風都に灯る約束
風都アウライアは、今日も雲海の上に浮かんでいた。
澄んだ青と白が溶け合う空の中、風の塔が静かに鳴っている。
その音は、帰らぬ者を弔う鐘のように、静かに空へ響いていた。
白い岩肌に羽のような塔が林立し、塔と塔のあいだには透明な風路が伸びている。
そこを渡るたびに、足元の雲がふわりと揺れ、空に浮かんでいることを思い知らされる。
カリュアは最も高い塔の展望層――“風見の回廊”に立っていた。
手すりに指をかけ、雲の切れ間から覗く地平線を見つめる。
肌は薄桃色に染まり、長い黄緑の髪が風に流されて光をはじいた。
背の翼を軽くたたむたびに、細い羽根が空に溶けていく。
頬を撫でる風はやわらかいのに、胸の奥は重たかった。
――今日で、ローレが旅立ってどれくらい経つだろう。
彼の帰りを待つのが、もう癖になっていた。
あの日の背中を、まだ忘れられない。
必ず戻ってきて と言った私に、淡白な返事だけを残して振り返らなかった彼。
風の流れさえ、あの時だけは止まって見えた。
「……ローレ、あなたはどこにいるの?」
何度も風に問いかけてきた。
けれど返ってくるのは、いつも同じ風のざわめきだけ。
それでも信じたかった。
たとえ誰にも届かなくても――風の都の民として、風はきっと答えてくれると。
声に応えるように、ひとすじの風が頬をかすめて過ぎる。
けれど、それはただの風。
彼女は知っていた。
この都で生きる者にとって、風は祈りの代わり。
いつか、風が答えを運んでくれる――そう信じていた。
そのときだった。
空の彼方で、光が瞬いた。
突風が吹き荒れ、塔全体が震える。
目を細めたカリュアの視界に、淡い光の塊が見えた。
――遣いの風の幻獣。
ローレがよく世話をしていた、あの白翼の獣。
彼が戦に赴くたび、風の都へ報せを運ぶのは、いつもその幻獣だった。
「……まさか、そんな……!」
カリュアは息を呑み、勢いよく翼を広げた。
風が背に集まり、彼女の体をふわりと持ち上げる。
風見の回廊から飛び出し、空を渡る。
冷たい空気が頬を打ち、長い髪が弧を描いた。
光の幻獣は、少し離れた塔のバルコニーに漂っていた。
カリュアが舞い降りると、幻獣は静かに顔を上げ、白い羽を揺らした。
その瞳には、言葉よりも深い悲しみが宿っていた。
カリュアは震える手を伸ばす。
幻獣の額に触れた瞬間、指先が温かく光った。
――そして、記憶が流れ込んだ。
風の中に、ローレの声があった。
『悪いな、カリュア。約束を守れそうにない。……国を頼む』
光が弾けた。
幻獣が翼を大きく広げ、空の彼方へ消えていく。
その背を見上げながら、カリュアの足元が崩れ落ちた。
「いや……いやよ……ローレ!」
バルコニーに膝をつき、顔を覆う。
風が乱れ、髪が宙に舞う。
泣き声が、白い塔の間を駆け抜けて消えていった。
「カリュアお嬢様! 一体何が――!」
近くの塔から飛来した兵士たちが、慌てた様子で降り立つ。
けれど、カリュアは何も答えなかった。
ただ、風の音だけが――ローレの名を呼んでいた。
***
どれほどそうしていたのか。ふと、背中に影が差す。
誰かが立っていた。
振り向いた瞬間、カリュアは息をのむ。
「……あなたは……」
金色の髪。
瞳に光を宿す気高き気配。
彼女の姿を見て、どうしてかスミレを思い出した。
そしてすぐに、点と点がカリュアの中で繋がる。
「イリア=ルナティアと申します。妹が……世話になりましたね。」
「やっぱり……あの人のお姉さんなのね……」
イリアは小さくうなずき、カリュアの隣にしゃがみ込んだ。
「でも、イリアさん。どうしてあなたがここに?」
「幻獣が王都イシュタルに現れたのです。そして、妹たちの知らせを告げました。――気づいたら、あなたのもとへ向かっていましたの」
