セラティスの神殿 後編
イゼナに導かれ、蓮たちは神殿の奥へと歩みを進めた。
高い柱が続く回廊は、静寂に包まれながらもどこか荘厳で、踏みしめる足音すら場違いに思えるほどだった。
ふいに、蓮が口を開いた。
「……イゼナ。どうしてここに?」
イゼナの足取りは止まらない。だが、その声だけが静かに返る。
「言うのが遅れましたね。私は“案内人”です。ラゼーラとセラティスを行き来し、こうして迷い込んだ者たちを導く役目を持っています」
ミネルが眉をひそめる。
「迷い込んだ者……私たちのことも、最初から?」
「ええ。あなたたちもまた、行き場を失った旅人。ここに辿り着いた時点で――セラティスに選ばれたのです」
その声音には、哀れみとも諦観ともつかない響きがあった。
やがてたどり着いたのは、巨大な円形の扉。
イゼナが掌をかざすと、青白い光が水面のように広がり、扉は静かに開いていった。
現れたのは、天井までそびえる書架の森だった。
光る貝殻を埋め込んだ壁が淡い光を放ち、そこに収められた無数の巻物や石板を照らしている。
水の都セラティスが、ただの都ではなく「記憶の器」でもあることを、蓮たちは一目で悟った。
「ここは……書庫?」
美穂が目を見張る。
イゼナは振り返らず、書架の奥へと進んでいく。
「セラティスに残された記録のすべて――ラミアのことも、我らの罪も、ここに刻まれています」
ミネルが眉をひそめた。
「ラミアの……記録だと?」
イゼナは立ち止まり、一本の古びた巻物を手に取った。
その表紙には、淡く輝く「器」の紋章が描かれていた。
「……ラミアは、血をばらまいた怪物ではありません」
静かに語る声は、広大な書庫に澄んで響いた。
「彼女は“歪みを正すための器”を作ろうとしていた。けれど……その試みは失敗し、後に五大悪魔と呼ばれる存在を生んでしまったのです」
スミレの手が小さく震え、蓮の袖を握り締めた。
イゼナは巻物をそっと棚に戻し、振り返る。
その瞳は、静かに決意を宿していた。
「けれど……まだ終わってはいません。ラミアが遺した“核”が、この都のどこかに眠っています。それを見つけることができれば――セラティスは再び器として目覚め、歪みを正すことができるかもしれない」
彼女の言葉に、蓮たちは思わず息を呑んだ。
「だが――」
イゼナはわずかに目を伏せる。
「核に触れるということは、代償を伴います。それは器を継ぐ資格を持つ者……つまり、ラミアの血を受け継ぐ者でなければ」
イゼナの言葉は、重い余韻を残して書庫に沈んだ。
誰もすぐには口を開けなかった。
「代償……」
蓮が小さく呟く。
けれどイゼナはそれ以上を語らず、静かに首を横に振った。
「今は深く知る必要はありません。
――ただ、心しておくことです」
淡く光を放つ書架の森が、ざわりと水の底のような静寂を返す。
その空気に呑まれそうになった時、イゼナはゆっくりと息を吐き、振り返った。
「……少し休みましょう」
その声は先ほどまでの張り詰めたものとは違い、どこか人間らしい温度を帯びていた。
「セラティスは、そこに立っているだけであなたたちの神経を削ぎ落とします。核を探すには、体力の温存が必要ですから」
スミレが小さく頷き、美穂も胸を押さえるようにしてため息をついた。
たしかに、ここに入ってからずっと、体の芯が冷たい水に浸されているような感覚が続いていた。
イゼナは踵を返し、別の回廊へと彼らを導いた。
しばらく進むと、広いホールの奥に小さな宿のような空間が現れる。
水晶の壁が柔らかな光を放ち、貝殻を編んで作られた寝台が並んでいた。
「ここなら、しばし心を休めることができるでしょう」
イゼナは振り返り、淡い微笑を浮かべた。
蓮たちは互いに顔を見合わせ、ようやく緊張を解くように頷いた。
案内された部屋は、静かな水の巣のようだった。
