小さなスミレ
ラゼーラの霧の中をひとり歩く。いつの間にか風景が変わっていた。
足音だけが、霧に吸い込まれていく。
そのときだった。
風に乗って、甘い香りが鼻をくすぐった。
スミレの花の匂い――どこか懐かしい、優しい香り。
視界の色が、ゆっくりと紫に染まっていく。
霧がほどけて、地面に咲き広がる無数のスミレの花々。
いつの間にか、辺り一面がその柔らかな色で覆われていた。
まるで、世界そのものが彼女の記憶でできているかのように。
蓮は歩を進める。
花びらが、風もないのにふわりと舞い上がった。
どこからか光が差し込んでいて、それが空のどこから来るものなのか、もはや分からなかった。
そして――そこに、彼女がいた。
花畑の中心で、スミレは仰向けになって、空を見上げていた。
まるで、花の一部になったように。
その表情は穏やかで、眠っているようにも見えた。
「……スミレ」
声をかけると、彼女はゆっくりとまぶたを開けた。
瞳が、光を受けてきらりと揺れる。
「……来てくれたのね」
その言葉に、蓮は小さく頷いた。
まるで、呼ばれたように足がここに向かっていた気がする。
「気持ちよさそうに寝てたな。花のベッドかと思った」
スミレは、ふふっと微笑む。
「ええ……気づいたら、こうなってた。
ここ、不思議なの。身体も心も軽くなって、全部忘れたくなっちゃうくらい」
霧の流れが揺らいだ瞬間、蓮の視界に違和感が走った。
紫の靄が形を変え、輪郭を結んでいく。そこに現れたのは、見覚えのない――けれど、不思議と懐かしい姿だった。
――幼いスミレ。
腰ほどまでしか伸びていない小さな身体。背中までの髪をふわりとなびかせながら、草原を駆けている。両手には摘んだ花を抱えていて、腕からこぼれ落ちても気にせず、ただ夢中で走っていた。
「お母様、見て! いっぱい取れた!」
声が響く。誰もいないはずのラゼーラに、澄んだ笑い声が溶けていく。
幻影の中のスミレは、花束を両手に掲げて誇らしげに笑っていた。
「こんなにあったら……みんな喜ぶわよね?」
彼女は無邪気に問いかける。
「お父様も褒めてくれるかな」
その言葉に、蓮の胸がきゅっと締めつけられた。
これは自分の記憶じゃない。スミレ自身の奥底に眠っていた断片だ。
ラゼーラが、それを形にして見せているのだろう。
幼いスミレは、草の上にぺたりと座り込み、花を一本一本、丁寧に並べはじめた。
「紫と白と……あと黄色も。ほら、虹みたいにできるんだよ」
蓮は思わず、幻に向かって言葉を落とした。
「……きれいだな」
もちろん、聞こえるはずもない。
それでも、まるで応えるように、幼いスミレは顔を上げて笑った。
花冠を作って小さな頭にのせ、その笑顔を風にさらす。
「わたしね、大きくなったら……みんなが笑える場所を作りたいの。花みたいに、どこにでも咲けるような」
その言葉に、蓮は息を呑んだ。
小さな声で語られた夢。それは、今のスミレにも通じている。
――ああ。変わってないんだ。
幼い頃も、今も。彼女はずっと、人の笑顔を願っていた。
その笑顔が、こんなにも真っ直ぐで、脆くて、だからこそ眩しい。
胸の奥からこみあげてくる。
守りたい。
この笑顔を。彼女の過去も、今も、これからも。
霧がほどけて、花畑の幻影は静かに消えていった。
そこにはもう幼いスミレの姿はなく、現実のスミレが穏やかな瞳で立っていた。
けれど、蓮の中には確かに残っていた。――あの頃から変わらない、スミレの笑顔の温もりが。
「蓮……?どうかしたの?」
すぐ隣からスミレの声がして、現実に引き戻される。
「スミレは……怖く、ないの?」
「ううん。むしろ、安心してた。
だって、ここって、私の心の奥にあったものなんだと思う。
ラゼーラはきっと、そういう場所。……忘れられた記憶が、形になる場所なのよ」
彼女の手が、そっとスミレの花を撫でた。
その動きが、儚くて、美しかった。
「……ここに、ずっといてもいいって、少しだけ思った。
全部忘れて、痛みも不安もなくて……夢の中にいるみたいに、永遠に」
その言葉に、蓮は胸の奥が少しだけざわついた。
けれど、彼女はすぐに続ける。
「でもね、それじゃだめだって思ったの。
私、あなたと見たいものがある。……ちゃんと、この目で見届けたいの」
スミレが身体を起こし、蓮の方をまっすぐに見つめた。
その瞳には、迷いがなかった。
「セラティスに行こう、蓮。……一緒に」
蓮は、小さく笑った。
そして、手を差し伸べる。
「……スミレ」
スミレの手が、その手に重なった。
ひんやりとして、それでいて、確かな温もりを感じた。
彼女が立ち上がると、花びらがふわりと舞い上がる。
二人の影が、夕暮れの光の中で静かに重なった。
空は、すでに星霧の光を帯び始めていた。
紫と金の淡い光が、ラゼーラの空を染めていく。
沈黙の中に、すべてが満ちていた。
言葉はいらなかった。ただ、ふたりでこの空を見上げることだけが、すべてだった。
星霧の夜が、近づいている。
その始まりとともに、ふたりは歩き出す。
記憶の世界を超えて、本当の答えを探しに――セラティスへ。




