もうひとつの帰り道
妖精国の空は、今日もやわらかい光で満ちていた。
けれどその光の奥に、どこか落ち着かないざわめきが潜んでいる――そんな気がして、快人は何度も空を見上げていた。
「まだ、帰ってこないのかよ、あいつ」
ぽつりと漏れた声に、隣のはな美が静かにうなずく。
ふたりはずっと待っていた。
あの日イシュタルで誓った約束ーー一緒に帰ろうという願い。
その約束は誰より大切な幼なじみだからこそ揺るがなかった。
たとえ、どれほど時間がかかったとしても。
そんなある日。
ふたりの前に、妖精国の姫イリアが姿を現した。
「快人様、はな美様、少しお時間を」
イリアはいつもの微笑みを浮かべていたが、その瞳はどこか痛みを含んでいた。
彼女の纏う光が、揺れている。妖精国そのものが、かすかに震えているようだった。
「……お知らせがありますの」
はな美が息を呑む。
イリアはゆっくりと頷いた。
「狭間の歪みが――もうすぐ、完全に閉じます。ホクト様たちの活躍のおかげでしょう。
人の身で渡れるのは、今日が最後です」
その言葉は、森を吹き抜ける風のように静かだった。
けれど、胸の奥に落ちる重さは、ひどく現実的で残酷だった。
「蓮は?」
最初に口を開いたのは、快人だった。
イリアは少しだけ、視線を伏せた。
「……分かりません。ホクト様からの連絡ですと、もう既に狭間に向かわれたとの事ですが……帰るためではなく、最後のやるべきことをやりに行くとか」
はな美の手が震える。
強く、けれど掴む場所がなくて、ただ胸の前でぎゅっと拳を握っていた。
快人は、そんな彼女の手をそっと掴んだ。
はな美が顔を上げる。
その瞳には涙はない。ただ――蓮を信じる強さと不安が混ざって揺れていた。
「イリアさん」
はな美は小さく、確かに言った。
「……もし、今ここで帰ったら。蓮は……私たちがいない場所に帰ってくることになるかもしれないんですよね」
「ええ。あなたたちの世界へ向かう道は残るかもしれませんが……遅れを取れば、誰も迎えてはくれないでしょう」
「…………」
それでも――はな美は目を閉じ、深く息を吸った。
「でも、蓮は帰ってきます。絶対に」
「……はな美」
「だから私たちは、蓮が帰る場所を残してあげたい。
それが、幼なじみの私たちにできる“最後のこと”だと思うんです」
静かに、まっすぐに言った。
快人はその横顔を見て、小さく笑った。
「そうだな。あいつ絶対にギリギリで走ってくるしな。
昔からそうだった。夏休みの宿題も、集合時間も……いつもギリギリ」
「ふふ、そうだったかも」
はな美が少しだけ笑う。
その笑顔の奥に、どれほどの覚悟と寂しさがあるのか――快人は分かっていた。
イリアはふたりをまっすぐ見つめた。
その瞳は、どこまでも優しく、そしてどこか祈るようだった。
「ひとつだけ……伝えておかなければならないことがあります」
イリアは両手を胸の前で組むと、穏やかに告げた。
「狭間を通ると、あなたたちの“時間”は乱れます。
過去と未来の境界が揺らぎ、記憶が揺れる可能性があります。
蓮様の顔ですら、ぼやけてしまうかもしれません」
はな美は目を見開いた。
快人の指が、握る手に力を込めた。
「それでも……」
快人の問いに、はな美は迷いなく首を縦に振った。
「忘れてしまっても――絶対に思い出す。私たちはどこに行ったって蓮と会える、そう約束したでしょう」
その強さは、言葉ではなく想いでできていた。
「ああ」
イリアは静かに目を細めた。
まるで、ふたりの決意を祝福するように。
「では……参りましょう。
“あなたたちの帰り道”へ」
イリアに導かれ、ふたりは森の奥へと歩き出した。
妖精国の光は背中に遠ざかり、
代わりに、深い森の緑が静かに包み込んでくる。
はな美は歩きながら、小さく呟いた。
「……蓮、無事だといいんだけど」
快人は空を一度見上げ、ぽつりと言った。
「大丈夫、あいつなら絶対無事だ」
森の奥。
わずかに揺れる風――その中に。
“蓮の気配”が、確かにあった。
はな美は立ち止まり、息を呑んだ。
「……いま、感じたよね」
「……ああ。いるな。すぐそこに」
快人も同じ方向を見つめる。
けれど、どれほど進んでも姿はない。
光が揺れ、森が深まり、気配は近いのに……触れられない。
ふと、はな美が後ろを振り返る。
「……えっ?」
そこにいたはずのイリアが――どこにもいなかった。
「ねえ、快人」
はな美の声が震える。
「大丈夫ーー覚えてる。全部」
快人の声にはな美が頷く。
「行こう、蓮を探しに」
ふたりはゆっくりと歩き続けた。
風は先ほどより冷たく、どこか現実へ引き戻すような感触が肌に触れた。
「……道、変わってる?」
