狭間で俺が出会ったのは、 後編
「蓮、仕事行ってくるからね」
スーツ姿の未彩は息子の部屋に顔を出し、明るく声をかけた。
「ん……」
眠そうに返した蓮は、布団を頭までかぶる。
未彩は苦笑しながら肩をすくめた。
「お昼は適当に済ませてね。それじゃ、行ってきます!」
外から車のエンジン音が響く。
ドアの閉まる音がして、家の中が静かになった。
──そこで、蓮はハッと目を開けた。
額には冷たい汗。
呼吸が荒く、心臓の鼓動が耳の奥で響いている。
見慣れた天井。聞き慣れた車の音。
なのに、何かが違う。
夢を見ていた気がする。
でも、思い出そうとすると胸の奥が痛む。
「……なんだ、これ……」
掌を見つめる。震えている。
喉が乾き、息を吸い込むと──胸の奥がずきりと疼いた。
そのとき、頬を伝う温かい感触に気づく。
「……俺、泣いてる……?」
理由もわからず、涙が一粒、シーツを濡らした。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋を淡く染める。
遠くからは近所の犬の鳴き声、子どもの笑い声、いつもの冬の朝。
──それなのに、何もかもが少しだけ“違う”。
壁のカレンダーに目をやる。1月5日。
冬休みも残り三日。
手を伸ばして一枚破り、日付は5から6へと変わる。
ベッドから降りてカーテンを引くと、柔らかな光が部屋を包み込んだ。
庭に目をやると、昨晩降ったはずの雪はすっかり消えている。
(……雪なんて、降ってたっけ?)
一瞬そう思ったが、なぜそう感じたのか分からない。
机の上のリモコンを手に取り、テレビをつける。
「今日は洗濯日和です。昨日に比べて暖かくなるでしょう」
アナウンサーの声が流れる。
蓮は黒のダウンジャケットを羽織りながら、クローゼットを閉めた。
そのとき──
ポケットの中で、コツンと小さな音がした。
「……?」
取り出してみると、そこには紫色のピアスがひとつ。
金具の部分が少し欠けていて、けれど宝石のように淡く光っている。
見覚えは、ない。
けれど、どうしてか“懐かしい”ような感覚が胸を締めつけた。
指先でそっと触れると、ほんの一瞬、耳の奥で“歌”のような響きがした気がした。
空耳だろうか。
息を呑み、ピアスをポケットへ戻す。
「……なんだよ、これ……」
呟いてテレビを消すと、階段を降りた。
玄関には、使い古した靴が一足。
冷たい空気が流れ込む。
「行ってきます」
扉を開けると、風が頬を撫でた。
近くの公園から子どもたちの笑い声。
自転車のベルの音。
すべてが、どこか懐かしい。
「よっ、蓮! おはよ!」
「おっはよーう、蓮!」
快人の声。
その後ろで、はな美が笑って手を振っている。
いつも通りの朝。
それなのに──不思議なほど、安心する自分がいた。
「はな美、また快人の後ろに乗ってるのかよ。そろそろ自分で漕げよ」
「え〜、じゃあ蓮が乗せてくれる?」
風に揺れる髪、眩しい笑顔。
その一瞬が、胸の奥で何かを呼び起こした。
“同じような光景を、どこかで見た気がする──”
「いや、それは勘弁だわ。快人、今日もはな美を頼む」
「はっはーん、了解! それじゃあ行こうぜ!」
快人はキャップを深くかぶり直し、ペダルを踏み出した。
「おい、ちょっと待てよ!」
蓮は自転車にまたがり、二人の後を追う。
そのとき──
風の音に混じって、微かな“歌”が聞こえた。
どこからともなく届く旋律。
遠く、優しく、涙のように滲んでいく声。
蓮の足が止まる。
心臓が早鐘を打つ。
さっきポケットに入れたピアスが、かすかに冷たく光った。
「……なんだ……この感じ……」
息を吸い込むと、胸の奥が疼いた。
懐かしさと痛みが一緒に込み上げる。
何かが、深いところで脈打っている。
鼓動が早い。心臓が、暴れている。
──行かなきゃ。
理由なんて分からない。
けれど、その声に呼ばれるように。
蓮はペダルを踏み込んだ。
冷たい風が頬を裂く。
街の景色が、溶けるように流れていく。
胸が苦しい。息が荒い。それでも止まらなかった。
「お! おい、蓮!」
「ちょ、どこ行くのよ!」
快人とはな美の声が背中越しに響く。
だが、振り返ることはなかった。
前を見据え、ただペダルを踏み続けた。
通り過ぎるスーパー、公園、本屋。
クロスケのいた角、新聞を読んでいたおじいさん、タバコをふかしていたお兄さん──。どれも見覚えのある“いつもの朝”のはずなのに、色も音も、すべてが薄膜の向こうにあるようだった。
風の匂いが変わっていた。
懐かしい草花の香り。
春でもないのに、確かにあの森の風が吹いている。
どこへ向かっているのか分からない。
けれど、身体の奥が覚えている。
“あの場所”まで、あと少し──。
耳の奥に、音が響いた。
最初は風のせいだと思った。
でも違う。
それは──歌だった。
ずっと聴きたかった、どこかで聴いたことのある歌声。
胸の奥が、強く震えた。
──あの声だ。
視界が滲む。風が涙を攫う。
