再びその手を 前編
目を覚ますと、見慣れない天井が広がっていた。白い天井は、まるで何もかもを無機質に覆い隠すように広がっている。真ん中にはぽつりとオレンジ色のライトが灯り、静かな空間の中でその淡い光だけが揺れている。蓮は朦朧とする意識の中、その光をじっと見つめ、徐々に周囲の状況を把握しようとする。
「ここは……?」
そう呟くように思うが、答えがすぐに返ってくるわけでもない。蓮はまだ頭が重く、体を動かすにも力が入らない。まるで、体のすべてが重力に引き寄せられているかのようだ。鉛のように重く感じる体。特に腹部に走る痛みが鋭い。わずかな動きでもその痛みが波のように広がり、体を押し潰すように響く。
「ん、やっと起きたのか」
突然、どこからか低い声が聞こえてきた。その声に反応しようと顔を向けると、視界に現れたのは見覚えのない男の顔だった。灰色の三角形の耳が頭から生えたその男は、無愛想にそっぽを向くと大きな欠伸をする。その態度に、蓮は不安が一層募る。
「こ、ここは?」
蓮は目をぱちぱちさせながら、男に問う。しかし、男はその問いに答えることなく、面倒くさそうに口を開く。
「死にかけのお前は、ネイト騎士団長・ホクト様に救われてネイトエール城まで運ばれたんだ」
男はそれだけを言い放ち、まるで用事を済ませたかのようにその場を離れようとする。
「ま、待って! スミレは? 妖精の女性は!?」
蓮は必死で声を上げるが、その瞬間、再び腹部に痛みが走る。声が大きくなる度に痛みが増していくようだ。蓮は思わず手で腹部を抑え、縮こまってうめき声を漏らす。冷や汗が額を伝う。
男は蓮の痛がる様子を見ても、まったく気にする様子はない。その代わり、蓮を睨みつけるように見下ろすと、警戒したように言った。
「お前の言うスミレとか言う女の生存は知らないが、シェリーなら生きてる」
「シェリー…?」
蓮は戸惑うが、どこかで聞いたことのある名前だと感じる。その違和感が消えぬまま、ドアのノック音が響いた。
「コンコン」
その音が響いた後、扉が開き、今度は見覚えのある男が部屋に入ってきた。蓮はその男が化け物との戦闘に参加していたことをかすかに思い出す。確か、あの時の男、ホクトだった。彼の姿を見て、ここが彼の管理下にある場所だと理解する。だが、心のどこかで不安が残る。
「起きたのか、人間。具合はどうだ?」
ホクトは無愛想に言うと、部屋の扉に寄りかかるように立ち、煙草を一本取り出して吸い始めた。その煙がゆっくりと天井に昇り、部屋中に薄く広がる。煙の匂いが部屋に漂い、蓮はそれに少しむせそうになる。
「ホクト様、部屋で吸うのはやめてください」
耳を生やした獣人の男が、顔をしかめながら不機嫌そうに言うと、ホクトを注意する。ホクトは特に反応せず、煙草の煙を吐き出しながら無言で肩をすくめた。
「すまない、タオ。お前も休憩にしていい」
ホクトがそう言うと、タオと呼ばれた男は一言もなく、部屋を出ていった。蓮はその様子をぼんやりと眺め、何とも言えない気持ちが込み上げてくる。
「まあ、驚くのも無理がない。タオは変異型の狼でな、普段はああやって狼人の姿をしてるが、戦闘時は狼の姿になるんだ」
ホクトは煙草を片手に持ち、蓮を見下ろしながら話す。その言葉に蓮は、ただ静かにうなずく。状況が未だに把握できていない自分が情けなく感じる。
「シェリーに会いたいか?」
突然、ホクトが問いかける。
蓮はその質問に、迷うことなく黙って頷いた。
シェリーという名前が何を意味しているのか、なんとなく分かっていた。けれど、その人物が自分にとってどれほど重要なのかは、この瞬間ではっきりと分からない。
ただ、会いたいという気持ちだけが強く心に湧き上がっていた。スミレが無事でいるのなら、どんな理由であれ、その答えを知りたかった。
「ほら、ついてこい」
ホクトが背中を向けると、その大きな背中に蓮はどこか安心感を覚える。ホクトの後ろをついていけば、何かが変わるのかもしれない。
蓮はその背中を追うために、少しずつ体を動かす。腹の痛みがまだ残っているが、それでも歩かなければならないという気持ちが強くなった。もしかしたら、この一歩が何かを変えるのかもしれないという期待が湧いてきた。
(スミレさん……)
蓮はゆっくりと体を起こし、痛みに耐えながらも足を動かして地面に足を着ける。その足が一歩、また一歩と確かに地を踏みしめるたび、心の中に込み上げる希望を胸に秘めながら、ホクトの後を追い続けた。
シェリーがいるという部屋は、蓮がいた部屋を出てすぐ隣にあった。木製のアンティークな雰囲気の扉が、妙に懐かしく落ち着いた。どこか心地よい静けさが漂っており、その扉を見るだけで不安が和らいでいくような気がした。
ホクトは三回ほど扉をノックすると、
「シェリー、入るぞ」と言い、その扉を開ける。
小さく風が吹き込んだ、そんな気がした。蓮の瞳孔が開き、心臓がドクドクと高鳴った。視界、目の奥に会いたかった人がはっきりと映る。蓮の足が止まった。その光景に息を呑んだ。
木製ベッドの上に、純白の女が横たわっていた。
まるで眠るように静かで、それでいて不気味なほどの美しさがある。
――スミレだ。
蓮は息を呑んだ。心臓が一瞬、跳ねた。
無意識に足が前へ出る。
「スミレさん……?」
小さく呼ぶと、わずかに彼女のまつ毛が震えた。
蓮はスミレが寝ているベッドに駆けつけると、彼女の顔を覗き込む。目の前で、ゆっくり、ゆっくりとスミレの瞼が開いた。
「蓮、? 私、一体……」
彼女のぱちぱちした目が蓮を見つめる。蓮はその目に、これまで感じたことのないほどの安堵を感じ、同時に涙が込み上げてきそうになる。まだ完全に信じられないが、それでも彼女がここにいることだけは確かだった。
蓮はスミレの横で腰が抜けたかのようにしゃがみこむと、彼女の手をそっと握った。
「よかった。ほんとうによかった」
「ごめんなさい、心配をかけたわ」
スミレは蓮の手をぎゅっと強く握り返した。そのまま、壁に静かに寄りかかるホクトを見る。
「ホクト様、私たちに少しの時間をください」
彼女のその言葉を聞いて、ホクトは何も言わず壁から離れると、扉を開ける。そして、
「後でその人間を俺の部屋に連れて来い」
とだけ言い残して部屋を出ていった。




