少年たちの思い出 後編
兎との戦闘から数時間。
静けさが漂う森の中、タオの周りに煙が立ち込めていた。彼が変異前の姿に戻る合図である。
彼の全身を纏う獣の毛が、まるで焼け散るようになくなっていく。鋭い牙や爪は、跡形もなく綺麗に引っ込んでいった。変化を終えたタオは、まるで一夜にして元の人間の姿に戻ったかのようだった。
蓮はすぐさま自分の着ているコートを脱いで、それをタオにかける。その温かな布がタオの冷えた体に触れ、少しだけ安心させる。だがその時、ふと背後から聞き覚えのない声が響いた。
「お主まさか──シャクか?」
蓮は反射的に剣を抜くと、刃先をその者の方へ向けた。
「誰だ!」
その声の主は、年老いた羊の姿だった。背は低く、腰をすぼめて歩くその羊は、杖をついており、全身が毛むくじゃらで、顔周りにも羊の毛が生えている。まるで歩く羊のようだったが、その目には老練さが宿っていた。
羊は蓮の剣に動じることなく、落ち着いた様子で言った。
「すまない、自己紹介が遅れたのう。わしはマアト村の村長──ヌトじゃ」
「マアト村の……村長……?」
蓮は目を見開き、ヌトと言う男を見つめる。そして、何かが閃いたように言った。
「じゃあ、あなたがまさか──シロとクロの師匠!?」
ヌトは首を傾げた後、驚いた様子で言った。
「はて、なんの事やら。それより旅人よ、その剣を下ろしてはくれぬか?」
「す、すみません!」
蓮は慌てて剣を下ろし、深く頭を下げた。ヌトはそれを見て、何も言わずに静かにタオに視線を移した。裸体で静かに横たわるタオをじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「やはり間違いない──狼人シャク、生きておったか」
ヌトは声を震わせながら、タオにかかっているコートをそっと捲り、腹の傷を見る。
「大丈夫、急所は避けているようじゃな──旅人さん、彼を運んで少し歩けるじゃろうか? マアト村まで案内しよう、そこで彼の治療を行うのじゃ」
ヌトはそう言うと、杖をついて歩き出す。その歩き方は、長年の人生を感じさせるゆったりとしたもので、まるで近所に住むお爺さんの姿を思い出させた。蓮は一瞬、躊躇いの表情を浮かべたが、すぐにタオの命が優先だと考え、急いでタオを背中に乗せた。
「待って!」
蓮は慌てた様子でタオを背中に背負う。彼の体重が重くのしかかってきて、蓮はまるで石像を一人で運ばされているかのような感覚を覚えた。タオの呼吸がゆっくりと荒くなり、意識が遠のいている様子だった。
蓮は一歩一歩と重たい足を前に動かしながら、ヌトの後を追って歩き続けた。足元の苔や木の根に気をつけながら、何度も転びそうになりながらも、彼はタオの命を守るために必死だった。
タオの体が重く感じる一方で、蓮の心にはどこかで安堵の気持ちも生まれていた。マアト村に到着すれば、何かしらの手立てがあるのかもしれない。
だが、それにしてもヌトという男、そしてマアト村がどんな場所なのか、蓮はまだ全く分かっていなかった。
村に到着するまでにどれくらいの時間がかかるのか、それも蓮には見当もつかなかった。ただ、ひたすらに前へ進み続けることしかできなかった。
***
マアト村はネイトエール城の敷地半分ほどの小さな村であった。
ヌトと一緒に無事に村までやってきた頃には、辺りが薄暗くなり、すっかり夕方になっていた。おまけに、カァカァとカラスの鳴く声まで聞こえてくる。空の色は深い藍色に染まり、夜の訪れを告げるように、風がひんやりと感じられた。
「よし──これで大丈夫じゃ」
ヌトはタオの腹に包帯を巻きながら、満足げにそう言った。タオの様子を見守る蓮は、まだ意識を取り戻していない彼の顔を心配そうに見つめていた。村に到着してから、ヌトが手際よくタオの手当てをしてくれていたが、それでもタオが目を覚まさないことには不安が募る。
「しばらくは無理せず、休ませるんじゃな」
「はい、わかりました」
