五大悪魔の魂たち
風もなく、波もない。
ただ、水の底のような青白い光が、ゆらりと揺れている。
ホクトは、ゆっくりと目を開けた。
重さはない。痛みもない。
呼吸の感覚すら、もう遠い。
「……ここは」
声は、空気に触れることなく溶けていった。
手を見れば、血も傷もない。
それでも、胸の奥だけが確かに疼いている。
――あの夜。
ローレの血飛沫、タオと蓮の叫び。
焼けつくような痛みのあと、すべてが途切れた。
「……地獄、か。にしては静かだな」
独り言のように呟くと、背後から低い笑い声が響いた。
「地獄なら、もっと騒がしいさ。泣き声と怒号で耳が潰れる」
振り向いた瞬間、ホクトの瞳がわずかに揺れる。
そこに立っていたのは、熊のような体躯の男――ケイだった。
「……ケイ」
「おう。久しぶりだな、ホクト団長?こっちの世界へようこそ」
ケイの低くて挑発するような声が耳に残る。
そうだ、奴は最初からそんなやつだった。いつだって喧嘩腰で、プライドが高くて、饒舌で――ああ、面白いやつだ。
「誰が団長だ。お前は死んだろ」
「お前もだろ」
ケイが大笑いする。その響きが、まるで水底をくすぐるように広がった。
ホクトは小さく息を吐き、座り込む。
「ここは“セラティス”だとよ」
ケイの言葉にホクトは耳を疑う。
「セラティス……?」
「生も死もない、狭間の底。天にも地にも行けねぇ魂が流れ着く場所だ」
ホクトは目を細める。
なるほど、と心のどこかで納得する。
あれだけ人を斬り、血を流し、仲間を失って――
天国になど行けるはずがない。
「似合いの場所だな」
「だろ?」ケイが笑う。「でも、ひとりじゃねぇよ」
そう言って顎で示す先、薄靄の向こうに影が見えた。
ゆっくりと近づいてくる二つの姿。
「……お前は」
「久しいわね、ホクト」
銀髪を揺らして現れたのは、スミレの母――アンネだった。
その隣には、黒い外套の狼男。タオの父、ガオス。
ホクトの胸がわずかにざわめいた。
言葉を探そうとしたが、喉の奥で詰まる。
アンネが微笑んだ。
「そんな顔、しないで。もう、いいの」
「……いい、わけがない。俺たちがここにくるならまだしも……お前は、アンネだけは違うだろう」
「ええ。でも、もう終わったのよ。あなたも、あの子たちも」
ガオスが腕を組んで言った。
「まさかお前、俺を斬ったこと、まだ気にしてるのか?」
長い髪が揺れ、頭の狼の耳がピクリと動いた。
「当たり前だ。お前の息子にどれほど恨まれたか」
「ああ、そうか。確かにタオは俺に似て粘り強いからな」
不意に、ガオスは笑った。
「お前に斬られて、ようやく“血”が止まったんだ。俺は感謝してる」
「……そんな言葉、聞きたくなかったな」
「そう言うと思った」
三人の間に、静けさが戻る。
セラティスの海は、穏やかに光を映している。
「……ローレも、ここにいるのか?」
ホクトの問いに、アンネがうなずく。
「ええ。もうすぐ、あなたに会いたいって」
ホクトは目を閉じた。
胸の奥で、何かがほどける音がした。
まだ赦されない。けれど、もう逃げなくていい。
「……そうか」
ホクトは小さく息を吐いた。
「そうよ。だから、少しは顔を上げて」
アンネの声が、水の揺らめきと共に消えていく。
まるで、祈るように。
ホクトはゆっくりと歩き出す。
足音は響かない。
けれど、水面のような光が揺れて、彼の進む道を照らしていた。
やがて、ひとつの影がその先に立っていた。
背を向け、腕を組んで、まるで待ち伏せでもしていたように。
ホクトは立ち止まる。
呼吸も、鼓動も、少しだけ早くなった。
「……よお、ホクト」
その声が響いた瞬間、世界が少しだけ色づいた気がした。
ゆっくりと振り向いたその顔――
漆黒の髪に、穏やかな笑み。どこまでも懐かしい。
「っ……ローレ」
胸の奥が痛む。
あの夜の光景がよぎる。
血飛沫、剣、そして自らの手で止めた命。
「ったく、痛えじゃねえか!」
ローレはニヤリと笑い、胸を叩いた。
「少しは手加減しろよな、相棒」
その言葉に、ホクトの喉が震える。
だが、次の瞬間、ふっと笑みがこぼれた。
「……手加減したつもりだった」
「嘘つけ。お前の“手加減”は骨が折れる」
ローレは肩で笑い、歩み寄る。
そして、軽く拳を合わせた。
懐かしい音が、確かに響く。
「……お前が、生きていて、よかった」
「いや、死んでるさ。でも――まだ終わっちゃいねぇ」
ホクトは小さく頷く。
それ以上、言葉はいらなかった。
ローレは隣に立ち、同じ空を見上げる。
セラティスの空には、青白い光が流れていた。
それは星霧にも似て、けれどもっと穏やかで、どこか優しかった。
「ここは、悪くねぇな」
ローレが呟く。
「戦いもねぇし、血の匂いもしねぇ。ただ……静かだ」
「……そうだな。ようやく、休める」
二人の間を、柔らかな光が通り抜けた。
ケイが遠くから手を振り、アンネが微笑んでいる。
ガオスが不器用に腕を組んだまま、鼻を鳴らした。
ローレが少しだけ真顔になる。
「なあ、ホクト。
あの時、俺を斬ってくれて、ありがとな」
「……礼を言うな」
「言わせろ。お前が止めてくれなきゃ、俺はずっと血の中でもがいてた」
ホクトは何も言わず、ただ目を閉じた。
その沈黙の中に、確かな赦しがあった。
やがて、ローレは笑って言った。
「じゃあ、これからは一緒にセラティスの管理でもしてくか?」
「やめろ、縁起でもない」
「じゃあ天国の門番?」
「それもごめんだ」
「じゃあ……この街の酒場でも作るか。ケイが喜びそうだ」
ホクトの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「……悪くない」
セラティスの空に、光が一筋、降りてきた。
それは二人の肩を包み込み、どこまでも静かに輝いていた。
地獄にも、天国にも行けぬ魂たち。
けれど――確かに、ここには“生きる”時間があった。
スピンオフ第2弾は、ホクトと五大悪魔たちの物語でした。
彼らは、私の中で父性や母性の象徴です。
蓮やスミレの視点から見れば、どこか大人で、頼れて、揺るぎない存在に見えるかもしれません。
けれど本当は、彼らも同じです。
強いふりをして、責任を背負って、それでも立ち止まらないだけの弱虫。
それでも彼らは戦い続けました。守るべきもののために。
だからこそ今回、ようやく彼らにも休める場所が生まれた気がします。
ここまで読んでくれて、ありがとうございました。




