置き去りの記憶
いよいよ一章最終話。
蓮を温かく見守ってやってください!お願いします!
森の集落・キャッツリーの中心部、それもかなり高い位置にある最上階に、ミーニャとクロネの家があった。木の葉が風に揺れる音を背景に、ミーニャとクロネの家はまるで自然と一体化しているかのように見えた。木のドアを二回ノックすると、ミーニャが待ちくたびれたように顔を出した。
「遅いにゃー! 冷めちゃうから早く!」
ミーニャの声には少し焦ったような、でもどこか愛嬌のある響きがあった。部屋の中からは、香ばしい香りが漂ってくる。香りは食欲をそそり、蓮のお腹も少し反応した。そういえば、もう昼食の時間だ。
「おじゃまします」
部屋に足を踏み入れると、木の温もりを感じるリビングが広がっていた。壁も床も、どこもかしこも木でできており、まるで自然の中にいるような感覚になる。机や椅子も、手作りの温もりが感じられるもので、まるで優しい手が触れているような印象を与える。テーブルの上には、湯気を立てた料理が並んでいた。
「鞄を盗んだことを見逃してくれた礼だにゃ。食べていってほしいにゃ」
クロネは既に椅子に腰掛け、蓮とスミレを手招きしていた。その仕草はまるで、招き猫のようで、思わず微笑んでしまう。
「シロとクロ、ありがとう。いただきます」
スミレが微笑みながら食卓に向かうと、蓮もその後を追った。だが、すぐに目を見開いた。並べられた料理は、どれも見たことがないものばかりだったが、その中でも特に目を引いたのが──
「あ、あの。シロ、これは一体なんでしょうか」
蓮の声には、少しの戸惑いがにじんでいた。ミーニャは自信満々に、焦げたネズミの丸焼きを指し示しながら答える。
「見てわからにゃい? ネズミの丸焼き」
ミーニャはそのまま、焦げたネズミの尻尾を持って蓮に渡してきた。その姿に、蓮は一瞬ひるんだが、なんとか笑顔を作りながら避けるように言った。
「ち、ちょっとほかの物から食べてみます!」
急いで目の前の団子をつかみ、口に詰め込む。魚の香りが広がり、まるで川を泳いでいるかのような感覚を覚える──が、同時に生臭さが鼻をつく。蓮は顔をしかめながらも、必死にその団子を飲み込んだ。
「それ、魚のすり身団子にゃ」
クロネはそれだけ言うと、普通の顔をしてすり身団子を口に運んでいる。そんな様子を見て、スミレはクスリと笑いだした。
「ごめんなさい、面白くって。食文化が違うんだもの、蓮の口に合わないのも当然よ」
スミレはそう言いながら、すり身団子を一口食べてみると、少し驚いたような顔を浮かべた。
「うん、確かに強烈ね。猫ちゃんが好きそうな味」
「猫はみんな大好きな料理! 魚とネズミは贅沢品だにゃ!」
ミーニャは嬉しそうに言うが、その声の中には少し、怒ったような響きもあった。それに続いて、クロネが口を開いた。
「種族の食文化、覚えておいた方がいいにゃ。肉食獣は平気であんたらのことも食らう。特に野生の──家を持たない肉食獣は手に負えないにゃ。もちろん、みんながみんなそういうわけじゃないけど、あたいらは何度もハイエナやチーター、狼に襲われたにゃ。やつらの目には猫も食いもんってわけ」
クロネは語るうちに、自分の耳を無意識に触りながら話を続ける。その表情には、今もその時の記憶が強く残っていることが伺えた。
「あたいの片耳は昔、肉食獣に食いちぎられたにゃ。フードを被っていたせいで種族まで分からなかったけど、あの鋭い牙に獣の匂いは間違いなく肉食獣だったにゃ。あたいは奴らのことが許せないにゃ」
クロネの黒目が少し大きくなり、その瞳からは憎しみが溢れ出るようだった。彼女の感情が、そこに集約されているような、鋭い視線が蓮に向けられた。
「あんたらがサタンとかいう魔物を恐れているのと一緒で、あたいらはそれ以上に肉食獣のことが怖くって仕方ないのにゃ」
