傷口 後編
スミレとの時間はあっという間に過ぎていった。
訓練所を出てリビングへ向かうと、そこにはタオとティナの姿があった。サタンとの交戦から帰ってきた二人は、今戻ったばかりのようで、体のあちこちに血が滲んでいた。特に狼の姿をしたタオの様子は酷く、後ろ足から血を流し、足を引きずっていた。その足元には、すでに血がポタポタと落ちていて、まるで赤い道を作るように広がっていた。
「西区に複数のサタンが襲撃。僕が向かった時には、ざっと十体以上を相手にタオが一人で戦っていました」
ティナがそう言うと、スミレは素早くタオに駆け寄ってしゃがんだ。そしてタオの顎に手を添えると、そのまま犬を撫でるようにしてタオの顎を撫でた。その手つきが少し、蓮の頭を撫でる時と似ていて、何か不思議な感覚が胸に広がる。
「いい子ね。すぐに治療をするわ。早く治療室に」
スミレが立ち上がり、治療室へ向かうと、タオも足を引きずりながらその後に続いた。ポタポタと垂れる血が、治療室へと続く道に赤い線を描いていった。
「待って! 俺も行く!」
蓮は咄嗟にそう言い、返事を待つことなく二人の背を追った。
治療室は静かで、どこか澄んだ空気に包まれていた。薬棚の並ぶシンプルな空間の中で、スミレは棚から素早く数本の瓶と、いくつかの小さな布袋を取り出した。
「来たからには手伝ってちょうだい。蓮はこの薬、タオに飲ませて」
蓮は慌てて返事をし、スミレから液体の入った瓶を受け取る。タオはすでにベッドに横たわり、目を閉じている。蓮が呼びかけると、彼は低いうなり声をあげて牙を剥いたが、スミレの一言でおとなしく口を開いた。蓮は恐る恐る薬を流し込み、タオは苦しげに顔をしかめながらも、それを飲み込んだ。
「いい子ね。今から処置を始めるわ」
スミレはタオの傷にそっと手をかざした。すると、彼女の指先から淡い光が滲み出し、空気中に花びらがふわりと舞い始めた。小さな擦り傷や裂けた皮膚は、その花びらが触れるごとにふさがれていく。
しかし、深く裂けた後ろ足の傷だけは、魔法の光にも反応せず、血が止まらなかった。
「……やっぱりサタンの傷。魔法だけじゃ足りないわね」
スミレはそう言うと、机の上に並べた布袋を開いた。中から取り出したのは、乾燥した薬草、糸のように細い蔦、そして淡く光る樹脂のかけらだった。
「これは《妖精の傷糸》と《癒しの樹液》、それから《月影草》。自然の力で再生を促すの。サタンの傷には、これくらいしないと効かないのよ」
スミレは薬草をすり潰して軟膏をつくり、丁寧にタオの傷口へ塗り込む。その手つきはまるで祈るようで、蓮は言葉も出せずに見つめていた。彼女が糸と蔦を組み合わせて縫い始めると、タオは痛みに爪を立ててうめき声を漏らした。
「ごめんね。でも、もう少しだけ我慢して……」
スミレは縫い終えると、最後にそっと手をかざす。再び花びらが舞い、縫い目を包むように降り注いだ。すると、傷の腫れがすっと引いていき、蔦も魔力に呼応して柔らかく馴染んでいく。
「……偉かったわね。もう、戻っていいわよ」
タオの体に白い霧が巻き起こり、彼の姿がゆっくりと人の形に戻っていく。裸になったその身体は、すでに痛みから解放されたように穏やかで、蓮はつい目を奪われた。
スミレはタオの額に優しく口づけし、毛布をかけると、静かに立ち上がった。
「変異型は身体への負担が大きいの。だからこうやって眠っている間に再生するのよ。明日にはきっと、元通り」
蓮は何も言わずに、こくりと頷いた。そしてスミレにバレないように唇をぎゅっと噛むと、彼女の背を見送るようにして、静かに治療室を後にした。
蓮の心は乱れた。最初から分かっていたことだ。二人のあとを追いかければ、きっと自分の心が複雑になり、歯がゆい気持ちを抱くことになるだろうと。しかし、あの時、蓮には二人を追いかける以外の選択肢がなかったのだ。
ああ、嫌だなあ。
今すぐシャワーを浴びたい。頭から熱い湯に浸かりたい。そのまま、溶けてしまえばいいのに。
胸の内で渦巻く感情は止まらない。嫉妬の気持ちが膨れ上がり、さらに加速する。
蓮はその感情に溺れないように、気持ちを紛らわせるために、大浴場へと向かった。
今の時間は「共用の時間帯」だと聞いていたが、そこまで利用者は多くないはず。さっと入ってさっと出よう。
そう思いながら、蓮は脱衣所の扉を開けた。
「──ひぇ!?」
小さな悲鳴が上がる。
目の前にいたのは、服を脱いでいる最中のティナだった。
瞬間的に視界に飛び込んできたのは、曲線を描くシルエットとキュッと締まったウエスト、そして胸元の柔らかな膨らみ──。
「ご、ごめんなさい!」
蓮は慌てて扉を閉める。
心臓の鼓動がうるさい。おかしい。何かがおかしい。
──ティナは男のはずじゃなかったか?
