交易都市テルヴァン 後編
しばらく沈黙が続いた後、デールがその静けさを破った。彼の声が、少しだけ穏やかに響く。
「蓮、ミホ。人間っていうのは、随分謙虚で臆病な生き物だよな。もっと気楽に行った方がいい。な?」
デールの言葉に、蓮はふと顔を上げた。彼の言葉は、どこか温かくて、少しだけ気持ちを軽くしてくれた。どんなに辛い状況でも、周りには助けてくれる存在があることを思い出させてくれるような言葉だった。
「せっかくの貴重な出会いだ。このまま親睦を深めてほしいところだが──その前に、ひと仕事頼むよミホ」
デールの言葉は、少し気まずさを和らげるようなものだった。
デールの手から渡された袋が、ミホの手に渡る。
ミホは黙ってその袋を受け取った。彼女の手のひらが袋の重みを感じ取り、少しだけ力を入れて受け止める様子を、蓮は無言で見守った。
ミホの表情には、仕事をこなす時の冷静さと、何かを背負い込んでいるような強さが感じられた。彼女はゆっくりと袋を開け、顔よりも大きな烏の死骸を取り出した。
その光景はどこか神聖な儀式を思わせるものがあった。なぜ、烏の死骸がこんなにも重要なものとして扱われているのか、蓮には理解できなかった。
「これで、何をするんですか?」
蓮は、思わずその問いを口にしていた。
ミホがそれをどう使うのか、何を意図しているのか、何も分からなかったからだ。彼の声には、疑問とともに少しの不安が滲んでいた。
ミホは少し黙って、その烏をじっと見つめた。しばらくそのまま動かず、何かを考えるように眉をひそめていた。その後、彼女は小さく息を吐き、冷静に口を開く。
「これは、魔法のために必要なもの」
ミホは、烏の羽を慎重に手に取った。冷たい羽根の感触が、彼女の指先に微かに伝わる。数秒後、彼女は軽く息を吐くと、無言で羽をそのまま手のひらに乗せ、壺の中に入れた。壺の中に羽が沈むと、ミホはさらに静かな動きで別の準備を始めた。
ミホは立ち上がり、部屋の隅に置かれた水の入った大きな瓶を取り上げる。瓶に入っていたのは、穏やかな月光を浴びたかのように輝く《月光の池》の水だった。月の光がその水に映り込み、やわらかな輝きが部屋に広がる。
ミホはその水をゆっくりと、烏の羽が沈んだ壺に注ぎ込んだ。
「これで、魂のエネルギーを引き出す」
ミホは言い、再び黙り込んだ。水は羽を包み込むように静かに泡立ち始め、壺の中でその羽が微かに揺れる。
しばらくして、ミホは次に小さな瓶から《黒曜石の粉末》を取り出した。粉末は黒い粒子が光を受けるたびに微かにきらめき、手のひらにこぼれ落ちると、まるで闇そのものを閉じ込めたかのような冷たさを感じさせた。
ミホはその粉末を壺の中に少しだけ加え、混ぜ合わせた。粉末が水に溶け込み、微かな振動が壺全体に伝わり始める。
「黒曜石は、この魔法に深い力を与える」
と、ミホは小声で言う。その声には、どこか神聖な響きがあった。
次に彼女は、オレンジ色の花びらを一枚ずつ慎重に摘み取り、壺に加えていった。花びらは、まるで死者の魂を吸い込んでいるかのように静かに壺の中で溶けていく。その花は、時間とともに色が変わり、闇と光が交差するような不思議な雰囲気を醸し出していた。
ミホはその花の香りを深く吸い込みながら、目を閉じて、集中を高めていった。
「これで、力が増していく」
彼女の声は、ますます低く、霊的な力を帯びているように聞こえた。
最後に、ミホは壺の前で静かにひざまずき、ゆっくりと手を合わせた。
「暗闇の精霊よ、あなたとの契約を結びます。この薬に力を宿し、私に与えてください」
その言葉を終えると、部屋の空気がひときわ冷たく、重く感じられた。しばらくの沈黙の後、壺がわずかに揺れ、部屋の空気が振動するような気配を感じた。
ミホの手のひらから微かな光が漏れ、その光が次第に濃く、深く、壺の中の液体へと吸い込まれていく。
すると、壺の中の液体がゆっくりと輝きを帯び始め、濃い紫色に変わっていった。その色合いは、まるで闇の中に潜む光を感じさせるような神秘的なもので、ミホの瞳にはそれが完全に宿るまでじっと見守るように見つめられていた。
「完成」
ミホは静かに呟くと、壺の中の液体を慎重に瓶に移し替えた。その液体は、どこか冷たく、強い力を持っているように見えた。