足が震えても、ペダルを踏み続けた。
道が歪む。街が遠ざかる。
いつの間にか、世界が変わっていた。
気づくと、森の入口に立っていた。
ハンドルを握る手が震えている。息が荒い。
タイヤの音も風の音も消え、ただ、土の匂いだけが鮮明だった。
この場所を知っている。
木々の間から差す光の角度も、葉を揺らす微かな音も。
あのときと同じだ──いや、違う。
すべてが、少しだけ滲んで見える。
まるで記憶の奥から呼び戻された夢の断片みたいに。
ハンドルを放り出し、蓮は駆け出した。
靴底が湿った土を叩くたび、音が遠のいていく。
枝を掻き分け、倒木を飛び越え、心臓が破裂しそうなほど脈打っても、止まらなかった。
──いる。
言葉にならない確信が胸を満たしていた。
風が頬を切る。肺が焼ける。
それでも走った。
光が、前方で揺れている。
森の奥、木々の隙間からこぼれる白い光。
足が勝手に向かう。
何かが、そこにいる。
木々の間を抜けた瞬間、光が爆ぜ、目を射す。
眩しさに思わず足が止まり、手で庇う。
視界がゆっくりと戻ったとき──
そこに、彼女がいた。
静かに座り、両手を膝に置き、
光の粒を見上げている。
風がそっと髪を撫で、涙の雫が頬を伝って落ちた。
あの日と同じ姿。
けれど、背中にあったはずの翼は、もうそこにはない。
それでも不思議と──彼女のまわりには、光が舞っていた。
まるで、目に見えない羽ばたきの余韻が、まだ世界に残っているように。
ああ、どうして早く気づかなかったんだろう。
彼女はずっと、こうして待っていたんだ。
あの日からずっと。
喉が詰まり、胸の奥が熱くなる。
声を出すだけで、涙がこぼれそうだった。
「──スミレ」
名前を呼んだ瞬間、世界が震えた。
風が止み、光だけが、静かに濃くなっていく。
彼女の肩が、わずかに震えた。
そして、ゆっくりとこちらを振り向いた。
目が合った。
時間が、止まった。
気づけば、もう走っていた。
距離なんて、意味がなかった。
次の瞬間には、腕の中に彼女がいた。
温かい。
確かに、生きている。
柔らかな髪が頬に触れ、息が肩にかかる。
心臓の鼓動が、彼女の胸から伝わってくる。
「……おかえり」
震える声が耳元で溶ける。
その声を聞いた瞬間、膝が崩れそうになった。
「ただいま」
喉が震える。
その言葉が、やっと世界に帰ってきた気がした。
スミレの細い腕が、背中をぎゅっと締めつける。
離さないで、と言うように。
その温もりが、すべての痛みを溶かしていく。
翼は、もうどこにもなかった。
けれど、蓮には見えた。
彼女の背に、確かに残る光の残響。
それは羽ではなく、彼女がここまで生きてきた証のように。
「スミレ──うちに帰ろう」
彼女が笑う。
涙の跡を残したまま、やさしく、静かに。
──狭間で俺が出会ったのは、。
蓮は、スミレの手をぎゅっと握った。
【2025/11/03】
『狭間で俺が出会ったのは、妖精だった』完
まずは、ここまで読んでくださった読者の皆さま、本当にありがとうございました。
最終章の執筆には想像以上に時間を費やしてしまい、更新頻度の変更などもありましたが、それでも温かく見守ってくださったこと、心より感謝しています。
人は誰しも弱さを抱えていて、ときに一人では立ち上がれないことがあります。
蓮とスミレは、そんな不器用で繊細な存在でありながらも、互いに手を伸ばし、救い合おうとした二人でした。
彼らを書き続ける中で、私自身もたくさんのことを救われた気がします。
もし皆さんの中にも、少しでも彼らを愛おしく思ってくださった方がいたなら、それ以上の幸せはありません。
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〈今後の活動について〉
本作品は、リメイク版の制作を予定しています。
ノベルアップ+さんやアルファポリスさんでの展開を検討中です。
振り返ると本当に未熟で、「もっと描きたかったのに」と悔いが残る部分もあります。
というか、悔いしかありません。後半は特に早足になってしまったし、思い通りに描けなかったところもたくさんあるし。
けれどそれも含めて、今の自分がこの物語に注いだすべてです。
またいつか、リメイク版で再びお会いできたら嬉しいです。多分全然違う結末になると思います。新しい世界線も、楽しみにしてもらえたら嬉しいです。
今後はスピンオフなどで他キャラクターたちの物語も描いていけたらと思っています。
それぞれがどんな結末を迎えたのか、どうか見届けてください。
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最後まで本当にありがとうございました。
この物語を読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
ファンアート(@灯音まひる様)から頂きました!お祝いありがとうございます!




