崩壊と再生
夜は、言葉もなく、ただ呼吸だけで過ぎていった。
朝――
遠くで水音がした。
セラティスの夜明けは、光ではなく、水面の揺らぎから始まるらしい。
部屋の壁に反射した青い光が、静かに脈打つように揺れていた。
蓮は身を起こし、ふと横を見る。
スミレはすでに目を覚ましていた。何も言わず、ただ薄く笑って「おはよう」とだけ告げた。
言葉を交わす余裕はなかった。
夢なのか現実なのかすら曖昧なまま、蓮は水面に映る自分をのぞき込む。
――頬をかすめる、銀とも蒼ともつかぬ鱗の影。
瞬きをすると、それはもう消えていた。
(……時間が、ない)
胸がわずかに軋む。
だがスミレは何も言わない。ただ静かに、蓮の背にそっと手を添えた。
その時だった。
扉の向こうから、柔らかな気配が近づいてくる。
「――支度はよろしいですか」
イゼナの声だった。
扉が開く。
そこには、夜と同じ静かな眼差しで立つイゼナの姿があった。
「神殿の深部をご案内します。核が眠る場所へ、通じる道かもしれません」
それは探索というより、巡礼に近い響きだった。
蓮は立ち上がり、仲間の方へ振り返る。
美穂とミネルもすでに目を覚ましていた。
言葉はない。ただ、それぞれの覚悟だけが、部屋に満ちていた。
スミレが小さくうなずく。
――こうして、四人と一人の案内人は、神殿の奥へと歩み始めた。
***
イゼナは振り返らず、ただ一定の速さで歩き続けていた。
「……道は、存在しません」
彼女の言葉は、歩みを止めずに落とされる。
「セラティスは、形を持ちながら形を捨てた都。核が眠る場所は、探して辿り着くものではない。――呼ばれた者のみが、立つことを許されます」
蓮は無意識に眉をひそめた。
そんな曖昧なものを、どうやって――そう思った、その時だった。
微かな違和感が、背筋をなぞった。
美穂が立ち止まっていた。
「……ねぇ、さっきから……妙じゃない?」
彼女は囁くように言う。
「進んでいるはずなのに、景色がひとつも変わってない。回廊の紋様……ずっと同じのが続いてる気がする」
ミネルも足を止めた。
無表情のまま、壁に触れる。指先が、かすかに震えていた。
いつの間にか、石造りの道は消えていた。
足元には床とも地面とも名づけ難い、白とも灰ともつかない薄膜のような大地。
歩けば柔らかく沈み、だが音はしない。
まるで夢の底を歩いているかのようだった。
左右には柱の列が続いている。
けれど、それもまた形を保てず、ところどころ輪郭が霞み、淡く揺らめいている。
柱であるはずなのに、次の瞬間には木立のように見えたり、波打つ布のように見えたりした。
――ここが、神殿の“奥”?
誰も口に出さなかったが、全員が同じ疑問を抱いていた。
だがイゼナだけは、迷うことなく前を歩いてゆく。
その背は静かで、まるですべてを知っている者のようでもあり、記憶を辿っている者のようでもあった。
ふと、天井が消えていることに蓮は気づく。
見上げれば、ただ限りのない空白だけが広がっている。
暗くもなく、明るくもない。夜と昼の、どちらにも属さない空。
ミネルが小さく息を呑み、美穂は眉を寄せる。
スミレだけが、その空を見つめたまま足を止めた。
何かを、聴いているように。
――呼ばれている。
彼女の胸に、言葉ではない声が触れた。
それは祈りのようでもあり、泣き声のようでもあった。
「ここは……何なんだ」
蓮の声は小さく、自分でも驚くほど澄んでいた。
イゼナは振り返らずに答える。
「神殿は、我々マーレ族を守るために造られました。ですので――奥へ進む者を、拒む造りでもあります」
拒む?
「正しき心を持つ者には、道が変わる。そうでない者には、同じ場所を巡り続ける。ここは、歩みそのものを試す場所」
足元の大地が、さざ波のように震えた。
まるで、誰かが目を覚ましたかのように。
その瞬間――視界の端で、揺らめく影が立ち上がった。
最初は、光の残像だと思った。
けれど、それは輪郭を帯び、形を成し、やがて人の姿になってゆく。
ひとり、またひとり。
彼らは何も語らず、音もなく、ただそこに“いた”。
「……人?」
美穂が思わずつぶやく。
だが、それは“生きた人間”ではなかった。
衣は潮を含んだ布のようにひるがえり、髪は水底の草のように揺れ、瞳には深海の静けさが宿っている。
――わかる。
この気配、この温度。
ここにいるのは、人ではない。
マーレ族。
そして、その中心にいる女だけは――
ひときわ鮮やかに、その影が姿を結んだ。
長い髪は銀青に流れ、瞳は透き通った赤。
その面差しは、どこかホクトに似ていて、どうしてかスミレに似ていて――
「……ラミア」
名を呼んだのは、ミネルだった。
震えでも恐怖でもない。
それは、記憶の奥底に触れるような、確信に満ちた声だった。
ラミアは何も言わなかった。
ただ、こちらを見た。
まるで――ずっと待っていた者を見る目で。
ラミアの唇が、音もなく開いた。
そのはずだった。
だが、その声は確かに、四人すべての胸の内で響いた。
――待っておったぞ、我が子たち。
扉を開け、核を呼び覚ませ。
狭間の歪みを……封じるのじゃ。
その言葉に、蓮は思わず拳を握る。
美穂は唇をかみ、スミレはただ静かに目を伏せる。
だが――ひとり、膝が揺れた者がいた。
ミネル。
彼女の瞳だけが、ラミアの残像とまっすぐに結ばれていた。
「……どうして、今さら私たちに託そうとする」
震える問い。
だが、ラミアは答えない。
ただ、その背後で――扉が開き始めていた。
水も石も拒むはずの空間に、黒い裂け目が現れる。
底の知れぬ“ゆらぎの底”。
核が沈んだ、罪と始祖の源。
ミネルは、一歩、踏み出した。
「だめ、ミネル!」
美穂が叫び、蓮も思わず腕を伸ばす。
ミネルは振り返らない。
その代わり、静かに言った。
「あなたたちは……まだ、やるべきことがある」
その声は、不思議なほど澄んでいた。
「元々、私は……死んだような命だ。千尋は――私は、大きすぎる罪を犯した。ラミアは……このために、私を生かしたのだろう」
「待て、それは違――!」
蓮の言葉が終わる前に。
ミネルは、扉に手をかけた。
その手は、迷いも怒りもなく――ただ、決意だけに染まっていた。
「ならば……せめて、贖おう。これは、終わりじゃない。あなたたちの帰る道を……繋ぐために。」
そして――ミネルは振り返らず、飛び込んだ。
――その瞬間。
海底神殿が、軋みを上げた。
地鳴りのような震動。
壁を走る亀裂。
崩れ落ちる水晶柱。
イゼナが目を見開く。
「始まってしまいました……核が――目覚めます!」
それは、終わりを告げるすべての始まりだった。




