再会 後編
そんなやり取りをしていた時だった。階段近くに差し掛かると、蓮は不意に聞き覚えのある声を耳にした。
「──蓮?」
その声は、瞬時に彼の心を掴んだ。何も見えなくても、何も聞こえなくても、その声だけでわかる。
どれほど彼女に会いたかったか。
蓮の胸が一瞬で高鳴り、鼓動が早くなった。瞬間的に足を止め、振り向かなくてもすぐに答えがわかる。それがスミレだと。
「スミレっ!」
蓮の声は、無意識に力強く、そして心からの喜びに満ちていた。
どれほど長い間、心の奥底で彼女を待ち続けていたのだろうか。
蓮の視界に、白くてふわりとした髪、青い瞳をキラキラ輝かせたスミレが映る──彼女がそこに立っている、それだけで周囲の空気が変わったように感じる。まるで世界が一瞬で色づき、温かな光に包まれたような気がした。
蓮の胸が再び高鳴り、彼の心が溢れそうになる。その瞬間、何もかもがスミレに集中しているようで、他の何もが見えなくなった。
心の中の感情が爆発しそうなほどに強く、蓮は衝動的に階段を駆け下りた。その速さに、自分でも驚いた。スミレも同じように駆け上がり、二人の距離が一瞬で縮まる。まるで時間が止まったかのように、全てがその瞬間に凝縮された。
そして、ついに二人は対面し、スミレは一瞬の躊躇もなく蓮に飛び込んできた。
その衝撃的な抱擁に、蓮は息を呑んだ。
スミレの温もりが、彼の全身を包み込む。胸に感じるその熱さ、柔らかな体温が、何よりも安堵をもたらす。まるで長い間渇ききった心に、温かな水が注がれたようだった。
「蓮、よかった。なかなか帰ってこないから、すごく心配したのよ」
その言葉に、蓮は言葉を返すこともできず、ただ目を閉じて深く息を吸った。スミレの香り、彼女の体温、すべてが今、蓮の世界に溶け込んでいるような感覚がした。彼女の腕がしっかりと自分を包み込んでいるのを感じ、その中で時間がゆっくりと流れていくのを感じた。
「スミレ……」
蓮は小さく呟くように言った。その声に、言葉にできない感情がこもっていた。彼がどれほど彼女を必要としていたか、どれほど想っていたかが、今、全てその一言に凝縮されている。
スミレは少しだけ顔を上げ、蓮の顔を見つめた。その瞳の奥に、優しさと、少しだけ寂しさが混ざったような表情が浮かんでいる。それを見た蓮は、胸が痛むような思いを抱きながらも、彼女をしっかりと抱きしめ返した。お互いの温もりが、言葉以上に全てを伝えているようだった。
周りの音や風景、何もかもが遠く感じられるほど、二人の世界はただ、スミレと蓮だけのものになっていた。
「ずっと会いたかった。心配かけてごめん」
その言葉を蓮は心の底から絞り出すように言った。
スミレは少しの間、何も言わずに蓮を抱きしめていたが、やがて腕をゆっくりと解く。
「私も会いたかったわ」
スミレは微笑みながらそう言うと、その笑顔に蓮は再び胸を打たれる。彼女の笑顔は、蓮にとって何よりも大きな支えであり、安心感をもたらすものだった。スミレの笑顔が蓮にとって、どれほど特別な存在かを、彼は何度も噛み締めてきた。
「俺、話したいことが沢山あるんだ」
蓮は込み上げてくる思いを抑えるようにして、スミレに告げた。彼女は優しく頷き、穏やかな目で蓮の言葉を受け止める。
「ええ、たくさん聞きたいことがあるわ。蓮、まずはおかえりなさい」
スミレがそう言ったその時、ふと彼女の視線が階段上に向かう。蓮もその視線を追い、階段の上に残されたミホの姿を見つけた。ミホは拗ねたように顔を膨らませ、二人を見つめている。その不機嫌そうな表情を見て、蓮は少し戸惑ったが、すぐにその場の空気を何とかしなければと考える。
スミレは少し心配そうな表情で言った。
「蓮、あの子は誰かしら?」