「そう……だったのね」
掌に、まだ温もりの残る光の欠片――ローレの紋章。
二人はそれを静かに見つめた。
「ローレ殿は、きっと優しい方だったのでしょうね」
「どうかしら。私を1人にして置いていくなんて……酷い人よ」
風がふたりの頬を撫でる。
その優しさに、もう涙は出なかった。
代わりに胸の奥に残ったのは、“空虚ではない静けさ”だった。
イリアはそっと目を閉じて言った。
「彼が遺した想いが、この空を吹かせ続けていますわ」
「そうだといいわ」
「ねえ……イリアさまは、怖くないんですか。大切な人を失うことが」
「ええ、怖いですわ。何もかもを失ってもなお、ずっと何かを恐れている」
イリアの微笑みは、どこか懐かしい。
「でも、だからこそ守るって決めたんですの。だから私は、イシュタルの姫になった――あなたもそうでしょう? アウライアのお姫様」
カリュアは小さく息をつき、フッと笑った。
風が泣き止むように、塔の鐘が鳴り始める。
紫に染まる夕暮れの空が、二人を包み込んだ。
「ねえ、イリアさま。」
「はい?」
「あなたの国は、どんな風が吹いているの?」
イリアは少し目を細めて笑う。
「……少し騒がしい風ですわ。王都ネイトエールと同盟を結んでからは特に――騎士団長さんがうるさくて。」
「あらそう。イシュタルとネイトエールは同盟を結んだ……なんて風の噂で聞いてたけれど本当だったのね」
「ええ。でも、そんな人たちがいるから、世界はまだ動いているんだと思いません?」
イリアは風を掴むように手を広げる。
「カリュアさま。あなたの国と、私の国で“共存同盟”を結びませんか?
中立宣言を出して、争いから自由な風を作る。それが、ローレ殿や妹たちが望んだ未来だと思うんです」
一瞬、風が止まる。
アウライアの旗が静止し、鐘の音だけが空に響いた。
カリュアはゆっくりと立ち上がり、イリアを見つめる。
その瞳には、涙ではなく、決意の光があった。
「……いいわ。組んであげる。空を飛ぶ者同士、仲良くしましょ」
「ありがとうございます。きっと、ローレ様も笑っています」
イリアが風に髪を遊ばせながら言うと、カリュアは小さくうなずいた。
風都の空を渡る光の筋――幻獣の残した“帰り道”が、まだ残っていた。
二人はその方向を見上げ、そっと目を閉じる。
「ねぇ、ローレ。あなたの風は、ちゃんと届いたわ。」
夜風がやさしく吹き抜ける。
その中に、かすかな笑い声が混じった気がした。
まるで、彼が風そのものになったかのように。
アウライアの街灯がひとつ、またひとつ灯る。
風の都に、夜が訪れる。
けれどその風は、もう悲しみではなかった。
――それは、新しい世界の息吹。
風都アウライアの夜明けは、もう始まっていた。
スピンオフ第3弾は、カリュアとイリアのお話でした。
カリュアは頑張り屋で、少しおてんばなお姫様。
イリアとは対照的に、風のように自由で、どこか不器用な女の子です。
ローレとの関係は最後まで明確には描きませんでしたが、言葉にしなくても伝わる“信頼”を感じ取ってもらえていたら嬉しいです。
作中でも少し触れたように、ローレにはかつて家族がいたという話があります。
では、カリュアは恋人だったの?それとも――?
そんなふうに想像しながら読んでもらえていたら、作者としては大成功です。
そしてイリア。
スミレやアンネとどこか似ているけれど、彼女ほど“お姫様らしい”人はいません。
芯の強さと、長女らしい包容力。
弱音をほとんど吐かない彼女ですが……ホクトや今の騎士団長のタオには、もしかしたら少しくらいは見せているかもしれませんね。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。




