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始まりの場所

――轟音が、すべてを呑み込んだ。

 

 ミネルが消えた直後、神殿全体が悲鳴を上げるように揺れ始めた。

 白い床が波打ち、光の柱が軋み、崩れた破片が水泡とともに宙を舞う。


「離れてください!」

 イゼナの声が響く。次の瞬間、蓮たちの足元が裂けた。

 膝まで沈むほどの水が押し寄せ、神殿の内部を濁流が駆け抜ける。


 蓮は咄嗟にスミレの手を掴み、美穂の腕を引く。

「イゼナ、出口はどこだ!」

「――急ぎます、こちらです!」


 崩れゆく天井の下を駆け抜けながら、イゼナは祈るように印を結んだ。

 彼女の掌から淡い光が走り、通路の奥に水の結界が張られる。

 まるで海そのものが彼女に従っているかのようだった。


「ミネルは……!」


 スミレの声が震える。

 イゼナは一瞬だけ目を閉じ、かすかに首を振った。


「彼女の意思です。核と一体化した――もう、引き戻せません」


 その言葉が胸を裂く。だが立ち止まれば、全員が呑まれる。

 蓮は奥歯を噛み、振り返らずに走った。


***


 やがて、光が開けた。

 駆け抜けたその先は、海底とは思えぬほど眩しい蒼。

 外――セラティスの中心広場だった。


 だが、見慣れたはずの街の姿はそこになかった。


 海流が渦を巻き、塔が光を帯びて震えている。

 まるで都市そのものが“生きている”。

 ドーム状の天蓋がゆっくりと動き、空を覆っていた膜が剥がれ落ちる。


 その中心に――巨大な光の輪が、浮かんでいた。


 心臓の鼓動のような振動。

 核が、再び動き出した。


「……セラティスが、動いてる……?」


 美穂が息を呑む。

 イゼナは静かに頷いた。


「この都は“封印”そのもの。核が目覚めた今、セラティスは再び歪みを抑える器として機能を取り戻すのです」


 光が水面に散り、無数の鱗片のように舞い上がる。

 その一つが、スミレの掌に触れた。

 柔らかく光りながら、すぐに溶けて消える。


「ミネル……」

 その名を呼ぶ声に、風が応えた。


 ――ありがとう。


 誰の声でもなく、けれど全員の胸に届く気配。

 それがミネルの最期の言葉だった。


 だが、安堵はすぐに打ち消された。


 イゼナがふと空を見上げ、息を呑む。

 海流の向こう、狭間が――歪みが――ゆっくりと閉じていくのが見えた。


「……待って。あれ、何……?」

 美穂が震える指で指した先。

 光の筋が、まるで糸を編むようにゆっくりと絡み合い、空間を塞いでいく。


 スミレがその気配に目を閉じて、息を詰めた。

「……道が、消えていく……歪みが……本当に消えているの……?」


 イゼナの声は静かだった。

「――核が機能を取り戻したのです。

 これで歪みは抑えられ、世界は安定する。

 けれど……“狭間”を通じた行き来は、もう二度と叶いません」


 沈黙。


 スミレが小さく肩を震わせ、美穂が唇を噛んだ。

 蓮はただ、空を見つめていた。



 もう、帰れない。



 その現実が、音もなく胸に沈み込む。


***


 その時、空気が変わった。

 足元から、熱が這い上がる。


「……あつ……」


 スミレが目を見開く。

 蓮の腕に、淡い光の紋様が浮かんでいた。

 青とも銀ともつかぬ鱗のような文様――まるでラミアの血が、反応しているようだった。


「れ、蓮、それ……!」


 美穂が叫ぶ。


 蓮は苦しげに息を吐き、膝をついた。

 背中の奥で、何かがうねるように蠢く。

 押し込めていた“何か”が、再び目を覚ます。


「……核が……呼んでる……」


 彼の声は、もはや人のものではなかった。

 低く、どこか獣のように響く。


 スミレが駆け寄り、蓮の背に手を添える。


「だめ、落ち着いて! まだ呑まれないで!」


 花のような光が広がり、スミレの魔力が蓮を包む。

 だが、それでも熱は鎮まらない。


 イゼナが祈るように言った。

「セラティスの再起動は、血に宿る力も呼び覚まします。――マーレの末裔としての、真なる姿を」


 その言葉に、美穂が顔を上げる。

「じゃあ……これは、ただの再生じゃない。始まり……なんだね」


 イゼナは頷く。

「ええ。セラティスは“眠り”から覚めた。

 この海は、もう誰のものでもありません」


「いや……お願い!蓮を…!蓮を助けて!」


スミレの叫びに、イゼナは目を閉じた。

「……止めることは、できません。彼の血が核と同調している。

 けれど――導くことは、できるはずです」


 その瞬間、蓮の身体が弾かれるように立ち上がった。

 轟音が広場全体を包む。

 蒼白い光が彼の背からあふれ、空気が裂けた。


「……ぐっ、う……!」

 呻きと共に、背中から黒い影が噴き出す。

 それは翼――否、まだ形を成しきれぬ竜の羽だった。

 鱗が皮膚を侵食し、血管のような紋が腕を這い、

 指先が鋭い爪へと変わっていく。


「蓮、やめて――!」

 スミレが抱きつこうとした瞬間、

 熱波が吹き荒れ、彼女の身体が弾き飛ばされた。

