願いの渡し人
ここは、生と死の狭間に浮かぶ街――セラティス。
海の底のように青く、風も波もない。
ただ光が揺れ、ゆっくりと時が流れている。
美穂は、手にした薬壺をそっと振った。
花の香りが淡く立ちのぼる。
架空界で薬屋ミレオに教わった薬草の調合を、今でも欠かさず続けていた。
「今日も……いい匂い」
呟いた声は、静かな光に吸い込まれていく。
「おや、また夜更かしですか」
背後から声がした。
振り向けば、案内人――イゼナがいた。
今日は年老いた姿で、しわの深い手に杖を持っている。
だが次の瞬間には、若い少女の姿で笑っていた。
「ほら、そんな顔しないの。慣れてきたでしょ?」
「……人格が多すぎるのよ、あなた」
「バリエーションって言ってほしいな」
美穂は小さくため息をつき、笑った。
この都に来て、どれくらい経つだろう。
最初は何も信じられず、イゼナの言葉にすら疑いを向けていた。
けれど今では――夜の静けさの中、こうして並んで話すことが、日課のようになっていた。
ここでの時間は、まるで夢の中のように流れていく。
死も生も曖昧なこの地で、自分がまだ“働いている”ことに、時折おかしささえ覚える。
「寝れないんですか? 眠る必要は、もうあまりないでしょう?」
「……でも、夢は見たいの」
イゼナは少し目を細め、何かを見透かすように言った。
「夢は、生きる人間の特権です。あなたはまだ、生きているんですね」
その言葉に、美穂は少しだけ笑った。
そう、きっと彼女はまだ生きているーーここセラティスで生き続けている。
その時、低い唸り声が空気を震わせた。
ふたりが顔を上げると、遠くの光の海がゆらりと裂け、巨大な影が落ちてきた。
「……幻獣?」
「はい。魂の層を彷徨っていた個体が、ここに流れ着いたようです」
美穂はため息をつくと、袖をまくった。
「じゃあ、放っておけないね」
*
セラティスへ流れ着いた魂たち。帰る場所を失った者、まだ現世に縛られている者。
その名を記すことが、彼女の日課だった。
「それにしても、毎日毎日忙しいね」
「生きる者がいる限り、迷う者もいますから」
光の岸辺に横たわっていたのは、翼を折った大きな獣だった。
その体は半分が透明で、光の粒が絶えずこぼれている。
近づくと、かすかに痛みの気配が伝わってきた。
「かわいそうに……だいぶ傷が深い」
美穂は膝をつき、そっと獣の頬に触れた。
冷たくも温かい、不思議な感触。魂と魂が重なり合うような。
「ねえ、イゼナ。この子、生きようとしてる?」
「……迷ってます。けれど、あなたに触れた今――少し、揺れました」
美穂は目を閉じ、掌から光を滲ませた。
淡い花びらが空に舞う。
スミレの花と同じ魔法。
優しく包み、痛みを溶かす。
幻獣が微かに動いた。
その瞳の奥に、夜の星霧のような光が灯る。
『……なぜ、助ける? 私は……もう……』
「理由なんていらないよ。ここでは、みんなもう一度やり直せるんだから」
『……やり直す……?』
「そう。痛みも、後悔も、全部置いていける。
でも、生きたいと思ったら、その分だけ光は戻るの」
幻獣はしばらく黙っていたが、やがて静かに息を吐いた。
その体を覆っていた黒い靄が、ゆっくりと晴れていく。
光がひときわ強くなり、翼が再び広がった。
美穂が微笑むと、幻獣は頭を下げるようにして立ち上がった。
その様子を見ていたイゼナが、ふと呟く。
「幻獣は見かけによらず、優しく儚い生き物です。そして――誰かの願いや想いを運ぶとも言われていますよ」
「願い……?」
「ええ。せっかくの機会ですし、想いを伝えてみては?」
美穂が言葉を探そうとした時、イゼナは微笑んで立ち上がった。
「私は、次の魂を迎えに行かねば。少しの間、あなたに任せます」
「待って、イゼナ――!」
呼び止めた時には、もう彼女の姿は光の向こうに消えていた。
静寂が戻る。
残された美穂は、ゆっくりと幻獣のそばに膝をついた。
ーー想い……か。
柔らかな光が、潮のように彼女のまわりを満たしていく。
心の中に、ひとつの想いが浮かんだ。
――昔の私へ。元気ですか。
驚かないでね。私、好きな人ができた。
デールに、グリンダ。薬屋のミレオに、蓮やスミレ。
騎士団の仲間たち、旅の途中で出会った人たち。
生きる意味が分からなかった私に、たくさんの価値をくれた。
だから、どうか笑っていて。
悲しい夜があっても、涙を流した日があっても、
それを無駄だなんて思わないで。
私は今、すごく幸せだから。
光の海が静かに揺れた。
幻獣は、その光を受けるように翼を広げ、ゆるやかに空へ昇っていった。
その背に、美穂の祈りが乗る。
まるで、それが彼女自身の想いを運ぶように。
「……ありがとう」
風のない世界に、小さな声が響いた。
イゼナの残した言葉が胸をよぎる。
――幻獣は、誰かの想いを運ぶ。
美穂は空を見上げた。
そこには、星霧のような光がまたひとつ、生まれていた。
きっとあれは、想いのかけら。
誰かが誰かを想い続けた、その証。
「……行ってらっしゃい」
そう呟いた唇に、ほんの少し、温かい笑みが宿る。
今日もセラティスには、新しい命が訪れる。
生きる理由を見つけたいと願う、どこかの魂たち。
そしてその度に、美穂は花びらの魔法で彼らを迎えるのだ。
――ここは、終わりではなく、もうひとつのはじまりの場所。
スピンオフ第4弾は、雪緒美穂。
彼女は、私の中では第2のヒロインだと思っています。
ノワル研究区画を出て、魔法使いとして名を響かせながらも、どこかに負い目を抱え、自らを隠して生きてきた女性。そもそも、架空界でハーフエルフとして生きることがどれほど苦しいか、想像に難くありません。
それに加えて、魔法使いとしての重責まで背負うなんて、本当に大変なことだったと思います^^;
初登場時は大人びた印象を漂わせていた彼女ですが、
恋になると驚くほど不器用で、真っすぐな女の子でした。
魔法都市ノワルのことも、いずれリメイク版でしっかり描きたいです。
そして彼女の物語――短編『ハーフエルフは一人で歩く。』もぜひ読んでみてください。
孤独を抱えながら旅を続け、生きがいを見つけていく彼女の姿を描いています。
セラティスで生きる今の美穂は、きっと、あの頃よりも少し穏やかに笑っているはずです。
イゼナと並んで、静かな夜を楽しんでいてくれたら嬉しいですね。
ありがとうございました!




