情報屋ウィル
月明かりが静かに城下町の街並みを照らしていた。三人は、情報屋ウィルの行方を追いながら、人通りの絶えた道を歩いていた。町の片隅で耳にした一つの噂──「ウィルは、月明かりの下に隠れている」その言葉だけを頼りに、彼らの足は自然と夜の静寂へと吸い込まれていく。
「こっちよ」
小さく言った美穂の声は、どこか確信めいていた。導かれるように、彼女は細い路地へと足を進める。蓮とスミレには目的地の見当すらつかない。ただ、月の光がまるで道標のように、美穂の行く先を照らしていた。
住宅地の隙間をぬって歩く彼女の姿は、時折月光の下に浮かび上がる。白い光が肩に、髪に、そっと降り注ぐたびに、不思議と彼女の輪郭がはっきりするように見えた。まるで月が、彼女だけに語りかけているかのようだった。
やがて、ふと立ち止まった美穂の前に、一つの扉が現れる。その扉は、まるで今この瞬間まで世界から隠されていたかのように、月の光を受けてゆっくりとその姿をあらわした。
月光はその扉だけを強く照らし出していた。周囲の建物には光が届かず、闇に沈んでいる。そこだけが、異質なほどに浮かび上がっていた。
「……ここよ」
小さくつぶやいた美穂の声は、確信というよりも、思い出すような響きだった。蓮とスミレが後ろで見守る中、美穂はゆっくりと扉へと近づき、試すように手をかけた。
しかし、扉はびくともしない。押しても、引いても、無言のまま閉ざされている。
静かな沈黙が流れる。美穂は一歩下がり、目を閉じた。そして、小さく、祈るように唇を動かす。
「……月光の鍵」
その言葉が夜に溶けた刹那、扉を照らす月明かりがふいに強くなった。銀の光が静かに脈打ち、扉の表面が淡く輝く。そして、軋む音をたてて、扉がゆっくりと開かれた。
「これがウィルの隠れ家、なのか……?」
蓮が驚いたように息を呑む。
その先には、まるで違う世界が広がっていた。小さなバーのような空間が広がっており、カウンター席だけが並んでいる。周囲の壁には薄暗いランプの光がほのかに灯り、どこか不気味でもあった。店の中には、見慣れない蒸気の匂いや、独特の香りが漂っている。空気が少しひんやりしており、外の温かさとは対照的な冷たい空間が広がっていた。
美穂が一歩踏み込むと、蓮とスミレも続いて足を踏み入れた。三人は辺りを見回し、静かな雰囲気に包まれながらも、何かが待ち受けている気配を感じ取っていた。
「すごい……」
蓮は思わずそう口にした。
その瞬間、カウンターの向こうから、まるでそこに最初からいたかのように、ひとりの存在が静かに現れた。その人物──いや、存在は、人間の形をしていなかった。
彼の姿はまるでフクロウのようで、その大きな目は真っ黒で、鋭い視線を放っている。その羽根のように広がった衣装、そしてその冷徹な雰囲気は、まさに「影」のように感じられた。彼の目に触れた瞬間、三人は自然に背筋が伸びるような感覚を覚える。彼の存在そのものが、まるで静かな緊張感を引き寄せていた。そしてその男を見て、心のどこかで確信する。間違いない、彼がウィルだ。
ウィルは、ゆっくりと三人に視線を向けた。
「いらっしゃい」
その言葉は、驚くほど淡々と、しかしどこか鋭く響いた。まるで歓迎の言葉とは思えないほど、冷徹で感情のない一言が、空間に鋭く響き渡る。
ウィルは、何も動かず、ただ静かにカウンター越しに三人を見つめていた。どこか冷徹で、無駄な言葉を一切使わないその姿勢に、三人は自然と息を呑む。
「飲み物は?」
彼の次の言葉も、無駄がなかった。バーテンダーのように、淡々とした調子で、そしてどこか威圧感さえ感じさせるその言葉は、三人の心に少なからず圧力を与えていた。
美穂は少し迷ったように目を細め、他の二人もその問いに対して答えるのに少し躊躇う。それほどまでに、この店とウィルの存在そのものが、異質な圧力を放っていた。
「……おすすめをお願い」
美穂がやっとのことで声を絞り出し、ウィルの目をしっかりと見据えながら答える。
ウィルは一切の反応を示さず、ただ静かにカウンターの奥からボトルを取り出す。その動きは、まるで熟練したバーテンダーのように滑らかで、無駄がなかった。彼の目の中にあるのは、三人が持っている好奇心をも見抜くような冷徹な視線だった。
ウィルは無言でグラスを用意し、軽く一瞥をくれる。
