星霧の夜
空が急に暗くなったわけではなかった。
それでも庭を包む霧は深く、淡く光る星の粒が宙に散らばっていた。
風も音も、時間の流れさえも遠のき、すべてが止まったように感じられる。
いや——止まったのではなく、自分たちだけが時の外へ滑り出したのだ。そう悟らせる不思議な静寂。
それが「星霧の夜」だった。
誰も、いつから夜になったのかを知らない。
ただ、目の前の道だけが星の光に照らされ、ひっそりと浮かび上がっていた。
蓮は一歩、足を踏み出す。
その感触は、地面ではなく光の帯を歩いているかのようで、重さも軽さも曖昧だった。
隣のスミレの手を握ると、確かに柔らかな温もりが返ってくる。
けれどそれすら、現実なのか夢なのか境界が揺らいでいた。
道の先には、まだ見ぬセラティスが待っている——。
その確信だけが、唯一揺らがなかった。
光の回路は、夜空と海が混ざり合ったように揺れ、星々が淡い波のように流れていく。
蓮は揺らめく光を目で追い、無意識に息を呑んだ。
「……すごいな、これ……」
小さな声に、ミネルが肩越しに視線を送る。
「幻想か現実か、分からない。こうして歩けるのは奇跡だろう」
言葉は少ないが、その声音には驚きと孤高さが同居していた。
美穂は蓮の反対側で、光を指先でなぞりながら微笑む。
「光の流れに触れるだけで、心が洗われる気がするわ」
蓮は頷き、スミレの手を改めて握った。
「……スミレ、大丈夫?」
「ええ……すごく、きれい」
小さな指が絡まり、ふっと笑みが零れる。すると光の粒が二人の周囲で舞うように揺れた。
「それにしても、俺たち、ラゼーラの時の軸に呑まれるところだったな。夜なんてまだ来ないと思ってたのによ。イゼナが何者だったのかも分かんねぇし……」
タオが唸るように言いながら進む。
「確かにそうだな。イゼナの案内がなければ、星霧の夜に気づけなかった可能性もある」
一歩進むごとに、何かを置き去りにしていくような感覚があった。
「イゼナが言っていたわ。過去はそこへ置いていきなさい。振り返れば霧に呑まれるーーって」
誰かが小さく唾を飲む音がやけに響いた。
美穂が恐る恐る後ろを振り向く。
「大丈夫、振り向くくらいなら問題ないみたい」
「ちっ……この感覚、気持ち悪い」
タオは無理に軽口を叩きながら顔をしかめる。
「お前ら、気持ち悪くねえのか?奥に進むほど力が削がれていくようで!」
「……削がれてるというより、本来の力を見極められてるのかも」
美穂の言葉に、ミネルも低く頷いた。
「力の制御が解かれていく感覚がある。出口が——セラティスが近い証かもしれない」
やがて蓮は気づく。タオの視線が何度もリリスへと向けられている。
光に照らされる彼女はどこか浮遊するような足取りで、けれど確かに皆の間にいた。
タオが声を掛ける。
「リリス……大丈夫か?」
「うん、平気」
その声には、無理をしている響きが滲んでいた。
ミネルが眉をひそめる。
「無理をするな。誰だって限界はある」
リリスは首を振り、微笑む。
「あたし、もう少しだけ……みんなと一緒にいたいの」
美穂が一歩近づき、心配そうに彼女を見つめた。
「でも、顔色が悪い……」
その瞬間、回路の光がわずかに揺れ、景色が歪む。
蓮はリリスの足元に目を凝らした。そこだけ光が乱れ、彼女の輪郭すら淡く揺れている。
まるで現実そのものが、彼女を手放そうとしているかのように。
「……あれ?」
蓮の胸にざわりとした違和感が走る。
タオもそれに気づき、足を止めた。
リリスの表情は変わらない。けれど、彼女の髪先や輪郭が、淡い光に溶けていくように揺れていた。
まるで現実そのものが、彼女を手放そうとしているかのように。
「リリス……?」
タオの声に、リリスは小さく笑う。
「……大丈夫。少し……疲れちゃっただけ」
しかし蓮は、それが単なる疲れではないことを、直感的に理解した。
光の回路は揺れ続け、足元の光の帯が途切れ途切れになりながらも、前方へと道を示していた。
