化け物の戦い 中編
咆哮が森を切り裂いた。
異形と化した亜矢翔の体が、地を這う黒影とともに迫りくる。骨が軋む音が響き、節くれだった腕が地面を抉った。
「ミネル、来るぞ!」
ローレが叫ぶ。彼の翼がはばたくと、鋭い風が巻き起こり、霧が一瞬で裂かれる。
「了解」
ミネルは滑るように駆け、鋭利な剣閃で影の一つを断ち切った。亜矢翔の身体から迸る黒い霧が空を染める。
その中心で、ホクトが静かに気配を高める。
「……龍の血よ。これより――咎を断つ」
ホクトの双翼が大きく広がり、刹那、空間そのものが軋んだ。青き斬光が走り、叩きつけるような竜爪の斬撃が、異形の亜矢翔を弾き飛ばす。
「ぐぅ……! ははっ、やはり……凄まじい……!」
だが、亜矢翔の笑みは消えない。
「君たちの血……実に素晴らしい。特に、そこの赤い目のカラス……」
その言葉に、ローレの背筋が僅かに震えた。
蓮は一歩、足を踏み出しかけて――思わず息を呑む。ローレの瞳が、いつもより濁って見えたからだ。
「……黙れ」
低く搾り出す声。その奥に、燃え残った火種のような怒りが見える。
「本当に美しい目だ。あの娘も……見事だった。君の娘の翼、持ち帰ってね。検体として少し使わせてもらったよ。あれは強かった。君譲りだな」
耳の奥で、蓮の心音がやけに大きく響く。
ローレの肩が微かに上下し――呼吸が荒くなっていくのが分かった。
「おい、ローレ……!」
ホクトの声が飛ぶ。だが、もう遅い。
「黙れッ!!」
森を揺るがす怒号。背から吹き上がる黒炎。空気がひりつき、蓮の頬を焼く。
感情が弾け飛び、世界がきしむ音がした。
「ローレ、やめろ! 今のままじゃ――!」
ホクトが踏み込もうとした、その瞬間――。
「悪いな、ホクト……俺は、あいつを何が何でも殺さなきゃならねえんだ!」
――ドシュッ。
音が、時間より先に届いた。
次に目に映ったのは、仰け反るホクトの姿と、深く突き刺さった漆黒の爪。
濃い、紅。人の血より深い赤が、静かに、しかし絶え間なく溢れ出す。
「ホクトッ!!」
ミネルの声が裏返る。蓮は一歩、踏み出した――だが亜矢翔の動きが目に入り、足が止まる。
その肩を、ふらつきながらも強く掴んだのはスミレだった。
「行って、蓮。ここは、私が護る」
決意を帯びた瞳。
蓮は短く息を吐き、頷いた。
「父さんを頼む……!」
スミレは膝をつき、ホクトの胸元に手をかざす。
精霊の気配は弱い。それでも彼女の中に燃えているのは、確かな意志だった。
「まだ死なせない……あなたには、終わらせなきゃいけないものがあるでしょう?」
ホクトの目がかすかに揺れる。
その背後で、蓮は再び走り出した。
――その時。
「蓮!」
タオが駆け寄ってきた。その隣には、壁にもたれたリリスの姿。
「お前、ホクトの方に――」
「いや、行かない」
蓮は息を切らせながらも、きっぱりと言った。
「父さんは……スミレが護ってくれる。俺は、今やるべきことをやる」
その言葉に、タオはわずかに目を見開く。
リリスがタオの腕を握り、静かに頷いた。
「行って。あたしは平気」
タオは短く息を吐き、険しい笑みを浮かべる。
「……なら、二人で派手にやるか」
「ああ」
二人は視線を交わし、暴走するローレへ向かって駆け出した。
――その瞬間。
何かが「ぷつり」と弾けたような音。空気がひやりと変わる。
「……ローレ……?」
蓮の声は届かない。
ローレは咆哮を上げ、ただ渇望するように亜矢翔へ飛び込んだ。
「止まれッ!」
タオが叫び、蓮と並んで間合いを詰める。しかし、その速さは二人の視界を振り切った。
爪と爪、咆哮と咆哮がぶつかり合い、空間そのものが軋む。
蓮は思わず足を止める――二人の衝突が、近づくことすら拒む圧だった。
「……はは! これが――五大悪魔の力ッ!!」
その果てに、ローレの拳が亜矢翔の胸を貫く。
異形の体が大きくのけ反り、黒い霧を吐き出す。
「……ちひ、ろ……」
その名が空気を震わせた瞬間、蓮は視界の端に人影を捉える。
ミネルだ。
彼女は剣も構えず、まるで嵐の中を歩くようにゆっくりと進み出る。
「ミネル……!」
蓮の声も、彼女を止められなかった。
ミネルは静かに膝をつき――
「待って」
その一言が、空間を支配した。
ローレの拳が止まる。
ミネルの声に宿った、ひとつの“終わり”の気配に気づいたからだ。
亜矢翔の仮面のような顔が、かすかにこちらを向く。
「ちひろ……、なのか……」
「……いいえ。私はもう、千尋じゃない。でも」
ミネルは、そっとその手に触れた。
異形に変わり果てた手を、優しく包む。
「――あなたを、見捨てたままではいられない。
……さよなら、亜矢翔」
その声は、記録でもプログラムでもない、“人間”の温度を持っていた。
亜矢翔の口元が、かすかに、笑みに近い形に歪んだ。
「……やっと……君が、僕を……」
その言葉は、そこで終わった。
亜矢翔の身体が崩れ、黒い霧となって空へと還る。
哀れで、醜くて、それでも――誰かに愛されたかった者の、末路だった。
ミネルは、その消えた空間にしばし手を伸ばし続けていた。
何も残っていないのに、指先にはまだ、温もりの幻が残っている。
胸の奥にぽっかりと穴が空き、呼吸がひどく遠く感じられた。
だが、その虚ろを裂くように――咆哮。
ローレの暴走は、止まらない。
「ローレ!」
ミネルが振り返る。その瞳にはまだ亜矢翔の影が揺れている。
だが、そこにいるのは“理性”を捨てた漆黒の影だけだった。
「ミネル、下がれ!」
タオが叫び、蓮の腕を引こうとする。
彼の額には汗がにじみ、ローレの殺気が肌を焼くように突き刺さっていた。
「ローレ……やめろ……!」
蓮の声は震えていた。
父を託し、仲間を信じて戦うと決めたはずなのに――その仲間が、今はすべてを壊そうとしている。
「聞こえてるなら応えてくれ……もう、敵はいない……!」
けれど返事はなかった。暴走の影が空間ごと呑み込み、地が裂け、空がきしむ。
ミネルはまだ膝をついたまま、蓮たちの背を見ていた。
ミネルの胸には、ひとり分の温もりが消えた穴があった。
そこへ、黒い風が吹き込む。
――次に呑まれるのは、誰だ。




