決まりねっ!」
スミレが嬉しそうに微笑むと、美穂は渋い顔をしながらも、どこか照れたような目をしていた。二人のやりとりに、蓮は心の奥でほんの少しだけ温かさを感じた。苦しい情報を聞いたばかりのはずなのに、この空気がどこか心を軽くしてくれる。
ゆるやかな坂道を上りながら、三人は城へと向かう。足音だけが石畳に響き、月が高く彼らを見守っていた。どこか、未来に向かって踏み出す一歩を感じさせる静かな夜道だった。
城の塔が遠くに見え始めた頃、スミレがふと蓮の方を見上げて言う。
「ねえ、蓮。無理しないでね。今は、ちゃんと休んで、明日また……ね」
「うん。ありがとう、スミレ」
その言葉に、スミレはほんのわずか微笑み、また前を向いた。彼女の笑顔には、心の奥底からの優しさが隠されていた。
やがて城門が近づく。厳かな石のアーチが三人を迎えるように静かに立っていた。中庭へ入ると、夜の冷気に混じって、花の香りが微かに鼻をかすめた。どこか、懐かしい香りだった。
その夜、三人は静かに眠りについた。疲れた体は柔らかな寝具に沈み、心の奥で揺れていた不安も、ひとときの夢に溶けていく。城の外では、月がゆっくりと傾き、やがて東の空がわずかに白み始めた。
眠ったはずの記憶は、夜の闇に沈んだまま戻ってこなかった。それでも朝は、確かにやってくる。
──そして、朝が来た。
朝の光が城の大窓から差し込み、静かな明るさが広がっていた。優しい光が、古びた壁を照らし、隅々まで届く。その光が、夢から現実へと引き戻すように感じられる。中庭の噴水から流れる水音が、穏やかなリズムで響き、空気を清々しく整えている。小鳥のさえずりが風に乗って、窓を越えて部屋の中まで運ばれてくる。
すべてが、いつもの一日の始まりを告げていた。騎士たちの訓練の掛け声、厨房から漂う香ばしい匂い──そのどれもが、心地よく響く日常の音。
蓮はホールの片隅で軽く背伸びをしながら、まだぼんやりとした頭で辺りを見回していた。昨夜は遅かったはずなのに、思いのほかすっきりと目覚めた自分に、少し驚いていた。
おそらく、それは心のどこかで、これから起きることに対する決意が固まっていたからだろう。昨夜の重苦しい沈黙が、少しずつ晴れ、確かに進むべき道が見えてきた気がしていた。
しばらくすると、階段の方から軽やかな足音が聞こえた。それは急ぎすぎることなく、けれど確実に前へと進む足取り。
蓮はその足音を聞くたびに、少しだけ胸の中が温かくなる。
「おはよう、蓮!」
声の主はスミレだった。その後ろには、まだ少し眠たそうな目をこすりながら、美穂が続いている。スミレは明るく、元気そうな声を上げるが、その目はどこか真剣だった。美穂も、眠気を隠しきれずに顔をしかめながら歩いてくる。
「おはよう、スミレ、美穂」
蓮は微笑みながら迎えた。美穂が小さくあくびを噛み殺しつつ言った。
「……朝は、苦手」
「ふふ、美穂ちゃんってば意外よね。これから大事な捜索が始まるんだから頑張らないと!」
その言葉には、どこか張り詰めた緊張感が漂っていたが、それでもスミレの口調には、柔らかな安心感も宿っているようだった。美穂がその口調に少し不満げな顔を見せつつも、なぜか文句は言わなかった。
……昨日までは、少しぎこちなかった二人。
けれど、今朝のやりとりには、どこか「慣れ」があった。蓮はそれに気づき、少しだけ肩の力が抜けるのを感じる。心のどこかで、三人が歩んできた時間が確かに深まったのだと感じていた。
「二人とも、よく眠れた?」
そう尋ねると、美穂は頬をふくらませながら答えた。
「スミレの部屋、ちょっと寒かった」
「あら、ほんと? 毛布ちゃんとかけたでしょ?」
「スミレが寝相で全部取ったんでしょ」
「いやねっ、そんなことしてないわよ!」
二人の軽やかなやり取りに、蓮は思わず笑みがこぼれた。重たい夜のあとに訪れた、ほんの一瞬の安らぎ。言葉少なに交わされるその笑顔が、心の奥に染み込むようだった。
蓮はその空気が、どれほど自分の心を救ってくれているか、誰よりも知っていた。
「さあ、今日が始まる」その一歩が、蓮を新たな世界へと導く。
ティナとリリスのもとへ向かう、その一歩が。
出発の準備は、思ったよりも早く整った。携行食と水筒、そして最低限の道具を詰めた鞄を肩にかけ、蓮たちは正門の前に集まった。朝の陽射しが石畳を照らし、城の白壁に淡い影を落としている。太陽の光が、彼らの新しい一日を包み込んでいた。
騎士団の門番が敬礼で見送る中、スミレが振り返らずに歩き出す。その後ろには美穂が続く。蓮も、一度だけ城を見上げてから、仲間たちの背を追った。その背中には、確かな覚悟と決意が見えた。
旅の始まりは、しんとした静けさに包まれていた。言葉を交わすことは少なかったが、それぞれの胸には「探すべき相手」がいるという思いが重くのしかかり、その思いが無言の誓いとなって足取りを支えていた。
舗装された街道を抜け、森の縁を通る道をしばらく進んだ。その途中、ふと風が変わった。乾いた土の匂いに混じって、懐かしいような気配が鼻先をかすめた。蓮が立ち止まろうとした、その時──
「……おい、そっちの三人。まさか──」
不意にかけられた低い声に、三人は一斉に視線を向ける。道の先、木陰の中からゆっくりと姿を現したのは、一人の男だった。
銀灰色の髪に鋭い金の瞳。腰には長身の剣を携え、風になびく外套の裾が狼の尾のように揺れている。男──タオは、驚いたように目を見開き、目の前に立つ仲間たちを見つめた。
「……蓮、スミレ……まさか本当に来ていたのか……!」
「タオ!」
スミレの声が弾けるように響き、彼女は駆け出していた。タオも、その勢いに少し驚きながらもしっかりとスミレを受け止める。その光景が、どこかほっとするような感覚を呼び起こす。
「おいおい、嘘みたいだな……」
美穂が半歩遅れて歩み寄る。彼女の目にも、信じられないという光が浮かんでいた。
「……あなたがタオね。 初めまして、美穂よ」
「美穂──ああ、蓮が連れてきた協力者か。よろしくな」
蓮は、一歩前に出て深く息をついた。胸の奥に溜まっていた不安が少しだけ解けていくような気がした。
「よかった。ほんとに、無事でいてくれて」
タオは、蓮をじっと見つめ、ふっと目を細めた。
「お前、ちょっと顔つき変わったな……騎士団に入って、やっと鍛えられたってわけか」
「……少しは、ね」
短く笑い合う四人。その空気に、いつしか周囲の森が静かに耳を傾けていた。風が、木々を揺らし、何か大切なものを運んでいるような気がした。
「じゃあ……行くか」
タオの声に、三人は頷いた。彼らの目的地は、かつてタオ・リリス・ティナが共に育った場所──マアト村のさらに奥、墜落の王宮だ。
かつての時間が、ゆっくりと再び動き始める気配があった。