その先には、薄い霧の中に白く輝く渦——まるで小さな星の塊が渦を描くような光の輪が見えてくる。
蓮は心の中で、あそこを抜ければセラティスに辿り着くのだと直感した。
「……あの渦が出口、か」
呟きにスミレが手を握り返す。
リリスは歩幅を乱し、光に吸い込まれるように揺れる。
タオが彼女の腕を支える。
「リリス……無理するな!」
「だ、大丈夫……まだ、行ける……」
その声は震えていた。
「限界を越えれば取り返しがつかない」
ミネルが鋭く告げ、美穂が手を伸ばす。
だがリリスは皆を見回し、微笑んだ。
「みんな……ごめんね……」
タオは歯を食いしばり、彼女の手を強く握る。
「謝る必要ねえだろ! お前は――」
だがリリスは彼の胸に手を置き、押し留めた。
「タオ……行って。あなたはラミアの血を引く者。すべてを、確かめてきて」
「……何言ってんだ、お前も一緒に――」
「お願い……」
タオは迷い、言葉を失う。だが彼は彼女の手の甲に唇を寄せ、誓いを立てる王子のように口づけた。
「必ず帰ってくる。お前は先に、ネイトエールで待ってろ。約束だ」
「うん……約束」
震える手が微かに握り返す。光が二人を包み込み、幻想のように揺れた。
——やがて、タオは静かに彼女の手を離す。
重い背中を向け、ゆっくりと仲間の方へ歩き出した。
足取りは決して速くなかった。
一歩ごとに靄が渦を巻き、光の回路は不安定に揺らめく。
歩くほどに、リリスの存在が後方にかすみ、前方の輝きがわずかに大きくなる。
出口はまだ遠い。けれど確かにそこへ近づいていると分かる。
蓮はタオの決断の重さを理解し、ただ見つめた。
遥か前方——回路の果てに、白く輝く渦が見える。
まるで大海の底で生まれた巨大な渦潮のように、光の粒を吸い込みながらうねり、霧を切り裂いていた。
近くにあるようで、足を進めてもなお届かない。
幻のように遠いその光景が、セラティスへの門だと直感できた。
「ここを抜ければ……セラティスが?」
蓮は唾を飲み、足元の震えを抑える。
隣には緊張に頬を紅潮させたスミレがいる。
大丈夫だ。この手は離さない――蓮は強く握り返した。
「行こう、みんな」
そう言いかけた瞬間。
「悪い、俺、やっぱり――」
背後からタオの声。
振り返ると、彼は霧を逆走していた。
さっきまで並んで歩いていた距離が、今では手を伸ばしても届かないほど遠い。
白い靄がその姿を呑み込み、影となって遠ざかっていく。
「タオ!」
蓮の叫びは霧に吸い込まれ、虚空に反響するばかり。
それでも彼は振り返らない。
その時、蓮の視界が異様に澄み渡った。
遠いはずの光景が、まるで瞳の奥に直接焼き付けられるかのように見える。
靄の向こう、彼方に——タオがリリスを抱き寄せる姿があった。
「……やっぱり、お前を置いていくなんてできない」
遠い声なのに、耳元で囁かれたように響く。
リリスは涙を浮かべ、微笑んだ。
「……タオ……」
二人は手を取り合い、寄り添う。
その距離は果てしなく遠い。
けれど確かに、光の回路が二人を結んでいた。
「帰ろう、リリス。もう絶対に置いていかない」
蓮が見つめる間にも、前方の渦は脈打つように明滅し、霧を震わせる。
現実が迫り、時間の猶予が削られていく。
胸の奥に熱と寂しさが同時に溢れる中、蓮は耳に届いた。
「また会おうぜ、相棒」
背を向けたまま残した一言。
霧を隔ててもなお鮮烈に響き、蓮の胸に深く突き刺さる。
リリスが手を振り、二人は光に包まれる。
その姿はゆっくりと靄に溶け、やがて完全に見えなくなった。
渦は巨大な心臓のように鼓動を打ち、幻想と現実の境界を震わせる。
蓮はスミレの手を握り、呟いた。
「……タオ、じゃあな」
声は小さくても、必ず届くと信じて。
仲間の決断を受け止め、進むのだと誓う。
「行こう、セラティスへ」
スミレが強く握り返す。
大丈夫。必ず。
蓮は一歩、光の渦へ踏み込んだ。




