核となりし者
……目が開いた。
まぶたの裏側に貼り付いたような熱が残っていた。
空気を吸った瞬間、喉を焼くほど濃い鉄の匂いが肺に入り込む。
視界が赤い。
床に散った血、壁に飛び散った影、そして自分の手にも――
べたりと生暖かい何かがまとわりついている。
足元で、羽が潰れる音がした。
「……っ」
鳥人族の兵が倒れている。
倒れ方が不自然で、あまりにも静かで――息が、ない。
胸の奥がぐらりと揺れ、痛みが走った。
呼吸が浅い。世界が揺れる。
その中心に、黒い影が立っていた。
無数の黒羽をまとい、呪いのように濃い殺気を放つカラス――
暴走したローレ。
ああ、これは。
千尋だった頃の、最後の光景。
「どうして……今、これが」
胸が痛い。痛い、痛い。
抉られるように痛い。
そのとき。
――“今日からお主はミネルじゃ。……さあ、おいで”
声が落ちてきた。
耳ではなく、魂に直接触れてくる声。
視界が白にかき消された。
***
白い光がゆっくり色を取り戻していく。
木造の小部屋。
暖かい風が草の香りを運び、窓から差し込む光が柔らかく床に広がっている。
そこに、ラミアがいた。
銀髪を肩に流し、膝に開いた本を眺めている。
その指先は優しく紙をなぞり、やがて顔を上げた。
「ミネル、今日の文字はようできておる。ほれ、この線の流れがな」
その声は、驚くほど温かい。
凍りついていた胸の奥に、ゆっくりと灯りが差し込むような声。
絵を書いた日。
花の名を覚えた日。
世界の仕組みを教わった日。
初めて泣いた日。笑った日。
ラミアは叱ることもあるけれど、決して自分の手を離さなかった。
――ミネルとしての自分が形になっていった日々。
光の粒が舞うように、その時間が少しずつほどけていった。
ーー目の前に広がるのは、水の青。
海底都市セラティスの核――
幾千もの水脈が交差し、光を反射し続ける、静謐な中心。
自分の身体は、かすかに宙に浮いているように軽い。
けれど胸の奥には、千尋の痛みとミネルの温度が重なり合って沈んでいた。
「……そうか。私は……核になった」
ぽつりと呟いた声は、静かな水に吸い込まれていく。
水面の向こうで、影が揺れた。
歩み寄る輪郭――長い髪、細い影。
その気配だけで、心臓がきゅっと鳴る。
ラミアだった。
彼女は微笑んだ。
昔と何も変わらない、優しい笑み。
「……ミネル。久しいのう。可愛い可愛い我が子、全てを思い出したんじゃな」
「思い出しても……まだ分からない。どうしてあなたは、私を生かしたんだ?」
声が震えていた。
胸の奥に残る千尋の痛みが、残酷な映像のように脈打つ。
ラミアは静かにまつげを伏せた。
その横顔は、どこか母親というより、深い悔恨を抱えた王のようだった。
「……最初はな」
水面に映る彼女の影が、ゆらりと揺れる。
「お主は……我が息子、ローレの家族を無惨に殺した。血に溺れたまま死なせてやるなど――それこそ許せぬと思ってな」
ミネルの心臓が、きゅっと縮む。
「だから……私を?」
「うむ。罰として、生きて償わせるつもりだったのじゃ。死ねばそれで終わる。だが生きれば、あの子らのために働ける。……そう思った」
言葉とは裏腹に、ラミアの表情は苦しかった。
「だがのう……」
彼女はゆっくりと手を伸ばし、ミネルの頬に触れそうで触れない距離で止めた。
触れられれば壊れてしまいそうな、そんな迷いを孕んだ手。
「お主の面倒を見ているうちに……可愛いと思ってしまったんじゃ」
ミネルの喉が詰まる。
千尋の罪が、ミネルとしての温度が、互いに押し潰し合う。
「愛してはならぬ。憎まねばならぬ――
そう思い続けて、我は……お主をホクトの元へ預けた」
言いながら、ラミアの指先がわずかに震えた。
「役割を与え、我の記憶を消して、遠ざければ……
いずれ、憎しみだけが残ると思った」
けれど、とラミアはふっと笑った。
「それでものう、ミネル。お主は、我の手を離れても……ずっと可愛いままだった」
その言葉が、静かにミネルの胸の奥を揺らした。
ミネルはゆっくりと顔を上げた。