その言葉に蓮は少し躊躇したが、すぐに表情を和らげて言った。
「ああ、紹介が遅れちゃった。彼女はテルヴァンで出会った魔法使いで──おーい、こっちこっち!」
蓮が声をかけると、ミホは少し頬を膨らませながら階段を降りてきた。その歩き方に、何となくわかる。ミホの心には、スミレへの僅かな嫉妬が潜んでいるのだろう。ミホの視線は、スミレに向けられた一瞬、鋭く感じられた。しかし、スミレはそれに気づくことなく、ただ温かい笑顔をミホに向けた。
「初めまして、私はスミレ=シェリー。あなたのお名前は?」
ミホはじっとスミレのことを観察した後、「雪緒美穂」とだけ答える。
彼女の苗字を聞いたのは蓮も初めてだった。けれど、違和感ないその苗字に思わず納得する。
「そう、美穂ちゃん、よろしくね」
スミレは優しく微笑むと、美穂に握手を求める。
美穂はその手を見ると、分かりやすくそっぽを向いた。まるで反抗期の子どもみたいだ。
「ふふっ、初めてだもの。緊張するわよね」
スミレは軽く笑いながら、美穂に向かって温かい眼差しを向けた。その笑顔に、美穂は少しだけ心が軽くなったような気がするが、依然としてどこか距離を取っているような印象を与えていた。
「美穂はお母さんを探す旅をしてて。暫くは一緒に行動してくれることになったんだ」
蓮がそう言うと、美穂はまた顔を背け、ふんっと舌打ちするようにして言った。
「そうなのね。美穂ちゃんが今晩泊まる宿は?」
スミレは美穂に対して、ほんの少し心配そうに尋ねた。
「いやあ、実はまだで。ホクト様はピリピリしてて、それどころじゃなさそうで」
蓮がそう困ったように言うと、スミレは一瞬考え込み、何かを思いついたように言った。
「美穂ちゃん、泊まる場所が決まっていないなら私の部屋にこない? 女の子同士、話せることもあるでしょう?」
スミレの優しい提案に、美穂は一瞬戸惑いながらも、慌てて口を開く。
「い、やだ」
その言葉には、少しだけ反抗的な響きがあった。
スミレは一瞬驚いたように目を大きく見開いたが、すぐにその表情を柔らかくし、理解を示すように微笑んだ。
「そう、無理にとは言わないわ。でも、いつでも言ってね」
スミレの優しさは、蓮にも美穂にも伝わる。美穂はその微笑みに少しだけ心が動いたが、それでもなお、どこか心の中で何かが引っかかっているようだった。
美穂は視線をそらし、蓮に向かって小さくつぶやくように言った。
「別に、それくらい自分でどうにかする」
その言葉に、蓮は少し心配そうに眉をひそめた。美穂が強がっていることがわかる。彼女の背中を押してやりたいという気持ちはあったが、それが今はうまく言葉にできない。
「でも……」
蓮が言いかけたその時、スミレが軽く手を上げて、話を切り替えるように言った。
「食事は済んだ? まだなら、一緒に行かない?」
その言葉には、穏やかな優しさが込められていて、蓮は一瞬、そのあたたかさに包まれた気がした。
スミレの声は、まるで静かな風のように心に届く。彼女の目は柔らかく、まるで周囲の空気を和らげるかのようだった。その一言で、蓮は肩の力が少し抜けるのを感じた。無理に空気を変えなくても、スミレの存在だけで全てが穏やかに進んでいくのだろうか。
美穂は一瞬、沈黙した。目を伏せ、何か考えている様子だった。心の中で何かに引き寄せられるような、ちょっとした戸惑いを見せている。それを感じ取った蓮は、少し気まずく思いながらも、言葉を続けた。
「いいね、ゆっくり話もしたいし」
彼の言葉には、何気ない提案の裏に、ほんの少しの緊張が隠れていた。美穂とスミレの間に流れる、まだ解けていない空気を感じていたからだ。どうしても、何かしらの違和感をぬぐいきれないままでいた。
