終わりの先で
朝の光は、まるで水のようだった。
カーテンの隙間からこぼれる白い光はゆっくりと部屋に広がり、眠っていた空気をやわらかく揺らす。
人間界の朝は、驚くほど静かだ。
鳥の声も、遠くの車の音も、微かで、けれど確かに“日常”を告げている。
――この静けさが、もう当たり前になりつつある。
そう思った瞬間、隣で誰かが小さく息を吸った。
スミレは目を開け、天井を見つめていた。
どこか夢の続きを確かめるように、しばらく動かない。
その横顔を見ていると、胸の奥がほんの少し疼く。
「……ん、眠い……」
ようやくスミレが呟いた頃、蓮はぼさぼさの髪でゆっくり体を起こした。
眠そうなのに、油断なく安心に満ちた表情――その顔がすぐ隣にあることが、いまだに少し不思議だ。
スミレは近づき、ためらいもなく蓮に手足を絡めてくる。
「蓮」
「ん……まだ朝……」
声は眠っているのに、スミレの顔が目の前にあると一瞬で意識が覚醒する。
「もう、朝よ?」
そう言って唇を重ねてくるのだから、反則だ。
あぁもう、勝てるわけない。
「……おはよ」
そう返すのが精一杯だった。
しばらく静かな余韻が流れたあと、スミレが尋ねる。
「蓮。今日はどこへ行くの?」
蓮は伸びをひとつして答えた。
「約束しただろ。
スミレの“初めて”全部連れてくって」
スミレはくすっと笑い、蓮の頬にすり寄る。
「楽しみだわ」
その仕草に心臓が跳ねる。慣れたはずの距離感なのに、毎回反則みたいに胸が騒ぐ。
「でも、その前に――」
蓮は彼女を抱き寄せ、額と唇にゆっくりキスを落とす。
小さなリップ音が静かな部屋に響き、スミレの息が震えた。
――デートに行く前に、しばらく時間がかかるのはもう日常。
文句はない。むしろ必要な儀式みたいなものだ。
***
ようやく家を出る準備が整った頃――スミレは唐突に言った。
「蓮……服の着方を、教えてほしい」
蓮は3秒沈黙し、吹き出す。
「いやそこから!?昨日覚えたって言ってたろ!」
「覚えてたつもりなの。でもこの布、どこに腕を通すの?」
逆向きのパーカーを抱えて真剣な顔。
可愛いとか言ったら怒られそうだから言わないけど、蓮の表情は勝手に緩む。
「……ほら、こっち。ゆっくりな」
「人間の服って……複雑」
ぷくっと頬を膨らませる。怒ってない、ただ不器用。その全部が愛しい。
チャックを軽く上げ、蓮は言う。
「似合うよ」
スミレは一瞬固まり、それから小さな声で。
「……ありがとう、蓮」
――その言葉だけで、今日連れ出す意味が十分すぎるほどあった。
***
最初に向かったのはショッピングモール。
休日で家族連れが多く、明るい声が響く場所だ。
スミレは入口で固まった。
「ひ、人……多い……全部本物……」
「いや、偽物いたことあったか?」
返事の代わりにスミレが抱きついてくる。
「世界が動いてる……全部生きてる……蓮、ずっと守ってたのね……!」
「いや守ってないから」
何度言っても、スミレの解釈はだいたいスケールが大きすぎる。
次に立ち止まったのはペットショップ。
スミレが指差して叫ぶ。
「蓮!!リリスが捕まってるわ!!」
ガラスの向こうには――ただのウサギ。
「……違う。ウサギ。飼うやつ」
「でも苦しそう!見て!訴えてる!」
真剣にガラスへ顔を押し付ける姿に困りながらも、笑ってしまう。
「明日も見に来たいわ!」
「……たぶん買わされるやつだな」
***
歩き疲れて、ふたりでカフェへ逃げ込んだ。
ガラス越しに暖かい光が洩れていて、外の世界より少し柔らかい空気が流れている。
店内に流れる小さな音楽に、スミレは耳を傾けるように瞬きをした。
「歌ってるのは誰?」
「機械」
「……精霊みたいね」
「全然違うけどな」
そんな会話すら楽しい。
知らない世界をひとつひとつ確かめるみたいな表情。
それが可愛くて、時々心臓の鼓動が追いつかない。
スミレはメニューを真剣に眺め、迷う様子もなく指を差した。
「これ」
「パンケーキ?あっちの世界でも似たようなの食べたろ」
「これが、いいの」
運ばれてきた皿から立ち上る甘い匂いに、彼女の視線が吸い寄せられる。