蓮は頷きながら、静かに部屋を見回した。古びた木造の宿は、どこか懐かしい香りを漂わせている。二人部屋のベッドに横たわるタオの様子を見て、蓮は一度深く息を吐き出した。
タオが目を覚まさない間、蓮は自分の心の中に渦巻く不安をどうしていいのかわからなかった。変異した時のことを考えると、まだ回復には時間がかかるだろうし、もしかしたらさらに深刻な状況になっているのではないかという恐れもあった。しかし、ヌトの治療を信じるしかなかった。
「ヌトさん、ありがとうございます」
蓮は感謝の意を込めて深々と頭を下げた。ヌトはその言葉に微笑んで返すことなく、静かに言った。
「礼はいらんよ。今晩は泊まっていくといい」
ヌトはそれだけ言うと、部屋を出て行こうとする。蓮はその後姿を見送りながら、心の中で感謝の気持ちを込めていた。
「あ、ちょっと待ってください! あの、俺、まだヌトさんに聞きたいことがたくさんあって!」
ヌトは立ち止まり、静かに蓮を振り返った。冴え冴えとした黒い瞳が、蓮を見つめた。その瞳の奥には、長年の経験と知識がにじみ出ているようだった。
「なに、そう慌てるな。今は話す気力もないじゃろう? また明日じゃ」
その言葉に、蓮は一瞬言葉を失う。だが、ヌトが扉を開け、ガチャリと音を立てて閉めた後、すぐに木の軋む音と足音が響き渡った。古い木造の宿では、音が一枚の壁を越えて筒抜けになってしまうのだろう。蓮はその音を聞きながら、ふとした静けさに包まれる。
部屋の中で、ただ一人残された蓮は、少し呆然とした様子でベッドに腰掛けると、そのまま吸い込まれるように横になった。心地よい羽毛のような布団の中に沈み込むと、じっと天井を見つめた。
薄暗い天井に、照明の光がホコリを浮かせ、ゆっくりと漂っている。何も考えたくない、ただ目を閉じて眠りたい。だが、頭の中にはスミレのこと、ティナのこと、そしてタオのことがぐるぐると回り続けていた。何もかもが重すぎて、蓮はその全てから逃げたかった。
「はぁ」
小さなため息が漏れ、蓮はそのまま目を閉じる。全身があまりにも疲れきっていて、体が動かない。腕や背中、足までが重く感じられる。目を開ける気力すら湧かず、蓮は深い疲労の中に沈み込んでいった。
気づけば、何も考えずに眠りに落ちていった。
***
次の日、日が昇る頃には、すでに眠りの中で深く安らいでいた蓮は、体が軽くなったような感覚を覚えていた微かに聞こえる鳥のさえずりが、窓の外から届く。
カーテンの隙間から眩しい光が入り込み、目を覚ました。
「ん、眠い……」
こんなにも気だるい朝は久しぶりだ。まるで体に重い石を縛り付けられているようで、起き上がるまでに時間がかかった。蓮はゆっくりと体を起こし、両手を高く伸ばして大きく伸びをした。関節がポキポキと鳴り、筋肉に残った疲労感がじんわりと広がる。
「タオ、?」
ちらりと横目で、隣のベッドで寝ているタオを見た。タオはまだ目を閉じたままだった。昨日と何も変わらない姿勢で寝転んでいるその様子は、まるで本物の死体のように静かで、まったく動かない。
──コンコン。
軽い音がドアから聞こえてきた。続いて、かすれた声が部屋の中に響いた。
「調子はどうじゃ?」
蓮は目をこすりながらベッドから出て、ゆっくりと扉を開けた。扉の隙間から視線を落とすと、ヌトが羊毛の髭を弄りながら、静かに立って待っていた。小柄で、猫背のヌトは、まるで小学生の背丈ほどに見えた。
「ヌトさん、おはようございます」
「おはよう。ゆっくり休めたかのう?」
杖の先で床を軽くつく音が響き、ヌトはゆっくりと部屋に入ってくると、ベッドの近くにある椅子に腰掛けた。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったのう。旅人、お主の名前は?」
「蓮です。ネイトエールから来ました」
「ほう、蓮というのか。珍しい名じゃな」
ヌトは、ベッドで横たわるタオの方へ視線を向けた。
「狼は起きぬ……か」
「ヌトさん、あなたはタオのことを知っているように見えます。一体どういう関係なんですか?」