カウンター越しに並べられた三つのグラスの中には、まるでカクテルのような色とりどりの液体が静かに揺れている。複雑な色合いが、薄暗い店内の光に反射して美しく輝いていた。そのカクテルはまるで幻のように、どこか非現実的な雰囲気を醸し出していた。
ウィルが静かに一つ一つを手渡すと、三人は互いに目を合わせ、少し迷うようにグラスを見つめた。どこか警戒心があったのだろう。蓮は一瞬飲むかどうかを悩み、グラスを軽く手に取ってはまた戻した。だが、その思いを打破するように、美穂が静かに一口だけ飲み込んだ。
その瞬間、美穂の目がわずかに見開かれ、彼女は少し驚いたようにグラスをもう一度見つめた。カクテルの味は予想を裏切り、繊細でありながら深みのある味わいが広がった。その香りは甘く、また少しスパイシーで、まるで月光の下でしか味わえないような特別感を感じさせるものだった。
「……美味しい」
美穂は静かに呟くと、もう一口飲んでから、ふと蓮とスミレに目を向けた。
スミレは美穂の行動を見て、少し戸惑いながらも一口だけ飲んでみた。彼女もまた、驚きと共にその味わいに感心したようだった。その甘くも複雑な味わいが、すぐに口の中で広がり、少しだけ心を落ち着ける感覚を与えてくれる。
その後、スミレは一度グラスを軽く回してから、静かにウィルに向かって言った。
「あなたが情報屋ウィルなのね?」
スミレの声は、疑念と好奇心が入り混じった響きを帯びていた。彼女の目はウィルに釘付けになり、言葉とともにその視線が鋭くなった。しかし、ウィルは一瞬も動かず、ただ無言でその問いを受け止めていた。店内の静けさが、まるで彼の存在そのものを反映しているかのようだ。周囲の喧騒や雑音が、どこか遠く感じられる。彼の冷徹な目は、まるで全てを見透かすかのように鋭い。
ウィルの表情にわずかな変化もない。それが逆に彼の人物像を強く印象づけていた。長い沈黙の後、彼はようやくゆっくりと口を開く。
「ああ」
その言葉は、まるで日常的な挨拶のように淡々とした響きを持っていた。しかしその冷徹な口調には、誰もが感じ取れる確固たる自信と、何か隠された真実が潜んでいるような冷たい感触があった。彼の視線は、まるで無数の過去と未来を見据えているかのように、どこか遠くを見つめている。
「何が知りたい?」
その問いは、まるで日々の業務の一環として淡々と発せられたものだった。しかしその響きには、無意識に漂う力強さと、そこから逃れることができないという圧迫感があった。
美穂、蓮、そしてスミレは、彼の目をしっかりと見据えながら、同時にその冷徹な存在感に身構えていた。ウィルがどれほど手強い存在であるかを、肌で感じ取っている。彼の沈黙があまりにも重く、言葉が続くたびにその空気は一層張り詰めていく。
「俺たちの仲間──ティナとリリスの行方が、分からなくなって。どこにいるのか、知りたいんです」
蓮の声は、緊張と不安の入り混じったもので、少し震えていた。それでもその言葉は真剣そのものであり、ウィルに対する信頼と期待が込められていた。しかし、空気はその言葉を呑み込み、再び深い沈黙が支配した。時間がゆっくりと、まるで凝固するかのように流れ始めた。
ウィルは、冷静に蓮の方へと目を向けた。少しの間、黙ったまま相手を見つめ、その後に静かに口を開く。
「いいだろう。ただし、条件がある」
その声音は一切の迷いを感じさせなかった。まるで最初から決まっていたかのように、彼は続けた。
「代償は君の記憶の一部だ。君の過去にも関わる、ティナとリリスの重要な記憶を引き渡すんだ。そうすれば、ティナとリリスの場所を教えよう」
蓮はその言葉に衝撃を受けたかのように、体が一瞬硬直した。記憶を渡す? 一体ウィルは何を言っているのか、理解できない思考が渦巻く。彼の内心は動揺で満ちていたが、表情にはそれを見せまいとする強さが浮かんでいる。
「ウィルさん、待ってください。記憶なら私のものを」
スミレが思わず口を挟んだが、ウィルは冷たく首を横に振った。
「残念だが、君の記憶じゃ意味が無い。最後にティナとリリスと過ごした者の、新鮮な記憶が必要だ」
ウィルは言い終わると、再び蓮の方をじっと見つめる。その目は、何も言わずともすべてを理解させるような冷徹な光を帯びていた。
「分かりました。俺の記憶の一部を、ウィルさんに渡します」
その瞬間、スミレは目を見開いた。呼吸を止めたまま、驚きと困惑が入り混じる表情で蓮を見つめる。店内の温かい灯りの下で、その顔が一層青ざめて見えた。
