表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
119/129

崩壊と再生

 夜は、言葉もなく、ただ呼吸だけで過ぎていった。


 朝――

 遠くで水音がした。

 セラティスの夜明けは、光ではなく、水面の揺らぎから始まるらしい。

 部屋の壁に反射した青い光が、静かに脈打つように揺れていた。


 蓮は身を起こし、ふと横を見る。

 スミレはすでに目を覚ましていた。何も言わず、ただ薄く笑って「おはよう」とだけ告げた。


 言葉を交わす余裕はなかった。

 夢なのか現実なのかすら曖昧なまま、蓮は水面に映る自分をのぞき込む。

 ――頬をかすめる、銀とも蒼ともつかぬ鱗の影。

 瞬きをすると、それはもう消えていた。


(……時間が、ない)


 胸がわずかに軋む。

 だがスミレは何も言わない。ただ静かに、蓮の背にそっと手を添えた。


 その時だった。

 扉の向こうから、柔らかな気配が近づいてくる。


「――支度はよろしいですか」


 イゼナの声だった。


 扉が開く。

 そこには、夜と同じ静かな眼差しで立つイゼナの姿があった。


「神殿の深部をご案内します。核が眠る場所へ、通じる道かもしれません」


 それは探索というより、巡礼に近い響きだった。


 蓮は立ち上がり、仲間の方へ振り返る。

 美穂とミネルもすでに目を覚ましていた。

 言葉はない。ただ、それぞれの覚悟だけが、部屋に満ちていた。


 スミレが小さくうなずく。


 ――こうして、四人と一人の案内人は、神殿の奥へと歩み始めた。


 ***


 イゼナは振り返らず、ただ一定の速さで歩き続けていた。


「……道は、存在しません」


 彼女の言葉は、歩みを止めずに落とされる。


「セラティスは、形を持ちながら形を捨てた都。核が眠る場所は、探して辿り着くものではない。――呼ばれた者のみが、立つことを許されます」


 蓮は無意識に眉をひそめた。

 そんな曖昧なものを、どうやって――そう思った、その時だった。


 微かな違和感が、背筋をなぞった。


 美穂が立ち止まっていた。


「……ねぇ、さっきから……妙じゃない?」


 彼女は囁くように言う。


「進んでいるはずなのに、景色がひとつも変わってない。回廊の紋様……ずっと同じのが続いてる気がする」


 ミネルも足を止めた。

 無表情のまま、壁に触れる。指先が、かすかに震えていた。


 いつの間にか、石造りの道は消えていた。

 足元には床とも地面とも名づけ難い、白とも灰ともつかない薄膜のような大地。

 歩けば柔らかく沈み、だが音はしない。

 まるで夢の底を歩いているかのようだった。


 左右には柱の列が続いている。

 けれど、それもまた形を保てず、ところどころ輪郭が霞み、淡く揺らめいている。

 柱であるはずなのに、次の瞬間には木立のように見えたり、波打つ布のように見えたりした。


 ――ここが、神殿の“奥”?


 誰も口に出さなかったが、全員が同じ疑問を抱いていた。

 だがイゼナだけは、迷うことなく前を歩いてゆく。

 その背は静かで、まるですべてを知っている者のようでもあり、記憶を辿っている者のようでもあった。


 ふと、天井が消えていることに蓮は気づく。

 見上げれば、ただ限りのない空白だけが広がっている。

 暗くもなく、明るくもない。夜と昼の、どちらにも属さない空。


 ミネルが小さく息を呑み、美穂は眉を寄せる。

 スミレだけが、その空を見つめたまま足を止めた。

 何かを、聴いているように。


 ――呼ばれている。


 彼女の胸に、言葉ではない声が触れた。

 それは祈りのようでもあり、泣き声のようでもあった。


「ここは……何なんだ」


 蓮の声は小さく、自分でも驚くほど澄んでいた。

 イゼナは振り返らずに答える。


「神殿は、我々マーレ族を守るために造られました。ですので――奥へ進む者を、拒む造りでもあります」


 拒む?


「正しき心を持つ者には、道が変わる。そうでない者には、同じ場所を巡り続ける。ここは、歩みそのものを試す場所」


 足元の大地が、さざ波のように震えた。

 まるで、誰かが目を覚ましたかのように。


 その瞬間――視界の端で、揺らめく影が立ち上がった。


 最初は、光の残像だと思った。

 けれど、それは輪郭を帯び、形を成し、やがて人の姿になってゆく。


 ひとり、またひとり。

 彼らは何も語らず、音もなく、ただそこに“いた”。


「……人?」


 美穂が思わずつぶやく。

 だが、それは“生きた人間”ではなかった。


 衣は潮を含んだ布のようにひるがえり、髪は水底の草のように揺れ、瞳には深海の静けさが宿っている。


 ――わかる。

 この気配、この温度。

 ここにいるのは、人ではない。


 マーレ族。

 そして、その中心にいる女だけは――


 ひときわ鮮やかに、その影が姿を結んだ。


 長い髪は銀青に流れ、瞳は透き通った赤。

 その面差しは、どこかホクトに似ていて、どうしてかスミレに似ていて――


「……ラミア」


 名を呼んだのは、ミネルだった。

 震えでも恐怖でもない。

 それは、記憶の奥底に触れるような、確信に満ちた声だった。


 ラミアは何も言わなかった。

 ただ、こちらを見た。

 まるで――ずっと待っていた者を見る目で。


 ラミアの唇が、音もなく開いた。

 そのはずだった。

 だが、その声は確かに、四人すべての胸の内で響いた。


 ――待っておったぞ、我が子たち。

 扉を開け、核を呼び覚ませ。

 狭間の歪みを……封じるのじゃ。


 その言葉に、蓮は思わず拳を握る。

 美穂は唇をかみ、スミレはただ静かに目を伏せる。


 だが――ひとり、膝が揺れた者がいた。


 ミネル。


 彼女の瞳だけが、ラミアの残像とまっすぐに結ばれていた。


「……どうして、今さら私たちに託そうとする」


 震える問い。

 だが、ラミアは答えない。

 ただ、その背後で――扉が開き始めていた。


 水も石も拒むはずの空間に、黒い裂け目が現れる。

 底の知れぬ“ゆらぎの底”。

 核が沈んだ、罪と始祖の源。


 ミネルは、一歩、踏み出した。


「だめ、ミネル!」

 美穂が叫び、蓮も思わず腕を伸ばす。


 ミネルは振り返らない。

 その代わり、静かに言った。


「あなたたちは……まだ、やるべきことがある」


 その声は、不思議なほど澄んでいた。


「元々、私は……死んだような命だ。千尋は――私は、大きすぎる罪を犯した。ラミアは……このために、私を生かしたのだろう」


「待て、それは違――!」


 蓮の言葉が終わる前に。


 ミネルは、扉に手をかけた。

 その手は、迷いも怒りもなく――ただ、決意だけに染まっていた。


「ならば……せめて、贖おう。これは、終わりじゃない。あなたたちの帰る道を……繋ぐために。」


 そして――ミネルは振り返らず、飛び込んだ。


 ――その瞬間。


 海底神殿が、軋みを上げた。


 地鳴りのような震動。

 壁を走る亀裂。

 崩れ落ちる水晶柱。


 イゼナが目を見開く。


「始まってしまいました……核が――目覚めます!」


 それは、終わりを告げるすべての始まりだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