ヌトは癖のように自分の髭を触りながら、ゆっくりと言った。
「狼人シャク──懐かしいのう。生意気で、子どもなのにどこか大人のような──まるでこっちを見透かしたような眼で、よくわしを見ておったわい。今はタオという名があるのじゃな」
「そうかそうか」と、ヌトは嬉しそうに頷いていた。
「タオの故郷はここマアト村、ということなのでしょうか?」
蓮の問いにヌトが口を開こうとしたその時、ベッドの方から無愛想な声が聞こえてきた。それも、懐かしく、聞き慣れた声だった。
「マアト村は、俺とティナ、そしてリリスの故郷だ」
蓮は驚きのあまり目を大きく見開くと、同時に安心し、胸を撫で下ろした。
「タオ……!」
タオは蓮と目を合わせた。そして、何かを言いたそうにした後、すぐに口を閉じた。
「起きたか、シャク。久しぶりじゃな。こうしてお主と会うのも何年ぶりか」
ヌトのその言葉を聞いたタオは、耳をピクリと動かし、ゆっくりと体を起こすと言った。
「その名で呼ぶな」
タオは視線を外し、そっぽを向いた。ヌトはそんなタオを、まるで孫を見守るように穏やかな目で見つめた。
「シャク、相変わらずじゃな、その態度。変わってなくて安心したわい」
タオは再びこちらを振り向くと、今度は先ほどよりも鋭く、棘のように言葉を吐いた。
「ヌト、二度も言わせるな! 俺をその名で呼ぶな!」
タオのその強い言葉が、まるで地震のように部屋に響いた。ヌトの表情は変わらず、優しくタオを見つめた。
「やっと目を合わせたか。どれ、わしによく顔を見せてみろ」
ヌトはタオの頬に手をそっと当てた。その瞬間、タオの瞳が大きく揺れ、動揺が隠せなかった。タオは目をそらし、頬を引っ込めようとしたが、ヌトの手は優しく、まるで何かを確かめるように触れていた。
「大きくなったのう」
ヌトの指先はわずかに震えていた。タオの変わり果てた姿に、ヌトはしばし言葉を失った。
ヌトはそっとタオの頬から手を離し、静かに言った。
「リリスは元気にしておるか?」
タオはぎゅっと唇を噛みしめ、何も言わなかった。代わりに、蓮が口を開いた。
「ヌトさん、実は──」
蓮は、自分が知っている限りのことをヌトに話した。ティナが自分やタオと同じ騎士団に入団していること、ティナは二重人格で、内側にリリスが存在していること、そして昨日、突然ティナが襲ってきたこと。
ヌトは驚きのあまり、目を見開いて「なんと……」と声を漏らした。その後、しばらく考え込みながら下を向き、再び顔を上げて言った。
「どういうことじゃ……。お主の話はまるで、ティナが生きていると、そう言っているように聞こえざるを得ない」
「それってどういうことですか? だって、俺の前には確かにティナの姿が──」
蓮がそう言うと、黙り込んでいたタオがゆっくりと口を開き、はっきりと言った。
「蓮、聞いてくれ。ティナは──あいつは、とっくの昔に死んでいるんだ」
その言葉が、凍りつくような沈黙を呼んだ。まるで風の流れが一瞬で変わったかのように、タオの言葉は部屋の空気を重く圧しつけた。
***
「俺とティナ、リリスはかつて同じ孤児院で育った。そんな俺らの面倒を見ていたのが、当時孤児院の管理人だったヌトだ」
お通夜のような重苦しい空気と沈黙が部屋を包み込む。その言葉は重く、過去の痛みを引きずったまま、静かな波紋を広げていく。
「ティナとリリスは双子じゃった。リリスはとにかく明るくて悪戯っ子な女の子でな。それに比べて、ティナは子どもの時から真面目で大人しくて──今でもよく覚えておる、あの静かな目を」
タオは無表情で、しかしその声には少しの温かみを感じさせる。あの頃を懐かしむように話すその姿に、蓮は思わず心が痛くなる。
「俺ら三人はすぐに仲良くなって、いつも一緒にいるようになった」
タオの表情が少しも変わらずに、言葉が続いていく。その声には、過ぎ去った時間の重さがある。
