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【完結】狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第6章 機械仕掛けの記憶と罪
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化け物の戦い 中編

 咆哮が森を切り裂いた。


 異形と化した亜矢翔の体が、地を這う黒影とともに迫りくる。骨が軋む音が響き、節くれだった腕が地面を抉った。


「ミネル、来るぞ!」


 ローレが叫ぶ。彼の翼がはばたくと、鋭い風が巻き起こり、霧が一瞬で裂かれる。


「了解」


 ミネルは滑るように駆け、鋭利な剣閃で影の一つを断ち切った。亜矢翔の身体から迸る黒い霧が空を染める。


 その中心で、ホクトが静かに気配を高める。


「……龍の血よ。これより――咎を断つ」


 ホクトの双翼が大きく広がり、刹那、空間そのものが軋んだ。青き斬光が走り、叩きつけるような竜爪の斬撃が、異形の亜矢翔を弾き飛ばす。


「ぐぅ……! ははっ、やはり……凄まじい……!」


 だが、亜矢翔の笑みは消えない。


「君たちの血……実に素晴らしい。特に、そこの赤い目のカラス……」


 その言葉に、ローレの背筋が僅かに震えた。

 蓮は一歩、足を踏み出しかけて――思わず息を呑む。ローレの瞳が、いつもより濁って見えたからだ。


「……黙れ」


 低く搾り出す声。その奥に、燃え残った火種のような怒りが見える。


「本当に美しい目だ。あの娘も……見事だった。君の娘の翼、持ち帰ってね。検体として少し使わせてもらったよ。あれは強かった。君譲りだな」


 耳の奥で、蓮の心音がやけに大きく響く。

 ローレの肩が微かに上下し――呼吸が荒くなっていくのが分かった。


「おい、ローレ……!」


 ホクトの声が飛ぶ。だが、もう遅い。


「黙れッ!!」


 森を揺るがす怒号。背から吹き上がる黒炎。空気がひりつき、蓮の頬を焼く。

 感情が弾け飛び、世界がきしむ音がした。


「ローレ、やめろ! 今のままじゃ――!」


 ホクトが踏み込もうとした、その瞬間――。


「悪いな、ホクト……俺は、あいつを何が何でも殺さなきゃならねえんだ!」


 ――ドシュッ。


 音が、時間より先に届いた。

 次に目に映ったのは、仰け反るホクトの姿と、深く突き刺さった漆黒の爪。


 濃い、紅。人の血より深い赤が、静かに、しかし絶え間なく溢れ出す。


「ホクトッ!!」


 ミネルの声が裏返る。蓮は一歩、踏み出した――だが亜矢翔の動きが目に入り、足が止まる。


 その肩を、ふらつきながらも強く掴んだのはスミレだった。


「行って、蓮。ここは、私が護る」


 決意を帯びた瞳。

 蓮は短く息を吐き、頷いた。


「父さんを頼む……!」


 スミレは膝をつき、ホクトの胸元に手をかざす。

 精霊の気配は弱い。それでも彼女の中に燃えているのは、確かな意志だった。


「まだ死なせない……あなたには、終わらせなきゃいけないものがあるでしょう?」


 ホクトの目がかすかに揺れる。

 その背後で、蓮は再び走り出した。


 ――その時。


「蓮!」


 タオが駆け寄ってきた。その隣には、壁にもたれたリリスの姿。


「お前、ホクトの方に――」


「いや、行かない」


 蓮は息を切らせながらも、きっぱりと言った。


「父さんは……スミレが護ってくれる。俺は、今やるべきことをやる」


 その言葉に、タオはわずかに目を見開く。

 リリスがタオの腕を握り、静かに頷いた。


「行って。あたしは平気」


 タオは短く息を吐き、険しい笑みを浮かべる。


「……なら、二人で派手にやるか」


「ああ」


  二人は視線を交わし、暴走するローレへ向かって駆け出した。


 ――その瞬間。


 何かが「ぷつり」と弾けたような音。空気がひやりと変わる。


「……ローレ……?」


 蓮の声は届かない。

 ローレは咆哮を上げ、ただ渇望するように亜矢翔へ飛び込んだ。


「止まれッ!」


 タオが叫び、蓮と並んで間合いを詰める。しかし、その速さは二人の視界を振り切った。


 爪と爪、咆哮と咆哮がぶつかり合い、空間そのものが軋む。

 蓮は思わず足を止める――二人の衝突が、近づくことすら拒む圧だった。


「……はは! これが――五大悪魔の力ッ!!」


 その果てに、ローレの拳が亜矢翔の胸を貫く。

 異形の体が大きくのけ反り、黒い霧を吐き出す。


「……ちひ、ろ……」


 その名が空気を震わせた瞬間、蓮は視界の端に人影を捉える。

 ミネルだ。


 彼女は剣も構えず、まるで嵐の中を歩くようにゆっくりと進み出る。


「ミネル……!」

 蓮の声も、彼女を止められなかった。


 ミネルは静かに膝をつき――

「待って」

 その一言が、空間を支配した。


 ローレの拳が止まる。

 ミネルの声に宿った、ひとつの“終わり”の気配に気づいたからだ。


 亜矢翔の仮面のような顔が、かすかにこちらを向く。


「ちひろ……、なのか……」


「……いいえ。私はもう、千尋じゃない。でも」


 ミネルは、そっとその手に触れた。

 異形に変わり果てた手を、優しく包む。


「――あなたを、見捨てたままではいられない。

 ……さよなら、亜矢翔」


 その声は、記録でもプログラムでもない、“人間”の温度を持っていた。

 亜矢翔の口元が、かすかに、笑みに近い形に歪んだ。


「……やっと……君が、僕を……」


 その言葉は、そこで終わった。


  亜矢翔の身体が崩れ、黒い霧となって空へと還る。

 哀れで、醜くて、それでも――誰かに愛されたかった者の、末路だった。


 ミネルは、その消えた空間にしばし手を伸ばし続けていた。

 何も残っていないのに、指先にはまだ、温もりの幻が残っている。

 胸の奥にぽっかりと穴が空き、呼吸がひどく遠く感じられた。


 だが、その虚ろを裂くように――咆哮。


 ローレの暴走は、止まらない。


「ローレ!」


 ミネルが振り返る。その瞳にはまだ亜矢翔の影が揺れている。

 だが、そこにいるのは“理性”を捨てた漆黒の影だけだった。


「ミネル、下がれ!」


 タオが叫び、蓮の腕を引こうとする。

 彼の額には汗がにじみ、ローレの殺気が肌を焼くように突き刺さっていた。


「ローレ……やめろ……!」


 蓮の声は震えていた。

 父を託し、仲間を信じて戦うと決めたはずなのに――その仲間が、今はすべてを壊そうとしている。


 「聞こえてるなら応えてくれ……もう、敵はいない……!」


 けれど返事はなかった。暴走の影が空間ごと呑み込み、地が裂け、空がきしむ。

 ミネルはまだ膝をついたまま、蓮たちの背を見ていた。

   ミネルの胸には、ひとり分の温もりが消えた穴があった。

 そこへ、黒い風が吹き込む。


 ――次に呑まれるのは、誰だ。


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