ネイトエール城 再び
アスト街道を抜けると、遥か遠くにネイトエール城の雄大な姿が見え始めた。城の塔は、夕日を浴びて金色に輝き、その光が蓮の目に染み込んでいく。空の色はどんどん深くなり、薄紫から紺色へと移ろう。西に傾き始めた陽の光が、ふわりと温かく、少しだけ心地よい風とともに肌に触れていた。
蓮とミホは馬車の中から外の景色を眺めながら、言葉を交わすことなくただ静かにその瞬間を共有していた。外の空気を感じながら、少しずつ自分たちが故郷に近づいていることを実感していた。
蓮はふと胸の奥に浮かぶ懐かしさと同時に、どこか不安な気持ちも感じていた。心配している人たちの顔が思い浮かび、胸が高鳴る。その気持ちを抑えようとするが、どうしてもそのドキドキは収まらない。
「着いたぞー! ネイトエールだー!」
デールの声が空気を切り裂き、蓮は少しだけ驚きながらその声を聞いた。デールの声には、どこか小さな達成感がこもっていて、蓮の心に少しだけ温かさが広がる。
その瞬間、蓮は「久しぶりだな」とぼんやり考えながら、この風景がどこか懐かしく感じられる自分に気づく。
蓮の心の中には、まるで時間が止まったような錯覚が広がっていた。ネイトエールに帰るのは、まるで遠くの夢の中のことのようだ。あの日、タオと共に任務へ出たことが頭をよぎる。きっと誰かに心配をかけてしまったに違いない。
「いよいよだな」と自分に言い聞かせながら、蓮は胸の鼓動が速くなるのを感じつつ、静かに城下町の門をくぐり抜けていった。
走っていた馬車は次第にペースを落とし、ゆっくりと城下町へと入っていった。街の賑やかな雰囲気が感じられ、馬車の車輪が石畳を滑る音が響く。広間に到着すると、他の馬車も数台停まっており、賑やかな街の一部であることが実感できる。デールは少し手綱を引いて、馬車を止めると、大きな声で言った。
「降りていいぞ」
その声に、蓮は少しだけ肩の力を抜いて安心した。ゆっくりと地面に足をつけると、どこか懐かしい地面の感触にほっとする気持ちが湧き上がる。そして後ろを振り向き、ミホの手をそっと取った。
ミホはその手を握ると、まるで躊躇することなく馬車から飛び降りた。
「俺はここから引き返すが、ミホ、お前はどうする?」
デールの言葉に、ミホは一瞬立ち止まり、そして決意を胸に秘めた強い瞳で答えた。
「私は、ママを探す。それに、蓮の力になりたいの」
その言葉には、ただの覚悟ではなく、深い決意が込められていた。ミホの目は揺るぎないほどに真剣で、蓮は思わずその瞳に見入った。どんな困難が待ち受けていても、ミホは一歩踏み出す覚悟を決めているのだ。
「そうか、お前がそう言うなら止めはしない。俺はこれからも国を渡って商売をするつもりだ。また会えたら、その時はまたパートナーになってくれよ」
デールは寂しげに微笑んだ。その笑顔には、長い旅路を共にしてきた友としての絆と、今後の別れに対する小さな寂しさが滲んでいた。だけどその笑顔には、次の冒険への期待も含まれているようだった。
「薬は作り続ける。商売に必要なものがあれば、いつでも言って」
ミホはほんの少しだけ微笑んで、デールに手を差し伸べた。その手は、まるで何か大切なものを預けるように、優しく、けれども力強く差し出された。デールはその手をしっかりと握り返し、しばしの沈黙の後に、力強い言葉を続けた。
「またな、ミホ。それと蓮、随分と大変な状況だろうが、お前なら成し遂げると信じてるぞ」
デールはそう言うと、蓮の頭をポンと軽く叩き、少し照れくさそうに笑った。その笑顔に、蓮は思わず心が温かくなるのを感じた。
デールの言葉には、無言の応援が込められている。そしてその背中が馬車に乗り込むと、今度はゆっくりと、しかし確実に来た道を戻って行った。
「デール、本当にありがとう!」
蓮は何度も手を振りながら、その背中を見送った。馬車が視界から消えるまで、ずっと手を振り続けていた。街の賑やかな音が少し遠く感じる中で、蓮は胸の中にじわじわと広がる感謝の気持ちと共に、前へと進む決意を新たにしていた。
「それじゃあ、行こうか」
蓮は、足元に広がる静かな余韻に浸りながら、ようやく口を開いた。振り返ると、ミホがすぐ近くに立ち、しっかりとした眼差しで蓮を見つめていた。
彼女の目には迷いがなく、どこか決意を感じさせる力強さが宿っている。
その姿を見た蓮は、何とも言えぬ安心感を覚えつつも、改めて彼女が選んだ道の重さを実感する。
「そういえば、ミホはネイトエールに来たことあるの?」
ミホは、蓮の問いかけに何の躊躇もなく首を縦に振り、少し考えるように言葉を紡いだ。
「何度か、デールとグリンダ一緒に、商売をしに来たことがある」
「へえ、そうだったんだ」
その言葉に蓮は軽く驚き、もしかするとどこかで会っていたのかもしれない、という思いが頭をよぎる。
ミホは、自分が思っていたよりもずっとこの場所に馴染みがあるのだと感じながら足を進める。