はな美が周囲を見渡しながら言う。
見覚えのある木々も、空の光も、どことなく揺らいでいる。
まるで時間そのものが、形を変えているみたいだった。
「狭間が閉じ始めてるんだろうな」
快人の声は低く、それでも揺るがなかった。
歩けば歩くほど、蓮の気配は近づく。
でもその気配は――どこか遠く、手を伸ばしても届かない夢みたいに薄かった。
はな美は胸に手を当て、目を閉じる。
「……蓮。
帰れるんだよ。
わたしたち、もう向こうに戻るんだよ。」
返事はない。
けれど風が揺れ、木々がざわめいた。
まるで――答えの代わりみたいに。
そして。
森の奥に、それは現れた。
淡い光を纏った裂け目。
形は定まらず、ゆらゆらと揺れている。
だがその中心には、確かに――“世界の境界”があった。
「……これが、帰り道」
はな美が呟く。
その声には、覚悟と寂しさ、そして願いが詰まっていた。
快人は裂け目の前に立つと、一度深く息を吐いた。
「もしさ――」
「うん」
「向こうで全部忘れてても、また俺の幼なじみでーー彼女になってくれよ?」
はな美は笑った。
涙を浮かべながら、それでも強い笑みだった。
「ばっかじゃないの」
快人は苦笑し、はな美の肩を軽く叩いた。
「……よし。行くか。」
ふたりは裂け目に向かって歩き出す。
あと一歩。
その瞬間――
風が吹いた。
温かくて、優しくて。
懐かしい気配が背中を押す。
――行ってこいよ。
――俺も、すぐ行く。
そんな声が、確かに聞こえた気がした。
はな美の瞳に涙が溢れ、快人は小さく笑った。
「だから言ったろ。
あいつは絶対、遅れてでも来るって。」
はな美は振り返らず、まっすぐ前を見据えた。
「……うん。信じてる。」
ふたりは光の中へ歩みを進める。
世界が揺らぎ、景色が滲む。
色も音も輪郭を失い、ただ意識だけが浮かぶ。
遠のく妖精国。
消えゆく記憶。
けれど――その中心にある想いだけは、決して薄れなかった。
帰る。
蓮のいる世界へ。
そして――待つ。
そうして光が弾けた。
***
冷たい風が頬を撫でた。
視界に広がるのは、現実の街並み。
アスファルトの道。電柱。すれ違う人たちの会話。
その全部が、どこか懐かしく、そして少しだけ遠く感じた。
はな美はゆっくりと息を吸う。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
――帰ってきた。
その実感は、まだ身体のどこにも馴染まない。
けれど、足の裏の地面だけは確かに現実だった。
隣では快人が空を見上げ、どこか戸惑ったように笑った。
言葉はなかった。
けれど沈黙は、嫌じゃない。
ふたりとも理解している――いま喋ると言葉が崩れる。
少し歩いた先、見覚えのある自転車がそこにあった。
錆びたチェーン。曲がったスタンド。
蓮を含めた三人で、何度も使った思い出の自転車。
快人がそっと触れると、わずかにギシ、と音がした。
「……まだイケるな。」
ぽつりと落ちた声は冗談めいていたが、どこか優しい。
荷台を軽く叩く。
それは昔からの合図。
はな美は少しだけ微笑み、静かに乗り込む。
パーカーの裾をそっと握ると、快人がほんの一瞬だけ振り返った。
言葉はない。
でもそれでいい。
言わなくても分かる瞬間なんて、幼なじみの三人の間には昔からあった。
ペダルが踏み込まれた。
ゴムが地面を噛み、タイヤが回転し始める。
風がふたりの間を抜けていく。
はな美は視線を前に向ける。
――蓮。
待ってるから。
だから、帰っておいで。
声にはしない。
けれどその想いは、風より強く、遠くまで届く気がした。
快人が前を見据えたまま、小さく息をつく。
「……行くぞ。」
その一言で、自転車は少し加速した。
ふたりは走る。
迷わず、まっすぐ。
戻ってきたこの世界で、蓮と再び並んで歩く未来へ。
スピンオフ第6弾は、快人とはな美の物語でした。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
ふたりは蓮の幼なじみとして本編に登場しましたが、物語が進むにつれ、気づけば出番がほとんどなくなってしまい……書き手として密かにずっと引っかかっていました。
このスピンオフで、ようやく彼らの“小さな物語”に触れることができて嬉しいです。
快人とはな美は、異能力や戦いから離れた“人間チーム”です。
だからこそ、派手さではなく、現実にあるかもしれない平凡で温かい幸せを書きたいと思いました。
その中に、幼なじみである蓮への想いや、置いてきたもの、取り戻したものが感じられていたら嬉しいです。
スピンオフも残すところあと1作。
最後までお付き合いいただけたら幸いです。




