分かれ道
タオをひとまずひとりにした後、蓮はヌトの元へと足を運ぶ決意を固めた。蓮はタオの悔しさを感じ取り、その痛みを背負う覚悟をしたが、それだけでは解決できないこともあった。ティナとティナ(リリス)の行方について、確かな答えを得るためには、ヌトの助言を仰ぐしかないと感じたのだ。
薄暗く静かな村を歩きながら、蓮はふと立ち止まった。息をひとつ吸い、そしてまた吐く。心の中で幾度も言い聞かせるように、彼はその足を前へと進める。ヌトの家の扉を開けると、ヌトはすでに待っていた。蓮が部屋に入ると、湯呑みを手にして何かを考え込んでいるような姿が目に入った。
「どうした、蓮?」
ヌトが振り返り、蓮を迎え入れる。蓮は軽く頭を下げ、部屋の真ん中の椅子に腰掛けた。
そして深刻な顔をして、口を開いた。
「リリスが、拐われました」
その言葉を聞いた瞬間、ヌトは微動だにせず、ただ蓮を見つめていた。ティナ(リリス)がティナに拐われたという事実は、蓮にとってあまりにも衝撃的であり、同時にどこか現実味を欠いているように感じられた。
蓮はしばらく言葉を失った後、ようやく続ける。
「その事実を受け入れることができなくて、どうしていいのか分からないんです。ヌトさんなら、なにか分かるかと思って来たんです」
蓮は一連の流れをヌトに話した。ヌトは黙ってその話を聞き、時折思案するように湯呑みを見つめ、ゆっくりと湯をすすった。
話が終わると、ヌトは一度深く息を吐き、静かに言った。
「うむ、お主の話はよく分かった。けれど、わしにはどうしてもティナが悪いやつとは思えんのじゃ。もしティナが悪いやつだと言うならば、シャクのことも、リリスのことも今頃殺しているじゃろ」
ヌトは、湯呑みの縁に唇を寄せ、ゆっくりと一口含んだ。湯気が立ち上り、彼の横顔に微かな陰影を作り出す。
「なにか目的があるということですか?」
蓮が問いかけると、ヌトは静かに耳を傾け、湯呑みをそっと置いてから、蓮の方を見た。
「目的……それが果たしてティナ自身の望みかどうかは分からぬがな」
ヌトは少し考え込むように目を落とし、再び湯呑みを手で包み込むように持った。その手は少し震えているように見えたが、すぐにそれを抑えるようにして目を閉じた。
「なに、そう慌てるでない。ティナは必ず戻ってくる。蓮、お主は一度国に戻ったほうがいい。万が一の備えが必要じゃ」
蓮はその言葉に少し驚き、やがて頷いた。心のどこかで、何かを感じ取ったような気がした。
「そう……ですよね。分かりました。タオはどうすれば?」
蓮は、タオのことを気にかけながらも、心配そうに声をかけた。ヌトは少し間を置いて、そして静かに答える。
「やつの事なら、しばらくほおっておいて構わん。人より時間がかかるが、必ずお主の元に戻ると約束しよう」
その言葉は、どこか確信に満ちていて、蓮は少しだけ肩の力を抜いた。だが、ヌトの表情はどこか寂しげだった。湯呑みの中に映る彼の顔には、かすかな陰が落ちており、その目はほんの一瞬、遠くを見つめるように揺れた。
「すまんな蓮、何もできない自分が情けないわい。あの子らは、わしの大事な子どもたちなんじゃ。どうか、助けてやってくだされ」
ヌトは震える手で湯呑みを机の上に戻す。その音が、部屋に静けさをもたらす。言葉の中には、深い懇願と共に、過去の記憶に絡みつくような無力感が漂っていた。
「どうか、助けてやってくだされ」
その言葉は、まるで自分を責めるような響きを帯びていた。ヌトの目には一瞬、かつて失った何かを追い求めるような、哀しみが浮かぶ。だが、それを隠すように彼は目を閉じ、湯呑みを再び口に運んだ。
「分かりました。必ず助けます」
蓮はその言葉に、しっかりと応える。胸の奥で誓いを立てながら、背筋が少し伸びるのを感じた。彼の決意が固まり、何かが動き始めたような気がした。これ以上、ただ悩んでいるわけにはいかない。
蓮は立ち上がると、ヌトに深くお辞儀をした。そして一言、「行ってきます」と静かに告げた。ヌトはその言葉に、微かに頷くと、蓮の背中を見送りながら、また一つため息をついた。
***
孤児院から少し歩いたところにある小さな丘。風がそよぎ、草が揺れるその丘の頂上に、タオは一人、静かに佇んでいた。背中を丸めず、ただ遠くの景色を見つめるその姿は、どこか遠い場所に心を置いているようだった。
「タオ」
蓮はタオの名前を呼んだ。
タオは振り返らずに目を細めると、まるで時間が止まったかのように、無言で空と大地を眺めている。手は膝の上に静かに置かれ、肩越しに見るその後ろ姿からは、何かを深く考え込んでいることが伝わってくる。
「なあ、タオ」
風が髪をそっと撫でる。タオの顔に浮かぶ表情はどこか哀しげで、何もかも全てを抱え込んでいるようだった。周囲の世界が動き続ける中で、彼だけが時間の流れに取り残されたように感じられた。
蓮はタオの横に腰掛けると、続けて言った。
「俺は一度ネイトエールに帰ろうと思ってる。タオはどうする?」
タオは遠くの景色を見つめたまま口を開く。
「俺はもう少し、ここに残る」
彼の言葉が静かに、しかし力強く響いた。声には揺るぎない決意が込められており、その言葉が空気を震わせるかのようだった。
「うん、言うと思ってた」
蓮はほんのりと小さな笑みを浮かべた。
そんな蓮の顔を初めて目にして、タオは目を細めて眉をわずかにひそめて、少し怒ったような表情を浮かべた。口元がほんの少し歪んで、何かを尋ねるかのように、視線が鋭く蓮を捉えた。
「何がおかしい?」
その言葉を発する瞬間、声にわずかな震えが混じって、少し不安げなニュアンスも感じられた。彼の目には疑問と戸惑いが交錯し、言葉の奥に隠された疑問が深まっていくのがわかる。
「ううん、おかしくないよ。ただ、タオがそう言ってくれてよかったなって」
蓮はタオと目を合わせると、もう一度小さく笑った。
「お前は変なやつだな」
つられてタオも少し口角をあげる。彼のそんな表情を見たのも、久しぶりに感じる。
「俺は俺に出来ることをする。まずは情報を集めてくるよ。それから、協力者も探してくる」
タオは無言のまま静かに頷き、肩を少しだけリラックスさせた。その動き一つ一つが、今までの不安や迷いが消え去っていくことを示しているようだった。
「蓮、また会おう」
タオはそれだけ言うと、視線を逸らしてそっと顔を背けた。その動きは、まるで何かを隠そうとする子どもみたいだ。
「うん、また」
振り返ることなく、一歩踏み出した。二人は徐々に遠ざかり、自然に次の場面へと移っていくのだった。