「これで、必要な時に使える」
ミホは静かに瓶を差し出すと、その目にわずかな満足が浮かんだ。どこか無表情でありながらも、その瞳には一片の誇りが込められているように見える。薬を完成させたことで、彼女の中にほんの少しの達成感が広がったのだろうか。
「蓮、受け取れ。俺とミホからのプレゼントだ」
デールは腕を組みながら、どこか少し照れくさいように言った。その言葉の裏には、思いがけない親切や、蓮に対する少しの期待が込められているようだった。けれど、どうしてもその言葉には軽やかな響きがあり、蓮の緊張した胸に少しだけ安心感を与える。
蓮は、ミホの目に浮かぶ微かな誇りを見逃さなかった。彼女が作り上げたこの薬は、ただの物ではない。彼女自身の、そして彼女とデールの一部が込められたものだと感じた。それが蓮にとっては少し重たくもあり、また一抹の恐れを抱かせるものであった。
「——あの、この薬は一体……」
蓮は、好奇心と不安を入り混ぜた声で尋ねた。すぐに自分の口から出た言葉を後悔し、言いながらも心の中で不安が募っていくのを感じていた。しかし、ミホはその問いに答えるように、冷静な声で続けた。
「──死者の呼び声。この薬を飲めば、一時的に死者と心を通わせることができる」
ミホは言葉を慎重に選びながら、蓮に向かってゆっくりと近づいてきた。その動きは、まるで何かを説明するかのように、慎重かつ落ち着いている。
彼女がこの薬について説明する時のその静かな姿勢に、蓮は胸の奥で一層の緊張を感じた。何かとても重いものを受け取るような感覚が、彼の中で膨らんでいく。
「効果は五分だけ。死者の魂によっては、まれに危害を受けることもある——」
その言葉が、蓮の耳に入ると、心臓が一瞬だけ止まるかのように感じた。冷たい汗が背中を伝い、喉の奥が乾いていく。
ミホが説明するその事実が、想像以上に重いものであることを、蓮は本能的に理解した。
死者と心を通わせる? それがどれほど危険で、また、どれだけ不確かなものであるか、蓮にはすぐに理解できた。
その時、蓮の喉元でゴクリと唾を飲み込む音が、部屋の中で一際大きく響いた。音の後ろに潜む、彼の不安と恐怖が目に見えるように感じられる。
「そ、そんな薬いらないですよ」
蓮は慌てて手を前に出して薬を拒んだ。その動作は本能的であり、目の前に広がる選択肢に対する恐れから来るものであった。彼が恐れているのは、死者と通じることで何が起きるのか、まったく予測できなかったからだ。
しかし、デールは軽く肩をすくめて、どこか余裕を見せながら言う。
「いいから、持っておけ。滅多に手に入らない薬だぞ」
その言葉に蓮は一瞬、立ち尽くした。滅多に手に入らないという事実に、心が少し揺れ動く。使うか使わないかは、蓮の手の中にある。だが、何か深い意味が込められているこの薬を持っておくことは、後々役に立つかもしれないという思いもあった。
「……そうですね」
蓮はゆっくりと頷き、恐る恐る薬を受け取った。その重さが、手に伝わる。瓶が蓮の手の中で冷たく感じると、どこか遠くの空気が澄んでいくような気がした。
「ありがとうございます」
その言葉は、蓮の胸の中に広がった感情を反映したものだった。感謝と同時に、恐れと不安も混じっていた。しかし、これで道が開けるのかもしれない、という微かな希望も胸の奥で芽生え始めていた。
使うべき時が来るのか、蓮の中ではまだその全貌が曖昧だった。けれども、今はデールに従って進むしかない。
歩きながら、ふと蓮は後ろを振り返った。その瞬間、背後から少しだけ大きな、意外な声が響いてきた。
「待って! 私も!」
その声は、思った以上に力強く、そしてしっかりと響いた。それは、普段は小さく静かなミホから出たものとは思えない、腹から出した大きな声だった。驚いた蓮は立ち止まって振り向き、そしてその声の主であるミホを見つめた。
ミホは、少し顔を赤らめながら、しかししっかりとした目で蓮を見つめている。その眼差しの奥には決意が宿っており、少し戸惑ったような表情を見せながらも、何かを決めたような様子が伝わってきた。
「どうしたミホ、珍しいな。蓮が気になるか?」