その言葉に続けて、ミーニャが少し寂しげな顔をして言った。
「あなたたちの言う通り、肉食獣の中には乱暴で傲慢な性格の者達がいるかもしれないわ。けれど──私の知っている肉食獣は、無愛想で不器用だけど、根はとても優しい子よ」
その言葉を聞いた蓮はすぐにそれがタオのことを言っているのだと理解した。スミレが語る肉食獣は、彼しか思い浮かばなかったからだ。
「確かに、みんながみんなそうじゃないかもしれない──言い方が悪かったにゃ、ごめんにゃ」
クロネは耳を萎ませて、スミレに頭を下げた。
「そんな、いいのよ。その、あなたたちに酷いことをしたっていう肉食獣のことは、私も許さないわ。いつかどこかで会ったら、懲らしめてあげるんだから」
スミレはそう言うと、少し膨らませた頬をさらに突き出して怒った顔をした。その表情は、どこか愛嬌があって、普段の穏やかな彼女とのギャップが微笑ましかった。
「ありがとにゃ。あ、そういえば」
クロネはぴくりと尻尾を動かし、何かを思い出したように言った。
「あたいらは色んなところで商売をしているんだけど、こんな噂を聞いたにゃ──ネイトエールから北に進んだところにあるマアト村で、毎晩畑を荒らす魔物が出て村人を困らせてるらしい──まあ噂だから分からないけどにゃ」
「スミレ、何か知ってる?」
スミレは少し考えるように、顔をしかめて答えた。
「マアト村は何度か訪れたことがあるけれど、そんなことが起きているなんて知らなかったわ。ホクト様に報告した方がいいかもしれないわね」
ミーニャはすり身団子を口に詰め込み、勢いよく飲み込んだ後、再び口を開いた。
「あんたらなら力になってくれるだろうと思ったにゃ。実はマアト村に、あたいの師匠が暮らしていてにゃ。もう歳の爺さんだけど、もし会ったらよろしく伝えてにゃ」
その時、クロネは椅子から立ち上がり、奥の棚からガサゴソと何かを探し始めた。その音が部屋の静けさを破った。
「そういえば、シロとクロネはここで二人で暮らしているの?」
スミレがそう尋ねると、ミーニャは少し考えてから答えた。
「そうにゃ。猫の親離れは早いにゃ。あたいらがまだ子どものうちに、両親はとっくにどっかに行ったにゃ」
「そう。確かに獣人族は、親離れが小さいうちからあるって聞いたことがあるわ。シロ、あなたは立派ね」
「そ、そんなことないにゃ」
ミーニャは頬を赤らめて照れる。その白い毛並みのせいで、頬に色づいた様子がとてもよく分かる。ほんのりとした照れた表情が、また一層可愛らしさを引き立てていた。
しばらくして、棚の方からクロネの声が聞こえてきた。
「あったにゃ、これこれ!」
クロネは小さな本を手に持ちながら、蓮にそれを差し出した。
「これは?」
「師匠に頼まれてた秘伝のレシピにゃ。もしマアト村に行くなら、師匠にこれを届けてほしいにゃ」
蓮はその本を手に取ると、少し首を傾げながら尋ねた。
「その師匠っていうのは、どんな見た目をしているの? 爺さんってだけじゃなかなか見当たらない気がして」
「まあ、それなら大丈夫にゃ。ヌト爺は村の村長だからにゃ」
ミーニャはにっこりと笑いながら言うと、「よろしくにゃ」と、少し歯を見せて笑った。
***
食事を終えた蓮とスミレは、窓の外の景色が淡いオレンジ色に染まり始めるのを見ながら、猫たちと楽しく過ごしていた。高所恐怖症の蓮は、何度かハシゴを登る際に手が震え、腰を抜かしそうになることもあったが、それでも無事にキャッツリーを満喫し、心から楽しい時間を過ごしていた。
「今日はありがとう。そろそろネイトエールに戻らないと」
蓮は少し名残惜しそうに、ミーニャとクロネに向かって言った。
「礼はいらないにゃ。そのかわり、また遊びにきてにゃ。その時は、あんたらの口に合う料理作っておくからにゃ」
