交易都市テルヴァン 中編
幕が垂れ下がる奥の作業台に向かって歩き出すと、足元の石畳の冷たさと、作業場の中で漂う薬草や金属の匂いが蓮を包み込んだ。薄暗い部屋の中に、作業台の上に並ぶ試験管や薬草の束が、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている。
デールの足音が壁に反響し、蓮は自然と息を呑んだ。
デールに続いて奥へと足を踏み入れると、そこにいたのはフードを被った小さな女だった。
彼女の長い髪は水色に輝き、静かな空気の中でその美しさが一層際立っていた。まるで水の精霊がその場にいるかのような、幻想的な印象を与える女性だった。
「よう、待たせたな、ミホ」
デールが声をかけると、女はゆっくりと顔を上げた。その動きはどこか儚げで、まるで水面に映る月光のように軽やかだった。
デールの言葉に反応するミホの瞳は、静かな中にも鋭い何かを感じさせるものがあった。
その時、ミホが視線を蓮に向けると、目を見開き、驚いたように立ち上がった。フードがゆっくりと落ち、まるで意図せずその全容が明らかになった瞬間、蓮はその姿に少し圧倒された。水色の髪は、まるで水の流れのように美しく、そして不思議な力を感じさせる。
彼女の目には何かが反映されているようで、その一瞬、蓮は胸の奥に強い緊張を感じた。
「どうだ、ミホ。驚いたろ」
デールの声が少し軽く響き、ミホの反応を待っていたが、彼女は何も言わずただ静かに蓮を見つめ続ける。その視線には何か試すような、または観察するような冷静さがあった。
蓮は自分の胸が少しずつ高鳴るのを感じた。なぜこんなにじっと見られているのか、最初はわからなかったが、その違和感は次第に解けていく。
彼女が放つ何か、見えないオーラのようなものが、自分と重なる部分があるように感じられた。
「人間、なの?」
ミホの声が透明で高く、空気の中を響いた。
蓮はその声に思わず耳を傾け、口の中の乾きを感じながら、驚きと共に唾を飲み込む。その問いが、自分に向けられていることに気づき、少し動揺した。
しかしその後、心の中で落ち着きを取り戻し、深く息を吐いてから口を開いた。
「ミホさん、まさかあなたも?」
蓮は少し躊躇しながらも答えた。自分が抱えていた違和感、それは彼女と自分の間に何か共通する「匂い」があったからだ。最初に彼女を見た時、どこか懐かしい気がしたのはそのせいだった。フードが取れたミホの姿は、人間にとてもよく似ていた。
けれどもその目の中には、人間らしさを超えた何かが宿っているように感じられる。
彼女の肌の色は淡く、瞳は深い湖のように透き通っており、見た目こそ人間そのものであったが、その奥には普通の人間にはない、神秘的で異質な存在感が漂っていた。
その瞬間、蓮は彼女がただの人間でないことを確信する。彼女の存在は、何か大きな秘密を隠しているようで、胸の奥に少しだけ不安が湧き上がった。
その沈黙を破るように、ミホが口を開いた。どこか遠くを見つめるように。
「いいえ。私は、人間じゃない。だけど、人間の血は、流れてる」
その言葉を聞いた瞬間、蓮の胸に小さな希望の光が灯る。同時にその答えに対して更なる疑問が湧いてくる。彼女の言葉には重みがあり、蓮はその先の答えを求めたくなった。
「それって、どういう……?」
蓮の言葉は、疑問と興味が入り混じった声で続いた。
ミホは蓮の反応をじっと見つめてから、静かに言葉を続ける。その表情は冷静でありながらも、どこか哀しげなものが感じられた。
「私は、ハーフ。ママが妖精、パパが人間。あなたは、私のパパと同じ人間なのね」
ミホはその言葉を、まるで長い間自分の中で整理していたかのように落ち着いた調子で言った。その言葉が一度耳に入ると、蓮はその意味を咀嚼するために少し時間を必要とした。
人間と妖精の血が交わる。ハーフとして生きるということが、ミホにとってどれほど複雑で難しいことであったのか、蓮はなんとなく想像できた。
ミホはその後、少し安堵したようにフードを再び頭にかぶり直し、椅子に静かに座り直す。その姿に、蓮はひときわ静かな力強さを感じた。
彼女がどれだけ自分の過去と向き合ってきたのか、そのような歴史を思うと、自然と彼女を尊敬する気持ちが湧いてきた。