「……そんなふうに言われても」
声は震え、絞り出すようだった。
「あなたが“可愛い”と思ったその間にも……千尋は、誰かを殺した。ローレが……泣くほどに大切な人を奪った。どうやって、そんな私をーー」
言葉が途切れた。
悔しさか、怒りか、自分でも分からないものが喉を塞いだ。
ラミアは一歩近づいた。
その目に宿る光は、涙にも似て揺らいでいる。
「ミネル。罪は消えぬ。千尋の行いも、ミネルの歩みもな」
「分かってる……!」
ミネルの声が水の静寂を揺らした。
「消えない。忘れられない!私は全てを背負って生きると決めた!なのにあなたはどうしてっ……!どうして……そんなものまで私に与えた? 憎まれたいなら、突き放せばよかった」
ラミアは、淡々としているのに、どこか切なく揺れていた。
「……お主を愛しておったからじゃ、ミネル」
その一言が、静かな水底に沈むように落ちた。
ミネルの心臓がひとつ、痛いほど強く跳ねる。
息が詰まる。
拒絶も肯定もできず、ただその言葉が胸を締め付けて動けなくなる。
ラミアは、そんなミネルの揺らぎを確かめるように、ゆっくりと微笑んだ。
「……ふむ。さて」
わざと肩の力を抜いたような、少しおどけた声音で続ける。
「これからの日々は暇であろう」
間を置く。
水の音も呼吸も消えたような沈黙の中で、ラミアの目だけが柔らかく揺れる。
「暇で暇で死にたくなる日々を、我と共に過ごすのじゃ」
その声音は不思議だった。
罰でも命令でもない。
ただ、親が拗ねるみたいな、どうしようもなく人間臭い温度だった。
その瞬間――胸の奥で、千尋の残滓が震える。
かつて誰かを奪った手。
ローレの叫び、血の匂い。
消えない罪が、身体の芯を締め付ける。
けれど。
そのすべてを抱えたままでも、
目の前のラミアは「可愛い」と言った。
「共に過ごす」と言った。
――ありえない。
ありえないのに。
「……そんなの……」
自分でも驚くほど弱々しい声が漏れた。
視界が滲む。
温度を持ったものが、頬をつたって落ちた。
涙だ。
いつぶりだろう。
千尋としても、ミネルとしても、泣くことを許されなかった自分が。
ラミアは、手を伸ばした。
しかし、触れない。
距離はそのまま。
届きそうで、届かない。
それでも、その距離が優しかった。
「泣けばよい」
ラミアの声が、静かに水の中に溶けていく。
「それは、逃げる涙ではない。
罰の涙でもない。
お主が……ようやく取り戻した、自分の涙じゃ」
ミネルの肩が震えた。
胸の奥に沈んでいた千尋の痛みと、ミネルの温度が溶け合って、ゆっくりほどけていく。
「……帰って……きた、のか……」
ミネルの呟きは、自分でも聞こえないほど小かった。
ラミアは優しく笑った。
溺れるほど深い青の中で、どこまでも柔らかく。
「うむ。よう帰ってきたな、ミネル」
その瞬間、ミネルの涙は止まらなくなった。
まるで――
長い長い旅路の果てに、ようやく帰り着いたかのように。
第5弾はミネルでした。
彼女には、どうしても後悔が残っています。
ミネルという存在は、これまでの物語の中でもとても薄く、
どんな人物なのかを十分に伝えきれなかったことが、正直悔しいです。
けれど同時に、“薄さ”こそが彼女なのかもしれません。
自分が何者なのかを見失い続けた彼女にとって、
輪郭の曖昧さそのものが生き方だった気がします。
殺人犯としての「千尋」がラミアの手で生かされ、
すべての記憶を失い、「ミネル」として生きることを強いられた。
自分が誰かも分からず、それでも与えられた使命を果たす――
そんな彼女が“核”という存在に選ばれたのは、
きっと偶然ではなく、必然だったのだと思います。
そしてラミア。
彼女は不気味で、恐ろしく、
それでも“母”という言葉がよく似合う蛇の女でした。
彼女の抱える過去や、セラティスとの深い繋がりも描きたかったのですが……
今回はここまで。無念です。
「自分は何者なのか?」
その問いに向き合いながら、それでも生きようとした彼女たちへ。
どうか、静かな拍手を。
ありがとうございました。