天井からは淡い光を放つ水晶が垂れ、壁には薄い水の膜が流れ落ちている。
その奥で小さな貝殻の寝台が四つ並び、青白い光が波のように揺れていた。
「……ここで、休んでください」
イゼナが言い残し、静かに扉を閉じると、部屋はさらに静寂に包まれた。
その静けさはまるで、海の奥に沈んでしまったかのような圧力を帯びていた。
スミレは、指先で寝台の縁をなぞりながら、ゆっくりと息を吐いた。
美穂は部屋の隅に立ち、壁に流れる水を見つめている。
「……なんだか、溺れてしまいそうな場所ね」
彼女の瞳は、光る水面に惹き込まれるように瞬きをしていた。
ミネルは黙ったまま、ベッドに腰掛け、視線を伏せている。
その横顔には、いつもの冷静さとは違う翳りが宿っていた。
ラミアの名を聞いてから、ずっと言葉を失っているようだった。
尊敬してきた存在が、追放されたという事実。
知りたかった真実が、今や痛みを伴って迫ってくる。
蓮はそんな三人を見渡し、ひとり、水面に映る自分を覗き込んだ。
そこに映った顔に、一瞬、鱗のようなものが走る。
頬から首へ、細かな青銀の紋がちらりと現れては消えた。
「っ……!」
蓮は慌てて頬に手を当てる。
その瞬間にはもう、何もなかった。
ただ冷たい感触だけが残っている。
スミレがそっと近づいた。
「……蓮?」
その声は小さく震えていて、でも目はまっすぐに彼を見ていた。
「大丈夫だ。……いや、大丈夫、なのか?」
曖昧な言葉を返しながら、蓮は視線を逸らした。
スミレはその横顔を見つめ、自分の掌をそっと握りしめる。
翼はもうない。
けれど、何かできることがあるはず――そう思わずにはいられなかった。
部屋には波の音のような微かな響きが漂い、四人はそれぞれの思考に沈んでいった。
誰もが疲れていたが、その夜はなかなか眠れそうにない空気があった。
そして夜の帳が降りる。
寝台の上、三人の呼吸が静かに重なっていた。
美穂は腕を組んだまま壁に凭れ、ミネルは深い影を纏うように眠りについている。
スミレは、蓮の近くで小さく丸まり、浅い眠りに身を委ねていた。
だが――蓮の瞳だけは冴えていた。
水晶灯の青白い光が、眠れぬ瞳に映り込む。
胸の奥がざわめく。
顔に浮かんだ鱗の記憶が、脈打つように離れない。
「……俺は……」
声に出しかけて、蓮は首を振った。
音を立てぬように身を起こす。
寝台を抜け出し、扉の方へ歩み寄る。
振り返ると、スミレの肩がわずかに上下していた。
その姿に一瞬迷いがよぎったが、蓮は静かに扉を押し開けた。
廊下は深い水底のように静かだった。
水晶灯が並ぶ回廊を歩きながら、蓮は無意識に拳を握りしめる。
その先に――気配を感じた。
「……眠れぬか」
声は背後から届いた。
振り返ると、そこに立っていたのはイゼナだった。
淡い光を纏う衣の裾が、水のように揺れている。
「……イゼナ」
蓮は一歩近づき、問いを飲み込んだ。
なぜ彼女がここにいるのか――いや、それよりも。
なぜ自分がここへ導かれるように足を運んだのか。
イゼナは目を伏せ、小さな微笑を浮かべた。
「あなたの目には、もう見えているのでしょう」
その言葉に、蓮の心臓が強く打つ。
「……俺の身に、何が起きてる」
声が震えていた。
イゼナは蓮を見つめ返し、ゆるりと首を振った。
「答えを急ぐ必要はありません。ただ……恐れるな。変化は、器である証。――あなたが選ばれた理由でもあります」
蓮は息を呑んだ。
「俺が……?」
イゼナの瞳は、海よりも深い色をしていた。
「いずれわかることです。けれど、あなたが怖れているものは……あなたひとりで背負うものではない」
その言葉が、胸に重く沈んだ。
気づけば、蓮の拳はほどけていた。
イゼナは振り返り、廊下の奥へ歩き出す。
「――来なさい。まだ見せていない場所があります」
蓮は、呼吸を整えながらその背を追った。
静寂の回廊に、二人の足音だけが響いていた。