蓮は、そんな彼女を安心させるように、わずかに口角を上げる。
「大丈夫、ティナのこともリリスのことも、そう簡単には忘れないよ。万が一忘れていたら、その時はスミレがすぐに思い出させてくれ」
スミレは唇を強く噛みしめた。視線を落とし、拳をぎゅっと握る。その沈黙の中には、蓮の決断に対する苦悩と、彼を止められないもどかしさが滲んでいた。
美穂は、何も言えなかった。言葉を探すことさえ無意味に思えた。ただ、目の前で交わされる二人のやり取りを、重い気持ちで見守るしかなかった。
「では始めよう」
ウィルの冷徹な声が響いた。
彼が両手を広げると、空気が一変する。まるで部屋全体がゆっくりと沈んでいくかのように、温かな光が薄れ、冷えた闇が忍び寄る。喧騒が遠のき、外の風の音さえ聞こえなくなった。
「手を上に捧げろ」
蓮はゆっくりと目を閉じた。深く息を吸い込むと、鼻から入る空気が妙に冷たく感じられる。心臓が早鐘のように打ち、指先がかすかに震えた。
それでも、迷うわけにはいかない。
「ティナとリリスを見つけるためなら……」
決意を胸に、彼は静かに両手を前に差し出した。
すると、次の瞬間──。
蓮の内側から、何かが引き剥がされる感覚が走る。
脳の奥深くに爪を立てられ、無理やり何かを抜き取られるような鋭い痛み。まるで心臓を直接握られたような、冷たい衝撃が背筋を駆け上がる。
(これは……!)
蓮の頭の中に、ティナとリリスの面影が浮かぶ。
──手を伸ばす仕草。
──何気ない会話。
──寄り添う温もり。
しかし、それらはまるで砂のように指の間から零れ落ちていく。
「くっ……!」
蓮の指先から、淡い光の粒子が流れ出す。それはかすかに揺れながら宙を漂い、やがてウィルの手のひらへと吸い込まれていった。
記憶の流れが止まると、蓮は息を呑んだ。
──確かに記憶は残っている。だが、何かが欠けている。
ティナとリリスのことは分かる。彼女たちの存在を忘れたわけではない。だが、その笑顔が、声が、手を握った感触が、なぜか思い出せない。頭の中にあったはずの映像がぼやけ、輪郭を失っている。
まるで、穴の空いたガラス細工のようだった。
ウィルは目を開け、蓮をじっと見つめる。
「君の記憶をもらった。約束通り、ティナとリリスの居場所を教えよう」
彼の手のひらに宿った光は、徐々に彼の体へと吸収されていく。
すると、微かに羽音のような響きが漂い、ウィルの瞳が闇の色へと変化した。彼はそのまましばらく静止し、何かを視ているかのように動かない。
やがて、口を開いた。
「……彼女たちは、強い結界の中にいる。ここから北西、墜落の王宮だ」
その名を聞いた瞬間、スミレが息をのむ。
「墜落の王宮……?」
ウィルは僅かに眉をひそめ、遠くを見つめるような表情を浮かべた。
「ああ……そこはかつて神聖な城だった。しかし、サタンが生まれた時に墜落し、今では穢れた王宮となっている」
彼はさらに耳を澄ませるようにして、何かを探る。
「……それだけじゃない。時間が経つにつれ、そこにある魔力が増している。二つの魔力が、一つに混ざり合うように……」
ウィルの声は次第に遠のくようだったが、突然、彼の体がわずかに揺れた。まるで現実世界に引き戻されたかのように、彼はゆっくりと蓮に視線を戻した。
「さて、どうするかは君たちの自由だ」
「分かりました」
蓮は静かに答えた。
美穂とスミレは、その様子を見守っていた。二人の表情には、言葉にできないほどの複雑な思いが込められている。しかし同時に、蓮の決意を感じ取っていた。
スミレは、まるで蓮の背中を支えるように、真っ直ぐに彼を見つめる。
「蓮、記憶は……?」
蓮は一瞬、沈黙した。
そして──。
「大丈夫、ちゃんと残ってる」
柔らかく微笑む。
確かに、ティナとリリスのことは覚えている。彼女たちを探さなければならないという意識もある。
それでも、出てこないのだ。
彼女たちの顔が、まるで霧の向こうにあるようにぼやけている。輪郭をなぞろうとするたび、それは指の隙間から零れ落ちていく。
なのに、彼は彼女たちを知っている。
知っているはずなのに——
──なのに、彼女たちの顔が、思い出せない。
しかし、それを口にするわけにはいかなかった。スミレと美穂を不安にさせるだけだ。
だから蓮は、何事もなかったかのように言う。
「行こう」
小さく息をつく。
「ティナとリリスを探しに」
そうして、三人は静かに店を後にした。