そしてひと口食べた瞬間――
「……今日の勝者はこれね」
「勝負させるな」
ふわっとほどけた笑顔。
胸の奥がじんわり温かく満たされていく。
食べ進めるうち、ふいにスミレが呟いた。
「……戦いがなくてもいい世界って、本当にあるのね」
フォークを持つ手が止まる。
その言葉は軽く聞こえるのに、刺さる。
スミレはそっと手を伸ばし、蓮の指先に触れた。
「蓮が守りたかった場所なら、私も好きになれるわ」
柔らかい声なのに、不思議と強い。
息が詰まる。言葉より先に、胸が反応する。
「……パンケーキ、おかわり」
「今いいところだったのに」
「甘いものは正義よ」
「理屈強いな」
そう言いながら、気づけばメニューを取り上げていた。
理由なんて、もう要らない。
――スミレが笑うなら、それでいい。
***
外に出ると、空は紫に染まり始めていた。昼と夜の境目が静かに溶けていくようで、街の灯りがひとつずつ瞬き始める。まるで星が降りてきて地上に散らばったみたいに、光はあたたかく、柔らかかった。
スミレは立ち止まり、息を呑む。驚きとも歓声ともつかないその息遣いが耳に触れる。
「……空まで生きてるのね」
風に乗ってその声が揺れた。
蓮は思わず彼女を見る。
「夜景、見に行くか」
「行く」
短い返事なのに、迷いがなくて真っ直ぐだ。手を繋ぐと、その温度がそのまま心に触れるようだった。歩幅は違うはずなのに自然と揃って、まるで前からそうだったかのように馴染む。離したくない、と思った。理由はいらなかった。
バスに揺られている間、スミレは車窓の光景を吸い込むように眺めていた。知らない世界を知ろうとする瞳。その横顔が妙に静かで、けれど楽しそうだった。胸の奥がじわっと温かくなる。
公園に着く頃には、夜が完全に降りていた。光が地面に淡く落ち、木々の影がゆらりと揺れる。スミレは一度立ち止まり、それから吸い寄せられるように走り出した。風に揺れる髪。光を浴びた横顔。呼吸さえ忘れるほど綺麗で――
……こんなの、反則だろ。
やがて彼女は振り返り、感嘆にも祈りにも似た声を落とす。
「綺麗ね……」
蓮は隣に立ち、同じ景色を見る。けれど視線はすぐに彼女へ戻ってしまう。夜景より輝いて見えるなんて、反則以外の言葉が見つからない。
スミレの紫の瞳が、夜の光を掬うように静かに瞬いた。
「私、この世界が好きよ」
その言葉が夜に溶けていく。
蓮は視線を彼女から逸らせずにいた。
胸の奥で、ゆっくりと熱が灯る。
小さな火が、息をするたび強くなるみたいに。
「……そっか」
短い言葉なのに、声が少し震えた。
スミレがようやく蓮を振り返る。
その瞳が、真っ直ぐ捕まえて離さない。
そして――間を置いて、落とすように。
「だって蓮がいるもの」
夜風が止まったように感じた。
心臓の音だけが、静かで広い世界の中で響く。
その瞬間、夜景より、星より、世界の全部より。
彼女の言葉がいちばん強く光っていた。
スミレは空を見上げたまま、夢を見るような声で続ける。
「この先なにがあっても――私は蓮と景色を見ていたい」
その言葉が、夜より深く胸に沈む。言葉が追いつかず、代わりに名前がこぼれた。
「……スミレ」
振り返った彼女の微笑みは、夜景より優しくて、眩しかった。
「私を連れてきてくれて、出会ってくれて、ありがとう」
彼女の手を握る。
言葉じゃ足りない想いが、指先から伝わっていく。
――世界は動き続ける。
けれど、隣にスミレがいる。
それだけで、未来は優しく続いていく。
スピンオフ最終話は、蓮とスミレの「もしも」の未来。
そんな if の物語でした。
これをもって、本作品は正式に完結となります。
長い間、この世界に寄り添い、見届けてくれて本当にありがとうございました。
書くたびに迷って、悩んで、立ち止まって。
それでも「続きを待ってる」という声があったから、ここまでたどり着くことができました。
もし、また別の物語のどこかであなたと出会えるなら……そのときは、また一緒に旅をしましょう。
心からのありがとうを込めて。