ミーニャはその言葉とともに、蓮に向かって腕を広げ、抱きついてきた。突然の出来事に蓮は一瞬硬直したが、すぐに冷静さを取り戻し、彼女の背中に腕を回して優しく抱きしめ返した。ミーニャがゴロゴロと喉を鳴らす音を聞きながら、蓮は彼女との信頼関係が確かに築かれたことを実感した。
「健闘を祈るにゃ」
ミーニャは蓮から離れると、次にスミレにも同じように抱きついた。スミレは微笑みながら、まるで本物の猫を撫でるように優しくミーニャの頭を撫でる。そして、穏やかな笑みを浮かべながら「あなたもね」と言って、ミーニャのおでこにそっとキスをした。その温かい光景に、蓮は心が癒されるのを感じた。
その瞬間、蓮の前に黒い肉球が差し出され、握手を求めてきた。クロネだ。蓮はその可愛らしい小さな手を見つめ、力強く握り返した。
「クロ、ありがとう。盗みは程々にな」
「お前は早く彼女とくっつけいばいいにゃ」
クロネはいたずらっぽく笑って、蓮の手を軽く放した。その後、クロネはスミレとも握手をし、温かい言葉を交わしながら、別れの挨拶をするのだった。
***
キャッツリーからの帰路、気づくと精霊・シルフが帰り道を案内するように森を照らしていた。街灯がない森の中でも、彼らがいれば安心感を覚える。シルフたちが発する優しい光が、暗い森を柔らかく照らし、蓮とスミレはその光を頼りに進んでいった。
「架空界に来てから、なんだか一日があっという間だな」
蓮は独り言のようにぽつりと言う。その言葉に、スミレは軽くクスッと笑いながら返事をした。
「まだまだこれからよ。蓮、ついてきて!」
スミレは突然、楽しそうに森の中を走り出した。まるで子どもが追いかけっこを始めたように、足元に軽快な足音を響かせながら駆け抜けていく。
「ちょっと待てよ、スミレ!」
蓮は思わず声を上げ、スミレを追いかける。草の上を走る音がワシャワシャと響き、心臓がドクドクと鳴って、少し汗をかいた。それでも不思議と、体が軽く感じられ、まるで少年時代に戻ったような感覚が蘇った。
あの頃、快人やはな美と鬼ごっこをしたことを思い出す。あの時はまだ、みんな足の速さが同じくらいで、よく鬼を押し付け合いながら遊んでいた。もし今ここに快人がいれば、きっとすぐにスミレに追いつくに違いない。はな美はその様子を見て笑っているだろうか。そんな懐かしい日々が、架空界にも存在するのかもしれないと思った。
蓮は、息を切らしながら必死に走った。あと少し、もうすぐ彼女の腕が掴める。だんだんと距離が縮まる──。
「つか、まえた!」
その瞬間、蓮はついにスミレの腕を掴んだ。そして、視界がスッと広がった。それは、森を抜けた合図だった。
「ふふ、捕まっちゃった! ねえ見て、蓮、すごいでしょう?」
スミレは振り返り、嬉しそうに言った。まるでカメラのピントが合ったかのように、彼女の笑顔がはっきりと映る。そんな彼女の後ろには、見たこともないような絶景が広がっていた。
ああ、これが架空界の夜景だ。
目の前に広がる街は、少し眩しさを感じるほど光り輝いていた。まるで、一面に星が散りばめられたかのように、無数の光が煌めいていた。
「すごい……こんな綺麗な場所があったなんて」
蓮は感嘆の声を漏らしながら、広がる景色に見とれる。
「ここ、お気に入りなの」
スミレは嬉しそうに歯を見せて笑い、指を指しながら説明した。
「あれが王都ネイトエール、私たちが暮らしている場所よ。それから、あの緑の畑が広がっている場所が、ミーニャたちの師匠が住んでいるっていうマアト村。マアト村で育てる食物は本当に美味しいんだよ」
「へえ、本当に王都の近くに村があったなんて」
蓮は再び景色を見下ろす。改めて見てみると、ここが人間界ではないことを感じさせられる。
「村の奥に山が見えるでしょ? あの山を越えた先には、妖精族の王都イシュタルや、巨人族が暮らす地ヘカトンがあるの」