 海の中のはずなのに、炎のような風。

 空気そのものが、蓮の怒りと混ざり合って燃えている。


 美穂が防壁を展開する。

 だが、竜の咆哮が響くと同時に光の膜がひび割れた。

 ――音ではない。圧。

 世界そのものを押し潰すような、存在の咆哮。


 蓮の瞳が開かれる。

 その双眸は、もう人のものではなかった。

 蒼く、紅く、幾千の光がうねる。

 水面に映る彼の影が、竜の輪郭を描いて揺らめいた。


 イゼナが後ずさる。

「……完全に、目覚めてしまいました。

 ミネルと同様、核と一体化しようとしている……!」


 スミレはふらつきながら立ち上がり、両手を胸の前で組んだ。


「……お願い……私に力を……!」


 イゼナの目が見開かれる。


「……狭間がまだ完全に閉じていません。

 彼を鎮める方法が残されているとすれば……始まりの場所でなければ――!」


「始まりの、場所ーー?」


その言葉に、スミレの脳裏が一瞬、光に染まった。

胸の奥がざわめく。あのとき、風が揺れて、木漏れ日がきらきらと踊っていた。

……そう、あれが“始まり”だった。


──湿った森の匂い。

涙で霞む視界の向こう、木々のすき間から一人の少年が現れた。

なぜ、泣いていたのかさえ覚えていない。ただ、心の底から「助けて」と願っていた。

自分でも理由のわからない孤独と恐怖の中で、何かが壊れそうだった。


 歌うことでしか保てなかった心の輪郭。

 それが途切れかけた瞬間――蓮がいた。

 

 目が合ったとき、胸の奥で何かが弾けた。

 彼は怯えたように、けれど真っ直ぐに手を伸ばしてきた。

 その掌の温かさに、世界が音を取り戻していく。

 

(この人は……わたしを見てくれる)

(消えてしまいたくない。まだ、生きていたい――)


 涙が頬を伝った。

 彼は慌てたように抱きしめてくれたのだ。

 その時の温かい声が、胸の奥に染み込む。

 森のざわめきも、鳥の羽音も、すべてが遠のいていった。


 あの瞬間、たしかに“始まった”のだ。

 彼と、そしてこの世界と、私の運命が。



「行くわ……私を連れて行って!」


美穂が振り向く。


「行くって……スミレ、それって戻れないってことよ!」

スミレは小さく笑った。

その笑みは、涙よりも静かで、光よりも確かなものだった。


「わかってる。

 でも……“あの時”から、きっとそのためにここにいたんだと思う」


 彼女は蓮を見つめた。

 炎のような光の中で、竜の影が苦しげに身をよじっている。

 “助けて”と叫ぶ声が、確かに聞こえた。


 スミレが光の方へ一歩踏み出そうとした、その時。

 美穂が彼女の手を掴んだ。


「待って」

 その声は震えていたが、強かった。

「スミレ……私も、あなたに伝えなきゃいけないことがあるの」


 スミレが目を見開く。

 美穂は小さく息を吸い、微笑んだ。


「私には、居場所なんてなかった。

 ずっと誰かの代わりで、空っぽのままここまで来た。

 でもね――あなたたちが、“私を置いてくれた”の。

 一緒に笑ってくれて、戦ってくれて、怖い時に手を握ってくれた。

 本当に……ありがとう」


 彼女の頬を一筋の涙が伝う。

「私はここに残る。

 この都市を、セラティスを――そして、この架空界を必ず守ってみせるわ。

 だから、行って。あなたは彼を救って」


 スミレは唇を噛み、そして笑った。

「……ええ。約束する」


 二人の手が静かに離れる。

 イゼナが低く呟いた。


「――歪みの道を、開きます」


 海の底が光に包まれ、青白い柱が天へと伸びていく。

 それが“狭間”への最後の道――

 閉じゆく世界と、まだ交わる最後の瞬間。


 スミレはその光へ足を踏み出した。

 瞬間、世界が反転する。

 轟音が遠ざかり、代わりに焦げた匂いが満ちた。



***



 焦げた大地の上、風がない。

 炎の匂いが鼻を刺し、あたりは静寂に包まれている。


 彼女は膝をつき、息を整えた。

 その視線の先に――竜の影を背負った蓮が立っていた。


「お願い……戻って……」


 かすれた声が震える。

 焼け焦げた草の間から必死に立ち上がろうとしていた。

 その瞳には、途切れ途切れに涙が溢れている。


 遠くに立つ蓮は、もう人の姿をしていなかった。

 黒い翼が闇に溶け、世界を覆う。

 彼の中の“核”が、最後の歪みを飲み込もうとしている。


「ねえ……お願いだから……」

 スミレは一歩、また一歩と進む。

 足元の大地が砕け、光が弾ける。

 それでも構わなかった。


「私たち、約束したよね……ずっと一緒だって……」

 その声に、蓮の瞳がかすかに揺れた。


「お願い……蓮……戻って――!」


 黒い羽が宙を舞い、世界が歪む。

 燃え盛る火の粉の中で、スミレは両手を伸ばした。


「どうか、もう一度……」


 光が二人を包み込む。

 その中心で、蒼と紅が混ざり合い、

 狭間がゆっくりと、正しい形を取り戻していった――。


次回で完結です。

明日投稿予定です。お願いします!

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