次に沈黙を破ったのは、デールだった。彼の大きな体が、少しだけ動くと、その声が部屋の中に響いた。
「ミホは見た目は人間だが、その能力は妖精以上にすごい魔力を持っている。ここらじゃ有名な、魔法使いなんだよ」
デールの言葉には誇りが滲んでいて、その内容がどれほどの凄さを持っているか、蓮にはすぐに理解できた。
魔法使いとして名を馳せているのなら、彼女の力は並大抵ではないだろう。魔法の使い手としての力と、妖精の血が交わった結果、どれほど強力な存在になるのか、蓮はその予想を越えて、ますます興味を引かれた。
デールはさらに話を続ける。
「お前さんを人目見て、彼女に会わせたいと思ったんだ」
その言葉に、蓮は一瞬驚きの表情を浮かべるが、すぐにその意味を理解する。彼がなぜ自分をここに連れてきたのかが、少しずつ明らかになってきた。どうやら、彼は自分にミホと対面させることで、何か大きな目的を持っていたのだろう。
再びミホの方を見ると、彼女の目は静かでありながら鋭く、蓮の存在をしっかりと認識していることが伝わってきた。
ミホは何かを考えているようだったが、その表情はあまりにも読み取るのが難しい。彼女が隠していること、そしてその背後にある彼女自身の考えが、蓮を引きつけていた。
「ミホ。君のお父さんは人間だって言ったよね? お父さんは今どこに?」
蓮の問いに、ミホは少しの間黙っていた。部屋の中には静寂が広がり、薬草や道具の微かな匂いだけが漂っている。
蓮の心臓の鼓動が、無駄に大きく感じられた。それと同時に、彼女の答えがどれほど重いものなのかを感じ取っていた。
ミホの視線が遠くに向けられる。彼女の瞳に映るのは、きっと過去のどこかの記憶だった。
やがて、ミホはゆっくりと口を開く。
「パパはサタンに殺されて死んだ。ママは私に強くなってほしいから、私を魔法使いにさせたの」
その言葉に、蓮は思わず息を呑んだ。
サタン。聞いたことのある、今ではよく知っている言葉だ。その言葉に込められた痛みは、蓮にも感じ取ることができた。
ミホがどれほど辛い過去を背負っているのか、その一端が垣間見えた気がした。
ミホはその言葉の後、ゆっくりと目を伏せる。彼女の姿が急に小さく見えた。まるでその悲しい思い出に圧倒されて、身体が小さく縮こまったかのように見えた。
「あなたは、人間。パパも人間。会わせてあげれなくて残念」
その一言に、蓮は胸を痛めた。ミホの声には悲しみがにじみ出ていて、淡々としているが、その中に深い感情が隠れているのが分かる。自分の質問が、彼女にとってどれほど苦しいものであったのかを思い知らされた。
蓮はしばらく言葉を失い、彼女の話をただ黙って聞いていた。どんなに言葉をかけても、その痛みを軽くすることはできないように思えた。
「失礼なことを聞いて、ごめんなさい。実は俺、人間界に帰れる方法を探しているんです。ミホのお父さんなら、分かるかなって思って……」
蓮は心の中で、その言葉がどれほど薄っぺらいものかを感じていた。彼女の過去を知って、そして自分の目的を話している。だが、ミホの父親が生きていない今、もうその道は閉ざされている。
それに、もし彼女が自分の問いに答えることができたとしても、果たしてその答えがどれほど役に立つのかも分からなかった。
ミホは静かに目を閉じ、そして深いため息をつく。
「ごめんなさい。私も、分からない。ママならわかるかも知れないけど、どこにいるのか、分からない」
ミホがそう言うと、部屋に静かな空気が漂う。
蓮はもう一度彼女の顔を見た。その目には涙はなかったが、心の中には消えない痛みが隠れていることが分かる。自分も同じように、戻れない場所を探し続ける人間として、その痛みが少しずつ理解できるようになった気がした。
しかし、ふと気づくと、蓮の心の中には以前よりも少しだけ冷静さが増している自分に気づく。もし仮に、人間界に帰る方法がわかったとしても、その先に何が待っているのかは分からない。もしかしたら、帰ったとしても自分がすべきことがまだ残っているのではないかと感じ始めていた。
そして、今は架空界にいる意味を見出しつつある自分がいることにも気づいていた。たとえこの世界に足を踏み入れた理由がまだはっきりとわからなくても、少しずつ自分に与えられた役割が見えてきているような気がしていた。