「でも、いつだったか──ティナがなんの前ぶりもなく孤児院から姿を消したんだ。誘拐、家出、色んな噂が立つ中で、俺らは必死になって村中を探し回った」
蓮は、タオの言葉に息を呑んだ。何か悪い予感が胸を締め付ける。
「結局、ティナは、村からすぐのアスト街道で見つかったんじゃ。でも、見つけた時にはもう既に息をしてなかった──まるで魂だけ抜き取られたみたいに、ティナは静かに死んでたんだ」
その言葉に、蓮は再びゴクリと唾を飲み込んだ。胸が重く、息が詰まりそうになる。
「リリスはすごくショックを受けていたよ。両親だけじゃなく、唯一の家族である双子を失ったんだから当然だよな。思えば、その時からリリスはおかしくなっちまった」
タオは苦しそうに下を向き、言葉を続けた。彼の口調には、どこか悔しさが滲み出ている。
タオのこんな表情を見たのは、蓮にとってこれが初めてだった。どれほど深い痛みを抱えているのか、蓮は少しだけ想像する。
「気づけばリリスは、自分のことをティナと名乗るようになった。長かった髪も短く切り、ティナそっくりな口調で話すようになった。リリスは、人格までもティナになっちまったんだよ。俺は信じられなくて、目を疑ったよ」
タオは、その苦しそうな顔を無理にでも引きつらせようとするが、表情が硬く、笑顔を作ることができない。スミレとは違って、彼には笑顔を無理に作ることができないのだろうか。
「そこからは、蓮が見た通りだよ。お前がネイトで喋っていたのはティナに人格を奪われたリリス。そして、昨日突然俺らを襲ってきたのが──昔死んだはずのティナその本人だ」
タオはそこで話を切り、立ち上がった。その体は、日々の鍛錬によってしっかりと引き締まり、背中には力強さを感じさせる。周りの空気が、その存在によって少し引き締まったように感じた。
「ティナは死んだと思っていた。でも、生きていたんだな。それもサタンを引き連れて──な」
そしてタオは、ふっと全身の力を抜くようにして息を吐き出した。少しだけ緊張が解けたのか、彼の表情にわずかに柔らかさが見えた。
「いいか蓮、この話は誰にも言うな」
タオの瞳が鋭く蓮を見つめる。まるで自分に対する約束を強く求めているかのようだ。
「でも、リリスはいいの? 彼女が知ったら、何かが変わるかもしれない」
蓮は、思い切って口を開く。しかしその問いに、ヌトは鋭く答えた。
「だめじゃ。今の話を聞けば分かるじゃろう、リリスはティナでもある。そんなリリスが本物のティナと再会したらどうなるか──」
ヌトは、年老いた目からは想像もできないほど鋭い眼差しで蓮を見つめてきた。彼の視線が、蓮の胸を貫くようだった。
「ティナとは俺が決着をつける。それに、昨日のを見て分かったろ。どうしてか知らないが、ティナの目的は俺みたいだしな」
タオは、決意を込めて言葉を放つ。肩を回した後、ゴリゴリと骨が鳴る音が響いた。タオは、それからヌトを見据えた。
「ヌト、頼みがある」
「なに、当然じゃよ。わしはお主の親みたいなもんなんじゃからな」
ヌトは、タオに優しい微笑みを向けながら、言葉を返す。そのやり取りは、まるで本当の親子のように温かく感じられる。
「しばらくマアト村に住まわせてくれないか。ここにいれば、もしかしたらまたティナが俺らの前に姿を見せるかもしれない──」
ヌトはしばらく黙って考え込んだ後、迷うことなく頷いた。
「それなら構わんよ。ただ、わしからのお願いも聞いてくれぬか?」
ヌトは何度か咳き込んでから、真剣な面持ちで続けた。
「実は最近、マアト村で魔物が出るんじゃよ。そいつらは真夜中に作物を荒らしては、村の者を困らせておる。わしももう歳じゃし、魔物を倒す体力が残っとらん。お主らが代わりにその魔物を倒してくれんかのう?」
ヌトのその話を聞いて、蓮とタオは顔を見合わせる。これが本来の目的であったことを思い出す。魔物を倒すためにここに来たのだった。
「もちろん、俺に任せてください!」
蓮は、ヌトに向かってしっかりと頭を下げた。その表情には決意と共に、少しだけ自信が滲んでいた。