言葉が途切れると、二人の間にはしばしの沈黙が流れた。決して不快な沈黙ではなかった。ただ、蓮の心の中にあった不安が、無意識に空気を少し重くしていたような気がする。
ミホの表情からはその気持ちを読み取ることができず、けれどそれは不快ではなく、むしろ静かな確信を持っているように見えた。
「でも、本当によかったの? 俺と一緒に来て……」
蓮は、何気なく口を開いた。不安な気持ちを隠しきれずに、彼女に問いかけていた。それは返答を求めるというよりも、自分自身の迷いを吐き出すようなものだった。
だが、ミホは蓮の言葉をじっと受け止め、そして静かに答えた。
「私、蓮の力になれる。傍にいさせてほしい」
その言葉は、優しさと確信を持って蓮の心に深く響いた。ミホの決意は、ただの親切心ではなく、彼女自身が真剣に思っていることだと、蓮には伝わってきた。なぜミホがそこまでしてくれるのか、蓮は未だにその理由を完全には掴みきれない。それでも、彼女が選んだ道には確かな覚悟があり、何より彼女自身がこの道を進むことを選んだのだと感じていた。
「わかった。ミホがいいなら、それでいいんだ。ありがとう」
蓮は、やや照れくさそうに微笑みながら言った。
ミホはその言葉に静かに頷き、何も言わずに歩みを進める。
しばらく城下町を歩きながら、二人は無言のままでいた。辺りが暗くなり、商店の灯りが少しずつ消えていくにつれて、人通りも少なくなってきた。街の静けさが、徐々に二人の間に安心感を与えているようにも感じられた。
蓮はミホを誘いながら、足を少しだけ早めた。
「ミホ、着いたよ。ここがネイトエール城。さあ、中に入ろう」
目の前に巨大な城の門が現れると、その威容に思わず圧倒される。何度も通ったこの道だというのに、今はその重みを全身で感じる。城の中は異常なほど静まり返っており、その無音の空間が蓮の胸に不安を呼び起こす。何かを隠すような気配さえ感じられた。
門の前には、厳つい二人の門番が無言で立っていた。彼らの視線が蓮とミホを捉えるが、目を合わせることはない。門番の冷徹な眼差しに、蓮は少しだけ身が引き締まる感覚を覚える。どうしても、この場で緊張してしまう自分に嫌気が差す。
「ネイト騎士団の蓮です。ただいま戻りました」
蓮がそう告げると、門番の一人が一瞬、疑念を浮かべた。だが、その目の前で揺れる不安が、すぐに消え失せ、無愛想に頷いた。
「入れ」
蓮は礼儀正しくお辞儀をし、ミホの腕を引いて静かに門をくぐった。その瞬間、ミホの肩がわずかに震えたように見えたが、蓮は何も言わずに前へ進んだ。
「う、緊張した」
ミホが小さな声で呟いたその言葉に、蓮は少し驚く。これまでの冷静さを見ていたので、彼女も緊張していたことが意外だった。振り返ると、ミホは顔を赤くして恥ずかしそうに笑っている。
「蓮、顔、怖かった」
ミホの笑いに、蓮も少しだけ肩の力を抜いた。自分でもその時の顔がどれほど無表情だったか、想像できる。
「でも、無事に通れてよかった。先を急ごう」
蓮は、少しだけ早足で城の中に進みながら、改めてこの場所の異様な静けさを感じていた。広大で豪華な城の中を歩くことに、少しの違和感を覚える。ここで過ごした日々が、あまりにも遠く感じる。そして、それと同時に、心のどこかでスミレに会いたいという思いが湧き上がる。
「スミレに会いたい」その思いが胸を締め付けると同時に、目の前にあるべき報告のことも思い出した。すぐにでもホクトの部屋に向かわなければならない。
ホクトの部屋の前に立つと、急に胸が重く感じられた。蓮は無意識のうちに手が震え、心の中で自分を奮い立たせる。ミホがそっと彼の肩に手を置き、静かに励ます。
「大丈夫、蓮には、私がいる」
その言葉に、蓮はどこか温かさを感じながら、深く息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。ミホの存在が、心を穏やかにしてくれる。
「しっかりしなくては」と自分に言い聞かせ、蓮は扉を数回ノックした。
「ホクトさん、ただいま戻りました」
その言葉が響くと、すぐに扉が開かれ、ホクトが現れた。冷徹な眼差しが蓮を捉え、蓮はその視線に圧倒される。まるで今すぐにでも命を奪われそうな冷酷さを感じた。
「ただいま、戻りました」
蓮は声を震わせながら、もう一度言った。ホクトの視線は鋭く、蓮を突き刺すように感じられる。その威圧感に、蓮は胸が苦しくなる。
「遅い。お前が死んだと思って、死亡届を王に渡そうと思っていたところだ」
ホクトは冷たく言い放ち、何かを我慢するように頭を抑えた。彼の言葉には苛立ちがにじみ出ていた。
「突っ立っていないで、早く報告しろ。中に入れ」
蓮は、緊張しながらも素早く返事をして部屋に足を踏み入れた。
「お前もだ、そこの小さいの。一緒に来い」
ホクトの命令に、ミホは少し戸惑いながらも、蓮を見て頷いた。彼女もまた、ホクトの冷徹な言葉に動揺を隠せない様子だが、決して後ろに引くことはなかった。