「美穂はどう?」
蓮が尋ねると、美穂は少しだけ眉をひそめ、悩んでいるような素振りを見せた。それでも、彼女は静かに頷くと、心の中で何かを決めたようだった。
「それじゃあ、決まりね」
スミレは優しく微笑みながら、彼女の返事を受け入れた。その笑顔は、何もかもを包み込むような温かさがあって、蓮もほっとした気持ちになった。複雑な感情が絡み合っていることを、誰もが感じ取っている。しかし、それでも何かを乗り越えて、一歩ずつ前に進もうとしているのだと、蓮は実感していた。
蓮は再び深呼吸し、軽く肩の力を抜いた。その後ろで、スミレと美穂は何も言わずに歩みを進めていく。三人の間にはまだ隙間があって、それが一層、蓮の胸をぎゅっと締めつけるような不安を呼び起こしていた。それでも、今は何も言わずに歩いていくほうが良いと思った。少しずつ、時間をかけて、心を通わせていけばいい。
ネイトエール城では、食事の時間が決められている。今は、ダイニングルームが閉まっている時間で、食事を取るためには少し工夫が必要だった。蓮は一瞬、どうしたものかと考え、改めて周囲を見渡す。
「どこで食事を取る?」
三人が歩きながら、自然と会話が進んでいく。蓮の問いかけに、スミレは少し考え込むように視線を下げた。
「城下町に酒場があるの。そこなら朝までやっているし、長居ができるかも」
その言葉に、蓮は少し驚いた顔をした。スミレの普段から見せる落ち着いた雰囲気の中には、こうした一面が隠れていたのかと、改めて気づかされた。
「スミレって、お酒飲むの?」
蓮が好奇心を抑えきれずに尋ねると、スミレは小さく笑って答えた。
「意外?」
彼女の笑顔はどこかいたずらっぽく、楽しげな響きがあった。
蓮は思わず笑みをこぼし、彼女の魅力に改めて気づかされる。スミレの年齢については、今まで一度も詳しく尋ねたことがなかったが、彼女の落ち着きと成熟した雰囲気から、どうしても年齢を気にせずにはいられなかった。
「意外……かも。スミレって、今何歳なの?」
蓮は無邪気に尋ねてしまった。すると、スミレは眉をひそめ、少し顔を赤くして言った。
「もうっ、蓮ってば、女性に歳は聞いたらいけないのよ」
その言葉に、蓮は少し驚き、でも嬉しさを感じてしまった。普段見せないような、少し怒った顔のスミレがどこか可愛らしく見え、心の中で小さく笑みをこぼした。彼女の秘密がまたひとつ増えたような気がして、その謎がさらに彼女の魅力を深めているように感じた。
城の入口まで来ると、スミレは静かに門番に向かって歩み寄り、ネイト騎士団のバッジを見せた。門番はそれを一瞥し、何も言わずに道を開けると、静かに通行を許可した。その瞬間、蓮は少し驚いて言った。
「何それ、そんなバッジがあるなんて、知らなかった」
蓮は、自分がまだ騎士団員に入ったばかりで、バッジを持っていないことを改めて思い出した。騎士団に入ったばかりの自分には、こうした細かな情報がまだ足りなかったことに、少し焦りを感じる。
「騎士団としてホクト様が認めてくれると、このバッジをくれるの。持っていると便利よ」
スミレは微笑みながら答えた。彼女のその言葉には、自信と誇りが込められているようだった。さすがは騎士団の一員だと、蓮は感心した。
その時、ずっと黙っていた美穂が口を開いた。
「そのバッジがあれば、どこにでも行ける?」
美穂は少し疑問そうな顔で言った。彼女の視線には、どこか興味と不安が混じっていた。
「どこにでも……は難しいかもしれないわね。だけど、ネイトエールの中だったら、大体のことは解決すると思うわよ」
スミレはその答えに微笑みながらも、少し謙遜するように言った。美穂は興味深げに頷き、その言葉に納得した様子で歩みを進めた。