「そんなにたくさんの王都があるなんて、すごいな。スミレは、生まれも育ちもネイトエールなの?」
蓮はふと、何気なくスミレに尋ねた。けれど、スミレは遠くの景色をじっと見つめたまま、黙っている。
「スミレ……?」
不安になった蓮は、もう一度彼女の名前を呼ぶ。普段ならすぐに振り向いて笑ってくれる彼女が、どうしてかこちらを向こうとしない。
しばらく、ヒューという風の音だけが耳に届いた。その後、少しの間が空いた。やがて、スミレが口を開いた。
「覚えてないの。自分がどこから来たのか、どうしてここにいるのか──。物心ついた時からホクト様のところにいたの。記憶が無い私を、ホクト様は優しく育ててくれたわ」
スミレはその言葉を語るように、目を伏せたまま静かに続けた。よく見ると、彼女の手が微かに震えているように見えた。
蓮はその光景を見て、自分の心が少し締め付けられるのを感じた。どうしても、彼女の痛みや寂しさに触れたくなったが、同時にどうしていいか分からない。彼女の過去を知るための力が、今は足りていないことに苛立ちを感じた。
「ああ、悔しいな」
蓮は唇をぎゅっと噛みしめ、思いを言葉にする。
「スミレのことを、もっと知りたい」
その言葉が、思わず口から出た。スミレの顔は見えない。彼女がどんな表情で、この広い景色を見つめているのか、蓮には分からない。
「ねえ、蓮──?」
スミレが静かに呼ぶと、その髪が風になびき、耳元のピアスが小さく揺れた。
「お願い。私のことを、知ってほしい。ほんとうの私を、探してほしいの」
スミレがゆっくりと蓮の方を振り向く。彼女の瞳には、今まで見たことのない寂しさが浮かんでいた。言葉は、まるで風に乗って消えてしまうかのように、か細く、しかし確かに届いた。
その言葉を逃さないように、蓮はしっかりとその思いを受け止め、力強く返す。
「俺がスミレを探すよ。スミレよりも先に、スミレのことを知ってみせる。だから、そんな寂しそうな顔をしないで」
スミレは少し驚いたように目を見開き、やがて小さく笑った。
「ありがとう」
その言葉は、スミレのこれまでの苦しみや寂しさを知っているかのように、蓮の胸に深く響いた。彼女はきっと、記憶を失ってからずっと笑顔を見せてきたのだろう。苦しい時も、寂しい時も、泣きたい時も。
「スミレ、もう少しだけ一緒にいてもいい? まだ、帰りたくない」
蓮の言葉を聞いて、スミレは困ったように微笑む。
「あとでホクト様にバレて怒られても知らないわよ」
スミレ=シェリーは、騎士団ネイトの団員で、白い髪が綺麗な妖精だ。記憶を失った理由は分からない。それでも、蓮は彼女のために、必ずその真実を探し出すと心に誓った。
二人は肩を並べて座り、夜が明けるまでくだらない話をしては笑い合った。その時間が、蓮にとってはとても大切で、忘れられないひとときとなるのであった。
《騎士団ネイト人物紹介》
スミレ/シェリー
白い髪と青紫色の瞳が特徴的な妖精族の女性。
蓮とは狭間を通して出会う。歌がうまく、無意識に動物や他者を惹き付けることがある。
ホクト
ネイト騎士団長。トーカル王の息子。
赤髪で隻眼が特徴的なガタイのいい男。種族不明の変異型である。後輩から止められるほどのタバコ依存症。意外とよく笑う。
ティナ
白兎。全身がもふもふしており、キュルキュルした目が特徴的。目が合うと性別問わず見たものを虜にするという。シェリーとタオの同期である。聴覚がよく、盗み聞きをすることが得意。蓮のことを揶揄うことを楽しんでいる。
タオ
灰色短髪の狼人族。変異型であり、戦闘時は狼の姿になる。人間を毛嫌いしており、蓮のこともよく思っていない様子。シェリーとティナ曰く、人付き合いが苦手だそう。
ミネル
種族不明。紺色の髪に透明な瞳が特徴的な女。冷淡に話す姿から、蓮が一方的に怖さを覚えている。ホクトの傍にいることが多い。