デールは意地悪そうに、少し笑いながらミホに問いかけた。彼の顔にはいつもの軽口が浮かんでいて、まるでミホの変化を楽しんでいるように見える。しかしその言葉には、どこか彼女を気遣う優しさも含まれていた。ミホはそんなデールのからかいを気にする様子もなく、ゆっくりと蓮を見つめたまま答えた。
「蓮、そういうわけなんだが——ミホも一緒にいいか?」
その問いに、蓮は少し驚きながらも、自分の意志で答えようとした。ミホが一緒に行きたいという気持ちが伝わってきたのだ。それに、何かを感じ取ったような気がして、蓮の胸に不安と共に一抹の温かさが広がる。
「もちろん」
蓮は少し驚きつつも、優しく答えた。その言葉がミホに届くと、彼女はほんの少しだけ微笑んだように見えた。その微笑みは、蓮にとって少しだけ心を落ち着かせてくれるものであり、同時にこれから一緒に進む道のりに対する少しの希望を感じさせてくれた。
ミホはその返事を聞くと、少し安堵した様子で頷き、蓮の方をじっと見つめた。その瞳の中には、何か強い意志が感じられるが、それと同時にどこか寂しさや不安も隠れているようにも見えた。彼女もまた、どこか不確かな未来に向かって進もうとしているのだろう。
「それじゃあ、行こう」
デールはまた歩き出すと、蓮とミホもその後ろをついていく。しばらくの間、三人は静かに歩を進めていった。
天幕から出ると、外には賑わいが広がっていた。空は青く澄み渡り、太陽の光が温かく降り注いでいる。天気はいつの間にか晴れていて、風も心地よく、街の雰囲気はまるで新たな始まりを告げるように明るく感じられた。
周囲では人々が行き交い、活気に満ちていた。遠くからは笑い声や楽しげな会話が聞こえ、何か大きなイベントでも始まったのかと思わせるような雰囲気だ。
店番をしていたグリンダの声が、やけに元気に聞こえる。さっきまで客一人いなかった店前も、いつの間にか大繁盛だ。商品の売れ行きが良く、グリンダの顔にはどこか得意げな笑みが浮かんでいた。彼女が忙しそうに商品を手に取っては声を掛け、次々と客を相手にしているのが見て取れる。
「グリンダ、忙しいところ悪いが、蓮を送ってくるよ」
デールが声を掛けると、グリンダは一瞬顔を上げ、すぐに明るく返事をした。
「はいよー。蓮、またどこかで会えたらよろしくな!」
グリンダの明るい声に、蓮も思わず微笑んで頷いた。彼女の性格が現れた、元気な一言だった。蓮はその言葉に少し心を和ませ、もう一度彼女に会えることを心の中で楽しみにした。
「ありがとう、グリンダ」
蓮は軽く手を振ると、デールとミホの後を追って歩き出す。
通りを歩きながら、蓮は周りの喧騒に耳を傾ける。人々の顔が見え、賑やかな街の風景が広がっている。時折、道端に並んだ店の前に立ち止まり、何気なく通り過ぎていく人々の笑顔や、楽しそうに会話する声が聞こえてくる。
自分がどこにいるのか、少し不思議な感覚が湧いてきた。この架空界での生活が、少しずつ自分にとっての現実になりつつあるのだろうかと、蓮は自問自答していた。
ミホは静かに後ろを歩いていたが、ふと蓮の歩幅に合わせて少し前に出てきた。彼女の足取りはどこか落ち着いていて、周りの騒がしさにも動じることなく歩き続けている。
その姿を見て、蓮は改めて彼女がただの小さな妖精の子供ではないことを感じた。彼女の目の奥には、どこか鋭い光が宿っていて、そしてどこか寂しさを抱えているようにも見えた。
「ミホ、どうした?」
蓮が少し気になって声を掛けると、ミホは静かに顔を上げ、少し驚いたように答えた。
「何でもない。ちょっと、考え事をしてただけ」
その言葉に、蓮は何かを言うべきか迷ったが、結局そのまま黙って歩き続けた。何かを背負っているようなミホの気配に、蓮は自分もまた同じように何かを抱えていることを感じ、何も言わずに歩みを進める。今はただ、先へ進むしかないのだ。
デールが少し先を歩いていて、時折後ろを振り向いては蓮たちに向かって軽く笑った。その表情には、何か頼もしさや安心感が漂っていて、蓮は思わずその笑顔を見返した。彼がいることで、少し不安が和らいでいる自分がいることに気づく。
「さあ、行くぞ、ネイトエールまではまだ少しあるからな」
デールが元気よく言うと、蓮は少しだけ肩の力を抜いて頷いた。




