狭間で俺が出会ったのは、前編
──熱い。
身体が焼けていく。
光も、音も、何もかもが遠ざかっていく。
どれほど叫んでも、声は空に溶けた。
世界が崩れ、歪みが呑み込まれる音だけが響いている。
それでも、聞こえた。
──お願い……戻って……
微かな声が、炎の向こうから届く。
誰の声か、わかっている。
忘れられるはずがない。
目を閉じた瞬間、光の向こうに彼女の影が見えた気がした。
焼け焦げた大地の上、スミレがこちらへ歩み寄ってくる──。
「ねえ……お願いだから……」
その声が、涙が、空気を震わせた。
黒い翼が大地を覆い、世界が崩れる。
──やめろ。
止めたい。
だが、腕が勝手に動く。
意志とは裏腹に、闇が溢れ、スミレを遠ざけようとする。
“おまえには何も守れない”
頭の奥で、低い声が囁く。
何度も聞いた。
心の底に巣食っていた“何か”の声だ。
“また壊すだけだ。おまえが触れるものはすべて”
やめろ──!
胸の奥が灼けるように痛い。
息をするたび、世界が軋んだ。
それでも、スミレの声が聞こえる。
「私たち、約束したよね……ずっと一緒だって……」
その瞬間、闇の中で風が生まれた。
彼女の髪が舞い、空気が震える。
スミレは静かに目を閉じ、胸の前で両手を組む。
──光が、彼女の背に咲いた。
そこには何もないはずだった。
あのとき、失われたはずの翼。
けれど今、彼女の意思が形を成し、白く、黄金にきらめく羽がゆっくりと広がっていく。
それは現実のものか、心が見ている幻なのか。
どちらでもよかった。
蓮には確かに見えた。
闇を祓うように広がる、優しい光の羽が。
羽から零れた粒子が、蓮の身体を包む。
焦げついた皮膚を撫で、燃えるような痛みを冷ましていく。
熱が、静かに引いていく。
黒い闇が、少しずつ光に溶けていく。
その言葉が、胸を突いた。
心の奥で、何かが砕けた。
熱が、少しずつ冷えていく。
──スミレ。
まだ、届くのか。
まだ、間に合うのか。
手を伸ばす。
それでも、黒い腕が絡みつく。
視界の端で、影が牙を剥いた。
「おまえはサタンの血だ。人の願いなど届かない」
違う。
俺は──もう、逃げない。
光が弾ける。
心の奥で、何かが破裂した。
スミレの声が、闇を裂いた。
「お願い……蓮……戻って──!」
白金の羽が一層強く輝き、
彼女の全身が光そのものに溶けていく。
羽の輪郭が揺らぎ、現実の境界が霞む。
黒い羽が燃え、灰となる。
腕を縛っていた影が崩れ落ちていく。
息を吸い込む。
ようやく、自分の身体が自分のものに戻った。
──ああ、聞こえてる。
スミレ。
俺は、ここにいる。
光が爆ぜ、世界が反転する。
蒼と紅が混ざり合い、狭間が形を取り戻していく。
崩壊する世界の中で、ただひとつの声だけが残った。
「どうか、もう一度……」
***
眩しい光のあと──音が消えた。
熱も、痛みも、何もない。
気づけば、柔らかな風が頬を撫でていた。
見覚えのある草の匂い。
頭上には、あの日と同じ梢の揺れ。
鳥の声が、遠くで静かに響いている。
──ここは……。
ゆっくりと目を開く。
そこは、“出会いの森”だった。
最初に彼女と出会った場所。
全てが始まったあの場所。
足元に、ひとりの少女が座っていた。
膝の上に手を置き、光を見上げている。
その頬を、一筋の涙が伝っていた。
「……スミレ」
声に気づいた彼女が、ゆっくりと振り返る。
驚きと、安堵と、優しさが入り混じった表情。
どこか夢の中のように、彼女は微笑んだ。
「……帰ってきたのね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
息を吸い込むと、肺の奥にまで光が満ちるような気がした。
光に透けて揺れる髪、わずかに震える肩。
何度も、何度も救われてきた。
今度こそ、何かを返したい――胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
けれど言葉は喉で詰まり、声にできない。
「スミレっ……」
もう一度彼女の名前を呼ぶ。
咄嗟に出たのは、その名前だけだった。
スミレは微笑み、静かに答える。
「蓮、戻ってきてくれてありがとう」
彼女の掌が、そっと蓮の頬に触れる。
その温もりが、確かに“現実”だった。
ーーああ、本当に俺は、彼女に助けられてばかりだ。
涙が滲む視界の中、足元の地面がふっと淡く光を帯びた。
森の隙間を光の筋が走って空へ吸い込まれていく。風がわずかに震え、木々のざわめきが遠のく。
「……狭間が、閉じていくのね」
スミレが小さく呟いた。
蓮はその瞳を見つめる。光が映り込み、終わりを受け入れた静かな微笑み――その一瞬が、胸を締め付ける。
世界が、ゆっくりと沈んでいくように感じた。
(待って……スミレ、まだ行かないで……!)
心の奥で叫ぶ。だが時間は無情に迫る。
指先からこぼれる光が、彼女をゆっくり、確実に遠ざけていく。
体が思うように動かず、焦燥が胸の奥で渦巻く。
「もう大丈夫。歪みは消えた。狭間は、正しい形に戻ったの」
スミレの声が穏やかに耳に届く。
「……あなたは、帰らなきゃ」
無力さが胸を押し潰す。
それでも、手を離すことはできない。
「いやだ……俺は、スミレをもう二度と離さないって決めた――!」
声は震えた。焦りと決意が入り混じり、時間の流れが一瞬止まったように感じる。
スミレの髪が光と共にほどけ、風に揺れる。
それでも微笑みは変わらない。
「大丈夫よ」
光が弾け、蓮の身体を後ろへ押し出す。
手を伸ばしても、指先の光の間に、彼女の存在は徐々に薄れていく。
声も、姿も、すべてが光に溶けていった。
それでも、最後に見えた微笑みだけが、焼きついたように離れなかった。
世界が反転する――。