混乱する蓮の背後から、扉越しに声が聞こえてくる。
「ふふ……あたしの“裸”見ちゃったね」
その口調に、蓮はぎょっとする。
普段のティナとは、明らかに違っていた。言葉選び、声音、色気を含んだような妙な抑揚──。
違和感を覚える。ぞくりと、背筋が冷たくなった。
蓮は戸惑いながら、反射的に謝罪する。
「本当に……本当にごめんなさい。わざとじゃなくて!」
その直後、扉が開き、蓮は後ろに倒れ込んだ。
視界が逆さになり、そこに映ったのは──タオル一枚を巻いたティナの姿。
ティナはしゃがみ込み、蓮の顔を覗き込む。
「さては、変態だね? わざと覗いたんじゃないの?」
「そ、そんなわけ……!」
動揺する蓮に、ティナは笑みを浮かべながら近づく。
その笑顔もまた、どこか作られたようで、いつもの飄々とした軽口とは違う“何か”があった。
まるで、演じているような──。
「ふふ、君、いまどんな顔してるか分かってる?」
「わかんない……」
「まるで価値ある宝石を見つけた庶民みたい。ねえ、どう? “女”としてのあたしは」
ティナは一歩ずつ、蓮に近づいていく。
蓮は後退するが、扉に背中をぶつけて立ち止まる。
追い詰めるようにティナが言う。
「餌、欲しい? 素直に言えば、あげなくもないよ?」
蓮の心臓がドクンと跳ねる。
ああ、まずい。これは、だめだ。
初めてティナと出会った時からずっと感じていた、ティナの持つ独特な他者を魅惑する能力。これが彼女の能力なのか、それとも兎特有の能力なのかは分からない。分からないのだが──。
彼女の言う餌を貰えば、このどうにもならない気持ちも楽になるのだろうか。スミレを──自分のものにできるのだろうか。
「お、俺は──」
蓮が言葉を吐き出そうとした瞬間、ティナが大きなため息をつく。
「どうせ蓮も、あの子がいいんでしょ? スミレのこと──好きなんでしょ」
垂れた耳が、寂しさを滲ませる。
さっきまでの妖艶さが嘘のように、声の調子が落ちる。
そして──ティナはゆっくりと、片方ずつ手に白い手袋をはめた。
その仕草は、妙に丁寧で静かだった。
まるで“心のスイッチ”を入れる儀式のように、どこか決意すら感じさせる。
手袋をはめ終えたティナは、蓮に背を向けたまま、落ち着いた声で言う。
「僕が変なことしてすみませんでした。蓮、話を聞いてもらえませんか? 僕の話です」
ティナの顔は見えない。
けれど代わりに、少しだけしょんぼりと垂れた耳が、その心情を雄弁に語っていた。
「あ、あの! 一体どういう──!」
「それじゃあ、先に中で待ってます」
「え、ちょっと……?」
「二人で話すのなら、ここが話しやすいでしょう? このままじゃフェアじゃないですから」
さらりとした口調でそう言い残し、ティナは大浴場の奥へと消えていった。
残された蓮の胸には、火照りとともに、妙なざらつきが残っていた。




